わたしの履歴書


ご質問があればメールをお送りください。

それは多良岳から始まった

長崎県と佐賀県の県境に、標高1000メートルほどの多良岳という山があります。初めてその山に登ったのは中学生の時でした。「高校3年生」という歌がはやった高校3年生のときにもその山に登りました。長崎西高に登山部なるものが設立されて始めての登山でした。部員を募集したら信じられないくらい大勢の仲間が集まり、その手始めの活動でした。 八郎岳

その時の多良岳は、それまでわたしが何度も登ったことがある長崎市内にある金比羅山や稲佐山、さらに中学生の時に登った多良岳とは全く異なっていました。山道は細く、また、途中で激しい雨に降られました。疲労困憊して動けなくなった仲間がでたこと、彼をおぶって歩いた登山部の顧問の先生、暗くなってからテント地に着いたこと、真っ暗な中でのそれからのキャンプ地の設営、と全く初めての経験の連続でした。

今から考えてもなぜだかよくわかりませんが、大学へ進んだら山岳部へ入ろうと決めました。大学山岳部のしごき事件や遭難事件などが新聞紙上をにぎわしていた時代でしたが、それは充実した生活でした。一年のうち150日くらいは山の中で過ごしていました。「学部はどちら?」ときかれると「山岳部です」と答える日々でした。 南極クレバス

山岳部の中に極地研究会という活動があり、それに出席しているうちに南極に行きたくなりました。行くためには北海道の大学の大学院に進むのが早道だとわかり、津軽海峡を渡りました。幸い希望通り南極へ行くことができましたが、帰ってきたときに当時の指導教官から「中尾君は南極に行くためにここに来たんだろう?次は何をするの?」と聞かれました。

南極が契機になって氷河を調べる暮らしも悪くないと思うようになっていましたので、つぎにヒマラヤの氷河調査に出かけました。

ヒドン

こうなると次から次にしたいことが出てくるものです。北大の大学院卒業後は、カナダの国立科学院の研究所に職を得ることができました。おかげで、何度も北極へ行くこともできました。また、当時日本からの参加がかなり困難な国際学会への参加も何度も経験できましたし、多くの海外の友人を得ることもできました。。

カナダで研究公務員として3年間務めた後に日本へ帰国しました。幸い大学に職を得て、ふたたび南極やヒマラヤへ出かける機会を得ました。

最近では、ユーラシア大陸の真ん中にある氷河地帯から砂漠地帯をつないだフィールドに出かける日々を過ごしました。そこでは、遠く2000年の昔から遊牧の民と農耕の民とが苛酷な環境の中で過ごしてきたその生き様を、自然環境との相互作用という視点で捉えなおそうとしたのです。

こんな人生の始まりは、多良岳でした。

(長崎県立長崎西高等学校 同窓会誌より(一部修正))

情報通信技術の進歩と南極観測

KC車上での交信

最近数十年間における情報通信技術の進歩にはめざましいものがあります。第1次南極地域観測隊を乗せた「宗谷」が東京の晴海埠頭を出発した60年前の1956年には、パソコンはもちろん四則演算ができる電卓すらありませんでした。

その14年後、1970年11月25日、三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をしたその日に、わたしたち12次隊は、晴海埠頭を「ふじ」で出港しました。12次隊でのわたしたち雪氷部門の仕事は、南極の大陸上に新たに内陸基地を建設し、そこで氷床掘削を行って深い雪氷試料を採取するというものでした。 ・・・全文を読む

青春のたまり場

60年ほど昔、わが国の第1次南極地域観測隊員の乗った「宗谷」は、1956年11月に晴海埠頭を出発しました。翌1957年1月にはオングル島に昭和基地を開設し、そのまま越冬隊員11人は基地に残りました。彼らは、過酷な南極の自然の中で、1年間を生き抜いたのです。越冬隊員が帰国した1958年だったと思いますが、越冬隊の活動の様子を記録した映画が全国で上映されました。長崎で当時小学生だったわたしも見る機会を得ました。子供ながらに、吠える40度、狂う50度といわれる「宗谷」の海路や、真冬の南極の厳しさ、雪と氷だけの世界に衝撃と感動を受けたものでした。 ・・・全文を読む

わたしの乗馬術

子供の頃に馬という動物を間近に見たことはある。しかし騎乗して馬を走らせるということは、わたしにとっては時代劇か西部劇の映画の中の世界であり、当然経験もない。アン・ダワは馬に乗ったことがあるそうで、さほど難しくないから経験のないわたしでも大丈夫だという。一抹の心配はあったが、一日の時間短縮になるということに惹かれて馬を借りることにした。  馬を前進させるには靴のかかとで馬のメ腹を蹴ること、停止させるには左右の手綱を同時に引っ張ること、などの基本操作をアン・ダワが教えてくれた。

モンゴルの少年

とはいえ、わたしが相手にしているのは生き物なのだと痛感させられた。馬は機械ではない。自分の意思を持っているのだ。アン・ダワに言われたようにメ腹を蹴っても、歩き出す気配もない。何度試みても同じであった。そのうち勝手に歩きだした。彼が歩きたくなったからであろう。左右の手綱の引っ張り具合を変化させて、進行方向をある程度コントロールすることはできた。しかしわたしの指示とは無関係に、草が食べたくなると道ばたにある草の方へと歩いて行っては草を食べる。時には河原に近づいては水を飲む。自分の意思で動いているだけなのだ。 ・・・全文を読む

しあわせ

主要な著書など

・・・リストを見る

ホームに戻る