青春のたまり場



ご質問やご意見はメールをお寄せください。

青春のたまり場

南極から雪と氷の世界へ

60年ほど昔、わが国の第1次南極地域観測隊員の乗った「宗谷」は、1956年11月に晴海埠頭を出発しました。翌1957年1月にはオングル島に昭和基地を開設し、そのまま越冬隊員11人は基地に残りました。彼らは、過酷な南極の自然の中で、1年間を生き抜いたのです。越冬隊員が帰国した1958年だったと思いますが、越冬隊の活動の様子を記録した映画が全国で上映されました。長崎で当時小学生だったわたしも見る機会を得ました。子供ながらに、吠える40度、狂う50度といわれる「宗谷」の海路や、真冬の南極の厳しさ、雪と氷だけの世界に衝撃と感動を受けたものでした。

長崎の高校を出て、京都の大学で山岳部に入りました。山岳部では、週に一度のペースで南極研究会という会合がもたれていました。そこでは、イギリスの探検家シャクルトンのサウスという英語の本を輪読していました。聞けば、当時は未踏峰だった南極大陸の最高峰ヴィンソン峰の初登頂を目指して、南極のことを勉強しているのだとか。その頃南極に関する日本語の文献など多くはなく、英語文献の輪読となっていたのでした。

その研究会が開催されていたのは、当時、同志社大学の講師だった北村泰一さんの研究室でした。オーロラ観測や犬ぞりを担当した1次の越冬隊員だった方です。北村さんのところには、同じく1次隊で気象観測を担当していた村越望さんが遊びに来られることもありました。子供の頃に見たあの南極の映画の世界が急に身近に感じられるようになったのです。

ヴィンソン峰は、わたしが南極研究会に入った翌年の1966年にアメリカ隊によって登頂されてしまいました。しかし、わたしにとっての南極の夢は益々膨らんできていました。大学卒業後、南極に行く道はないかといろんな人に相談しました。そして、北海道大学の低温科学研究所が中心となって南極のプロジェクトを始めたから、大学院で低温研に行ったら南極に行けるのではないかという情報を得ました。

そのプロジェクトは、エンダービーランド計画とよばれていました。10次隊と11次隊と2年かけて大陸氷の上に立てた旗竿の精密測量を行い、各4年後、14次隊と15次隊がその旗竿の測量をもう一度繰り返して4年間での竹竿列の移動量を観測し、そこから大陸氷の流動速度を求める計画です。同時に行う、南極氷床表面での雪の堆積量の観測データとあわせて、エンダービーランド地域における大陸氷の質量収支を明らかにしようというプロジェクトでした。

南極行きを目指してわたしが北大の大学院に入ったのは、半年後に11次隊が出発する1969年の春でした。ところが、翌年および翌々年の12次隊と13次隊とではエンダービーランド計画の観測は休む予定だというのです。観測計画がないのだから、隊員の派遣は行わないとのこと。愕然としました。南極に行けないのなら、何のために北大に来たのかわかりません。

しかし天はわたしを見捨てませんでした。アメリカがグリーンランドで深い氷のコア試料の掘削を行い、その試料を解析することによって、氷床氷の氷化過程や過去の環境情報を得る研究を始めたというニュースが届いたのです。幸いわが国の南極観測では12次隊と13次隊とは雪氷の計画が空白です。その2ヶ年をかけて南極での氷床深層掘削を行ってはどうかという案が持ち上がったのです。まさに天の配剤でした。

深さ10mの手持ちの南極コア試料を使って、コア試料解析のトレーニングが計画されました。雪氷コア試料でどんな解析ができるのか、何の情報が得られるのか、どれくらいの早さで解析可能かなどを調べる低温室での作業です。南極の雪氷コア試料を採取・解析する計画が実現したら、きちんと解析が可能であり、この計画を南極観測の中に入れて欲しいという、デモンストレーションともいえる作業でした。結果として、氷床コア掘削・解析計画を12次、13次隊で行うという案がわが国の南極観測計画の中に位置づけられ、承認されたのでした。

低温科学研究所での修士課程の指導教官であった黒岩大助先生は、わたしを南極に行かせるために、12次隊の隊長予定者であった東京大学の小口高先生との直接交渉など、実に様々な努力をしてくださいました。その甲斐もあって、後にみずほ基地と呼ばれる内陸基地の建設とそこでの雪氷コア試料掘削のために、山田知充さんなどとともに南極に行くことができたのです。黒岩先生がわたしに課した南極での課題は、「マッシブな雪と氷の世界を見て、感じてきてください!」ということだけでした。 南極大陸

こうして、小学生の時にあこがれた、見渡す限りの雪と氷の世界に圧倒されるという体験をすることができたのです。大陸沿岸部で一種の谷氷河を初めて見る機会も得ました。南極を感じるためにだけ南極に来たわたしでしたが、こうして圧倒的な雪と氷の世界に触れるうちに、雪や氷を対象とする研究生活をおくるのも悪くないかもしれないと感じました。氷河を対象とする研究をしようかなと思い始めたのです。南極から帰国してすぐに日本雪氷学会に入会しました。

わたし達12次隊が南極に出発した時には、わが国の南極観測は国立科学博物館の中にある極地部という部署が担当していました。越冬中に、国立極地研究センターという組織ができました。帰国の翌年1973年には、それが国立極地研究所として改組されました。わが国の南極観測を担う中核組織が誕生したわけです。極地研と交渉して、日本の南極観測、特に雪氷に係わる今後の計画の立案や各年度の活動になんとか自分たちの意向を反映させたいという機運が、エンダービーランド計画に参加した当時の若手を中心に、盛り上がってきていました。

南極からの帰国後、わたしはエンダービーランド計画の事務局役を仰せつかっていました。そのため、極地研と交渉するための学会側の組織を何とか考えろと、エンダービーランド計画を動かしていた鈴木義男さんや渡辺興亜さんなどの先生方に命じられました。

そこで、当時雪氷学会東京本部におられた石原事務局長と交渉しました。その結果、雪氷学会の中に分科会というものを設置して、極地観測に対応するという案が実現できたのです。学会内に極地雪氷分科会という組織ができました。こうして、極地雪氷分科会で南極の計画を立案し、極地研と交渉してその実現を図るというスタイルが確立しました。その後実現した北大工学部の東晃先生を代表とする東クイーンモードランド計画や渡辺興亜さんを代表とするドーム計画などの南極観測計画は、こうして立ち上げることができた計画でした。

その後、学会内に様々な分科会が設立されました。その結果、南極観測に限らず、学会の分科会という場を利用して、専門を同じくする仲間が相互に交流し、分野毎の研究の発展を図られておられることを嬉しく拝見しています。分科会という形の場を雪氷学会の中に位置づけることができた青春の1ページを誇りに思っています。

ヒマラヤの氷河とBGR ヒマラヤの氷河

上述のように、南極観測への参加が契機となって氷河研究を志したわけです。しかしなんとなく、南極の氷河しか知らないのはまずかろうと思っていました。その矢先に、京都大学学士山岳会による、ヒマラヤで最後の8000メートル峰ともいえるヤルンカンの初登頂を目指す遠征計画が持ち上がりました。ヒマラヤの氷河を見るチャンスです。

ちょうどその頃、なごや大学と京都大学の大学院生などが中心となって比較氷河研究会という研究会が開かれていました。文献調査をもとにした研究会を重ねていたのですが、「現地に行かなきゃわからない、行くべし!」という気運がみなぎっていたのです(比較氷河研究会、1973)。そして、GEN(Glaciological Expedition of Nepal)と呼ばれる現地調査がまさに開始されようとしていました。

表面デブリ

この二つの動きに助けられて、南極から帰った翌年にヒマラヤに行くことができました。初めて立ったヒマラヤの氷河は、ヤルンカンから流下するヤルン氷河でした。氷河の脇にはヤルンカン遠征隊の総隊長であった西堀栄三郎さんが滞在しておられました。奇しくも、西堀さんは第1次南極越冬隊の隊長でもあった方です。

南極の氷河しか知らなかったわたしにとって、ヤルン氷河は驚きの氷河でした。はじめはそれが氷河だとは全くわかりませんでした。高度順化のために登った尾根から見下ろして、ひょっとしたらこれも氷河なのかもしれないと感じる始末でした。その表面は岩や礫、砂などがあるだけです。遠く離れた場所から眺めて初めて、氷が流れる「普通の」氷河に形が似ているから、氷河かもしれないと思えるのです。これが、表面が堆積物に覆われた、いわゆるデブリ氷河との出会いでした。

クンブ氷河

上田豊さんなどによるヤルンカン初登頂を見届けた後、エベレスト街道沿いクンブ地方におけるGENの氷河調査活動に合流しました。今は亡き井上治郎さんなどと行ったその調査でも、エベレスト登山のルート上にあるクンブ氷河を始め、大型の氷河はすべてデブリ氷河だということを知りました。「デブリ氷河がわからないとヒマラヤの氷河がわかったことにはならない」と強く思った次第です。その後1990年代に機会を得て、坂井亜規子さんやビルバル・ラナさんなど、日本やネパールの当時の若者の助けを借りて、デブリ氷河の研究を進めることができたのは実に幸せでした。

デブリ氷河と出会った翌年の1974年には博士課程に進学しました。博士課程の指導教官であった若浜五郎先生のご尽力もあり、GENの活動の一環として翌年も続けてヒマラヤへ行くことができました。行き先はカリガンダキの奥にあるヒドゥンバレーと呼ばれる谷です。パートナーは当時なごや大学の大学院生だった藤井理行さんでした。藤井さんは、酒と高度に極端に弱いというどうしようもない欠点がありました。しかしその後も、かけがえのない青春時代をともに過ごすことになる仲間となったのです。それ以来、様々な局面で助けて貰うことになります。

ヤルンカン遠征隊やGENに限らず、第二次大戦後、わが国では海外学術調査が活発に行なわれてきました。自由に海外渡航ができない時代にあって、登山や探検という機会を捉えて、複数の学問分野に根ざした調査を組み合わせた学術調査活動です。対象となる地域の生物、地理や地形、そこに住む人々の暮しや文化など種々の属性を、様々な研究分野の専門家がそれぞれのやり方で調査、解明してきたのです。初期には、それら複数の学問分野が有機的に結合していなかったようです。しかし、個別の学問領域にとらわれず、地域に根ざした、トータルな有機的な理解を目指す方向へと次第に進化していったように感じています。

GENの活動も、雪氷や気象、水文、地理、地形、生物などの研究分野や、シェルパ族などチベット系山岳民族の動態なども含めて、比較的広い分野をカバーしていた点では一般的な海外学術調査が培ってきた特質と共通していたようです。

GENの成果を英文で出版する適当な雑誌が当時ありませんでした。そこでGENの活動が一段落した時に、GENを先導しておられたなごや大学の樋口敬二先生のご尽力により、「雪氷」の特別号としてGENの成果を英文で発刊して貰うことができました。しかし今後のことを考えると、英文で発表できる何らかの雑誌が欲しいという機運が盛り上がってきたことは否めませんでした。英文の雑誌ということだけなら、国際雪氷学会(IGS: International Glaciological Society)の機関誌、Journal of Glaciologyなどもありました。しかし上述したように、ヒマラヤという地域のトータルな理解を目指して、広い研究領域をカバーするものではありません。今でいうところの、分野横断的な総合誌的な性格を持つ英文誌が欲しいと願ったわけです。

こうしてBGR(Bulletin of Glacier Research)が誕生しました。雑誌のタイトルや発刊の目的と理念、編集体制や査読者の選考方法、諸外国との交流のあり方、資金のめど、雪氷学会の中での位置づけ等々、検討することは実に沢山ありました。この時には、カナダ国立研究院に勤めていた頃に知り合った、ゴードン・ヤングさんやフリッツ・カーナーさんなど多くの海外の友人に助けて貰いました。さらに表紙のデザインや印刷会社の選定や交渉、原稿募集や編集という実務的な仕事など、発刊に至るまでの多くの課題がありました。時にぶつかり、時に傷つけあったこともあったかもしれない仲間たちとの議論の数々でした。でも、成田英器さんなど沢山の友人とともに進む、まさに青春でもありました。

BGR創刊時にわたしが学んだことは、何かを企画するときに最も力を入れなければいけないことは、そのことをなぜ行うのかという理念を、最優先で検討すべし、ということでした。目的や趣旨がはっきりしていれば、その後次々に起きてくる問題に対処するときに、何々のために行うのだから、ということで、いとも簡単に答が見つかるのです。理念があやふやなままスタートすると、次々に出現してくる諸問題すべてに、膨大な時間をかけて毎回議論・検討せざるを得なくなるということでした。

時代はめぐり、雪氷学会もそのメンバーである地球惑星科学連合が2005年に誕生しました。地惑連合では、新たに英文誌を創刊したところです。当然ながら雪氷学会も新雑誌への協力を求められています。何を目指して、どのような雑誌であるべきかという性格付などもBGRと深く関わってきます。以下で述べる防災研究や地球環境問題との関わりも含めて、BGR発行の目的も、創刊時のままで良いとは限りません。今後を担う雪氷学会のみなさんがBGRの今後の姿をどのように考え、行動されるのか、楽しみにしています。

防災研究と地球環境問題

雪氷研究は、物性科学的側面と防災研究的側面そして地球科学的側面があるといわれてきました。わたしが知る限り、物性科学にはその立ち位置に今のところ大きな変化が現れてはいないようです。しかし防災研究と地球科学における取り組みは、最近その根本が大きく変ってきています。

長岡の旧雪害実験研究所におられた中村勉さんのおかげで、わたしも防災研究に携わる機会を得ることができました。わが国の防災研究が大きく舵を切ったのは、2011年の東日本大震災が重大な契機となっています(中尾、2012)。災害に関する素過程研究によって災害発生のメカニズムを明らかにし、その知見に基づいて防災・減災のための研究と実践を進める、というのが従来の考え方でした。それが、大震災によって修正せざるを得なくなったのです。防災・減災のために何を研究すべきかからスタートして、メカニズム解明が必要なら、その位置づけを明らかにした上で研究を進めるべし、と考えられるようになってきたのです。従来とは真逆の発想です。

そのため、防災研究に係わる専門領域が、個々の災害のメカニズムに対応する地震学や気象学、水文学など理系の専門分野に限らず、情報学や経済学、さらには社会関係資本などを扱う社会学や政治学など文系の専門分野が、従来以上に必要かつ重要との認識が深まってきつつあります。

地球科学の分野でも、一時の花形であったプレートテクトニクスから、いわゆる地球環境問題への取り組みが中心となってきました。地球環境問題に係わる研究も、初めのうちは温暖化メカニズムの解明から数値計算による今後の温暖化予測などが花形でした。しかし、温暖化の影響評価や対策の検討という社会的ニーズの広がりにつれて、文系的な学問との協働が強く求められてきました。

おりしも、2015年の国連気候変動枠組み条約第21回締結国会議(COP21)で採択されたパリ協定は、翌2016年11月4日に発効したばかりです。まだルールがはっきり決まってはいませんが、京都議定書と異なり、先進国と途上国の両者を縛る画期的な協定書だと考えられています。

たとえばこの協定書に係わるルールの構築には、政治的な駆け引きだけではなく、文系理系両分野の協働による学問的検討がどうしても必要です。しかしこの温暖化問題に関しても、文系の学問からは、経済学や法学などどちらかといえば実学的な分野の参入は進んでいますが、文系中の文系である人文学などの分野はいまだに環境問題とは無縁だと考える人が大部分です。地球環境問題に直面している今後の地球を考えるには、認識論や価値観を進化させる人文学的な学問こそが主役であるはずなのにです。

たとえば従来から地球環境問題に取り組んできた理系の学問の提唱で数年前に開始されたFuture Earthとよばれる国際共同研究の枠組みがあります。しかし人文学の国際組織であるCHRC(Consortium of Humanities Centers and Institutes)の中でも、環境問題に特に関心の高い環境部会のメンバーでさえ全く認知すらしていませんでした。理系を中心とするFuture Earth側がまさに人文中の人文であるHumanityの分野は必要がないと決めつけて、全く働きかけをしなかったからではないかとしか考えられません。

そういう意味では、2001年に大学共同利用機関として出発した地球研(総合地球環境学研究所)の研究プロジェクトの方がまだ進んでいるようです。地域を総合的に捉え、地域から地球を考えるというスタンスです。地球研の取り組みの一例を参照して頂ければ幸いです(中尾、2016)。そこで展開される、多分野の協働によって物事を総合的な理解したいという要求は、BGRの創刊の欄で述べたことの延長線上にあるのではないかと思います。

ページ数の関係もあって、防災研究や地球環境問題との関わりなど最近の話題はかなりはしょりましたが、功績賞を頂戴して、青春時代と当時の仲間達とのあれこれをふり返る機会を与えて頂いたことに深く感謝いたします。

述べてきましたように、雪氷学会は、ともに過ごした仲間達とわたしの青春のたまり場だったような気がします。今後も、引き続き新たなページを書き加えていきたいと思います。雪氷学会が、会員のみなさんに、引き続き青春のたまり場を提供する組織であり続けて頂きたいと祈念して筆を置きます。ありがとうございました。

最後にわたくしごとですが、南極に始まり、ヒマラヤ、北極、南極、そしてヒマラヤ、中国と続くわたしの研究の歴史を、ともに歩いてきてくれたのは妻の久美子です。研究地域の変遷につれて、、札幌に始まりオタワ、札幌、長岡、なごや,京都、東京、そして再びなごやと住む場所も移り変わってきました。そんな放浪の旅を通して、ずっとわたしと一緒にがんばり続けてくれた妻もまた青春をともに過ごした仲間であり、かけがえのない戦友でした。この自慢の妻にただ感謝です。

参考文献

(2017年2月)

(「雪氷」 79巻1号(2017年)に加筆)

ホームに戻る