[リサーチ]
考察クロスコンプライアンス①
環境配慮を強化、日本も
2024年4月1日(月)
日本農業新聞GXみどり 9ページ
総合地球環境学研究所 特任教授
荘林幹太郎氏
農水省は4月1日から、全ての補助事業などに対して「クロスコンプライアンス」(CP)を試行的に導入する。
CPについて、農水省は補助金などの交付を受ける場合、みどりの食料システム法の基本方針に示された「農林漁業に由来する環境負荷に総合的に配慮するための基本的な取組」のうち、最低限の内容について①取り組む内容を事業申請時にチェックシートで提出②実際に取り組んだ内容を事業実施後に報告することを義務化-と定義した。試行初年度の2024年度は、事業申請時のチェックシート提出だけとした。
CPは、1980年代に米国で導入され、欧州連合(EU) では2005年から、加盟国に導入が義務付けられるなど国際的に普及が進んだ。
筆者は、農水省がCPを導入すること自体は高く評価するが、その考え方や方法には改善の余地があると考える「立揚」にある。
「立場」という、やや主観的な表現を取るには理由がある。CPの原理的な意味合いを踏まえると、その検討に当たっては、農業に対しての支援を、社会としてどのように考えるのかという視座が必要になる。そのような考え方は「価値観」と切り離すことはできない。換言するとCPは、農業に対する社会全体の価値観の反映として捉えることも可能であり、「立場」と表現する理由はそこにある。
今回から、CPが農業と環境保全などの社会的な関心事項の関係性にどのような影響を与えるか、総合地球環境学研究所特任教授の荘林幹太郎氏が解説する。(6回連載)
しょうばやし・みきたろう
東京大学大学院修土課程を修了後、1982年に農水省入省。
世界銀行、経済協力開発機構(OECD) 、滋賀県庁などを経て2007年から学習院女子大学教授。2017年から同学副学長を経て、2023年から総合地球環境学研究所特任教授。
専門は農業環境・資源政策。
[リサーチ]
考察クロスコンプライアンス②
“クロス”が意味するもの
2024年4月8日(月)
日本農業新聞GXみどり 9ページ
総合地球環境学研究所 特任教授
荘林幹太郎氏
補助事業などに対する「クロスコンプライアンス」(CP)は、農業部門の固有の政策といえる。コンプライアンス(法令順守)の前に交差するというニュアンスのあるクロスを置くのは、支援目的と異なる要件として、支授対象にCPを付与という意味がある。
産業部門全体を見渡すと、企業や生産者に、さまざまな環境的規制などが課せられている。しかし、農業部門のように、生産者に対する財政支援が常態となっている産業は珍しい。このため、CPは農業部門だから課し得る特徴的な規制となっている。
では、なぜCPを課す必要があるのか。生産者に対する財政的な政府支援が存在するからCPを課すことが「できる」ことは、必ずしも「課す必要がある」ことは意味しない。CPと同様の条件順守を一般的な規制として求めることは可能であり、実際、他の産業部門ではそのような対応が行われている。
この疑問に対しては、二つの説明が行われることが多い。―つは、財政的な政策支援とひも付けることで、順守をより強力に求めることが可能となる。多くの国・地域のCPでは、順守ができなかった場合、CPが対象とする財政支援の減額などのペナルティーを科すことが一般的で、これが生産者による順守への強い動機付けとなっている。
もう一つは、CPが対象とする財政支援の正当性を高めるという説明になる。欧州連合(EU) の揚合、CPの対象となる中心的な政府支援は、農家の所得支持のための直接支払いになる。他の産業部門には見られないこの直接支払いに対し、納税者の理解を得るために、CPを付すことで所得支持以外の公益効果を生み出そうとしている。
農政に大きな財政資金を投じる国などで提唱されている「公的資金は公共財のために」というスローガンとも整合する考えといえる。
[リサーチ]
考察クロスコンプライアンス③
望ましい内容•水準とは
2024年4月22日(月)
日本農業新聞GXみどり 9ページ
総合地球環境学研究所 特任教授
荘林幹太郎氏
前回までの「クロスコンプライアンス」(CP)の定義や意味合いに関する議論を考えると、CPの内容や水準は一義的に定まるものではなく、対象となる政府の財政支授(補助金)の量や種類によって異なることが理解できるだろう。
例えば、CPの内容を日本のように環境負荷低減に限定する必要はない。実際、CPを最も包括的に導入してきた欧州連合(EU)では、所得支持を目的とする直接支払いに対するCPには、農業の有する環境にプラスの効果の維持や、環境に直接関係しない動物福祉などの項目も合まれてきた。対象となる財政支援の目的が単一であるが故に、逆にCPの内容面での自由度は大きいとも考えられる。
さらに、対象となる財政支援の大小によりCPの水準も異なる。財政支援の水準が小さい時に高い水準のCPを設定すると、その財政支援の目的を損なう可能性があるからだ。
EUのように、圧倒的大多数の農家が所得支持のための高水準の直接支払いを受給している場合は、直接支払いを受給しないという選択肢がないような範囲で野心的なCPを設定することは可能となる。一方で、低過ぎるCPは対象となる財政支授に対する納税者の信頼を揺らがせる懸念がある。
このような原理的な観点を踏まえると、現在予定されている農水省の各種補助金に対しての一律のCPを課すことの適切性について議論を深める必要がある。
日本の農業政策の中で、各種の財政支援政策が果たす役割やその程度、農業と環境、あるいは農業とその他の社会的事項との関保性をより良くする必要性などを総合的に勘案した上で、適切なCPについての議論が試行期間に深まることを期待したい。
財政支援の圧倒的大部分が高い水準の、かつ単一目的である所得支持に向けられているEUとは異なるアプローチが求められる。
[リサーチ]
考察クロスコンプライアンス④
制度を超える重要なもの
2024年4月29日(月)
日本農業新聞GXみどり 9ページ
総合地球環境学研究所 特任教授
荘林幹太郎氏
「クロスコンプライアンス」(CP)自体は、さまざまな規制的措置の履行手法の一つに過ぎない。CPの先進地域とされる欧州連合(EU)では2021年に改定された共通農業政策の下で、CPという用語を撤廃し、これまでのCPの水準を実質的に引き上げて「コンディショナリティ」と呼称している。これは財政支援の目的をより包括的にして、正当性を強化しようとする動きの反映とも考えられる。
CPの背後にある、より本質的な意味合いを見いだす重要性が高まっている。少なくともEUの共通農業政策の枠組みで見れば、CPは農業と環境や、その他の社会的事項の関係性に関しての農家と社会の「責任の境界線」を表している。
先進国の農政について、最も総合的な政策議論を担ってきた経済協力開発機構(OECD)では、このラインを「レファランスレベル」と表現している。レファランスレベルまでは農家の責任で関係性を改善し、レファランスレベル以上は社会の責任として、そこに発生する農家の負担(生産費の増加や所得の減少)を財政で全額補塡(ほてん)する(環境支払い)。
筆者は、連載初回でCPの導入を評価しつつ、2024年度から試行される同制度の内容について改善の余地が大きいと考える「立場」であるとした。これまでのCP議論が示す通り、CPの決定には対象となる財政支援の規模や目的、農業と環境やその他の社会的事項との関係性の改善に対する社会的需要などさまざまな要素が関係する。
これを包括的に表現するなら、レファランスレベルは、農業と「社会」がどのように共存するかを広く示すものだ。そこには多様な価値観が関与するからこそ、「立場」と表現した。レファランスレベルの設定は、そのような価値観を巡る社会的な合意を図るもので、社会の深い議論が求められる
[リサーチ]
考察クロスコンプライアンス⑤
環境負担の在り方を探る
2024年5月6日(月)
日本農業新聞GXみどり 9ページ
総合地球環境学研究所 特任教授
荘林幹太郎氏
クロスコンプライアンス(CP)の本質が社会と農家の責任の境界線示すレファランスレベル(RL)とすると、CPを課す最大の目的はそれを可能な限り広く適用することにある。一部の農家や地域での適用にとどまることは適切ではない。
一方、CPの内容や水準は、それが課される対象となる財政支援の大きさに依存せざるを得ない。この結果、高い水準のCP設定が困難なケースが多い。
それに対してCP水準を低く設定せざるを得ない場合、農業と環境負荷のみならず、農業と多面的機能、農業とさまざまな社会的便益との関係性を改善するためにCPを超える行為を農家に求める切実性は高まり、農家が負担する費用を社会の責任として財政で負担する「環境支払い」を積極的に展開することが求められる。実際、日本を除く多くの経済開発協力機構(OECD)加盟国は、個別農家に対する財政支援の5~20%程度の予算を環境支払いに充当している。この基準で日本の数値を試算すると約0.2%にすぎない。
RLと環境支払いの関係性を具体的に見てみよう。滋賀県は2007年度から農業排水路に堰板(せきいた)などを設置し排水路水位を上昇させ、琵琶湖固有種のニゴロブナを水田に遡上(そじょう)させる農家に対する環境支払いを県単独事業として導入した。湖畔の水田約200ヘクタールという広範囲で行っている。RLを遡上を可能にする堰上げの実施か、通常の営農で求められる低水位にする選択肢があり、後者を暗黙のレファランスレベルとした。ニゴロブナの産卵数を増加させる社会的サービスの供給を農家のみの責に課すことは適切性を欠くという判断である。
このようにRL(あるいはCP)の設定や、その環境支払いでの補完に係る適切な制度設計には、農業とその他の価値の関係性の改善に伴う費用を社会としてどのように分担するかという観点が必須になる。
[リサーチ]
考察クロスコンプライアンス⑥
農業価値で国民的議論を
2024年5月20日(月)
日本農業新聞GXみどり 9ページ
総合地球環境学研究所 特任教授
荘林幹太郎氏
クロスコンプライアンス(CP)は補助金の単なる追加的受給要件ではなく、根源的には農業と多様な社会的価値に関する農家と社会の間の責任の境界線を示すレファランスレベル(RL)である。このような観点に立つと、CPを導入すること自体は高く評価されるべきである。明確なRLを広範囲に設定することで、農業の有する社会的価値が顕在化し農政への理解が深まることが期待できる。
一方、CPの試行期間中に議論すべき重要な論点がある。日本における農家の手取りに占める財政的な支援部分の割合は、欧州連合(EU)などよりも小さく高い水準のCPを課しにくい。このような条件下で農家への過度な負担を避けつつ、意味のあるRLの水準を広範囲に設定・確保するには、補助金の性格などに応じたCPの内容や水準を精査すべきであろう。
例えば、水田とそれ以外の作物間で、また異なる地域間で同一のCPを適用することの妥当性などの検討が含まれる。とりわけ気候条件などが異なることを反映し、水管理施設などのインフラの保全管理のための財政負担は、農産物生産額との比較でEUの20倍程度となっている。
これらの関連補助金については、特に水でつながる水田地域での自然資本の確保・活用・充実という観点からもCPの設定水準や方法を論議するべきであろう。
さらに環境負荷軽減に限定せず、その他の社会的価値に関するRLの設定も議論の対象にすべきである。そしてRLを超える部分に対しての環境支払いの他国に比するボリュームへの劇的な増額や方法のあり方を、排出権市場との整合性などにも配意しながら徹底的に議論する必要がある。
これらの論点の検討は、広くは日本での真に持続的な農業・農村の在り方を考える作業でもある。みどりの食料システム戦略やCPの導入を契機として、この点に関する国民的な議論が喚起されることを強く期待する。