中尾正義
ネパール・ヒドンバレーへの旅
1974年4月、北海道大学の大学院生であったわたしは、ヒマラヤの氷河・気象観測のため、前年に引き続いてネパールの首都カトマンズにやってきた。観測予定地は、よく知られた8000メートル峰の一つであるドーラギリの北側に隠れているかのような谷、ヒドンバレー(Hidden Valley)と呼ばれる地域である。パートナーはなごや大学の大学院生、藤井理行さん。同世代の二人による弥次喜多調査旅行であった。
ヒドンバレーに入るには、ネパール第2の都市であるポカラの町から西へと向い、インドとチベットとの主要交易路であるカリガンダキと呼ばれる河沿いに北上してドーラギリ峰の東を迂回する。チベットに接するムスタン地域の手前にあるトゥクチェという集落から西方の尾根を登り、標高5000mのダンブシ峠を越えればドーラギリ峰の裏側にあるヒドンバレーに入り込むことができる。
前年の1973年に、わたしたちは英語ではエベレスト(ネパールではサガルマータ、中国ではチョモランマと呼ばれる)という世界最高峰を擁するクンブ地域で氷河・気象観測を始めていた。しかしヒドンバレーは初めての調査地域である。多くの外国人が足を踏み入れるクンブ地域とは違い、当時はトレッカーも比較的少なく、そこでの調査許可をネパール政府から得るのは簡単ではなかった。
農業国ネパールの水資源にとって、氷河というものが果たす重要な役割を政府のお役人に理解して貰うことがまず必要であった。加えて、氷河変動の実態を知るためには、ネパール東部のクンブ地域と西部地域とを比べる東西比較が大切だと訴えて、新たに西部地域での調査許可を申請したのだった。説明を幾度も繰り返して、何とか調査許可を貰えそうだという所までこぎつけた。あとは、実際に許可を出して貰うという事務手続きだけが残るはずだったが、もう一つ難問が控えていた。
ヒマラヤの高峰を国内に多数有するネパールでは、当時多くの外国隊による登山活動が盛んであった。ネパール政府は、リエゾンオフィサー(以下リエゾンと略す)と呼ばれる外国隊へのお目付役を登山隊に派遣して同行させるのを常としていた。これまでリエゾンはネパール国軍の軍人もしくは警察官の中から選ばれていた。
わたしたちの氷河・気象の観測活動にも、リエゾンを同行させるという方針が調査許可の条件となった。登山隊に倣って軍人か警官が来るのかと思っていた。しかし、わたしたちの活動は登山とは異なる学術調査である。リエゾンとしては、政府に所属する研究者を派遣するという。ネパール政府には水文気象局という部署があり、水文学や気象学の研究者を多数抱えている。その中から人選するからしばらく待てということだった。
宿で朝食を済ませては中央政府の庁舎を訪ね、「リエゾンは決まりましたか」と尋ね、「まだだ。もうしばらく待て」という答を貰って帰るというのが、それからの日課となった。
水文気象局の研究者のほとんどは、ネワール族と呼ばれるカトマンズ盆地に住むエリート種族の出身である。ヒマラヤの山中に足を踏み入れたことなど全くない都会育ちの高級官僚達だ。リエゾンとして日本人に付き添って、極端な田舎ともいえる山の中に行こうという物好きな研究者はまずいない。人選に難航しているということだった。
調査許可の申請から二ヶ月近くが経過した6月になって、やっとリエゾンの候補者が決まった。新進の気象学者であるマダン・シュレスタさん(M. L. Shrestha)だった。わたしや藤井さんよりも幾分若いがほぼ同世代である。調査活動の許可も政府からやっと正式に下りた。
南アジア特有の雨期であるモンスーンの季節はすぐに始まる。氷河変動に果たすモンスーンの影響を明らかにするために、6月中には現地での観測を始めたかった。出発を急がなくてはならない。
しかし、リエゾンとしてきてくれるシュレスタさんの出発にはまだ数日はかかるという。カトマンズ盆地から出たこともないエリートの彼にしてみれば、初めて行く山の中での2ヶ月以上にわたるテント生活を考えれば、心の準備も含めて、すぐに出発してくれというのは酷な頼みであろう。
われわれの方でも、観測機材以外に二ヶ月間にもわたる観測期間分の食料や燃料などの大量の荷物は、これらを運んでくれるポーターの数にして30人分近くにもなる。その輸送キャラバンは通常のトレッキング以上に時間がかかることも予想された。
そこで、シェルパ頭であるサーダーのアン・ダワ・シェルパとわたしとが大量の荷物とともに先にカトマンズを出発し、シュレスタさんを連れた藤井さんが後発してわれわれを追いかけてもらうことにした。先発隊のわれわれは6月9日にポカラを出発し、トゥクチェに着いたのが6月15日。約1週間のキャラバンであった。藤井さんたち後発隊はまだ追いついて来なかった。
生まれて初めて馬に乗る
トゥクチェでは村長のトラチャンさんのお宅に泊めて頂いた。ネパール有数の大きな渓谷であるカリガンダキも、トゥクチェ辺りまで遡ってくると河の両岸は広い河原を持ち悠々と流れている。チベットに隣接するかつてムスタン王国が栄えたムスタン地方も目と鼻の先なのだ。まだ見たことはなかったが、憧れのチベットの広大な景観につながっているようにも感じられた。
トゥクチェはヒドンバレーに向かう道中最後の人里である。藤井さんたち後発隊を待つ間に、米やトウモロコシ、小麦粉などの主食の他、果物や野菜、生きた羊や鶏ほか卵などの貴重なタンパク源の買い出しなど最後の準備を数日かけて整えた。もういつでも出発できる。
30人ものポーターを引き連れて大量に食料を買い込むわれわれのことはあっという間に地域の人々の噂の種になったようだった。日本人がヒドンバレーへ行くようだということも噂になったらしい。しばらくすると、ヒドンバレーへの立ち入り許可を貰ってくれ、と村長のトラチャンさんから言われた。ネパール政府の調査許可や観光局のトレッキング許可はカトマンズで得ている。しかし現地への入境許可が別途必要で、それを取りに来いと地元政府から言われたとのこと。その許可証はトゥクチェの上流に位置するジョモソンという町の役所で発行してくれるとのことであった。急ぎジョモソンへ行く必要がある。
トゥクチェからジョモソンまでどのくらいかかるか尋ねたところ、日帰りはかなり厳しいらしい。許可証の発行手続きにかかる時間も考えると、1泊2日の行程を考えた方が良いとのこと。藤井さん達の後発隊はまだ到着していないが、今日にも追いついてくるかもしれない。リエゾンがなかなか決まらず、調査許可の取得にカトマンズで手間取ったせいで、モンスーンの開始から終了までの全期間を通して観測しようという調査計画は大幅に遅れている。後発隊がトゥクチェに着き次第ヒドンバレーへと出発したいところなのだ。入境許可証の取得に二日もかけるのは何とももったいない。
その時、サーダーのアン・ダワが言った。「中尾さん、馬を走らせれば充分日帰りできるそうですよ。」広い河原をもつこの辺りのカリガンダキ沿いならば、たしかに馬という手段は威力を発揮するかもしれない。
子供の頃に馬という動物を間近に見たことはある。当時は馬が荷車を引く馬車も珍しいものではなかった。しかし騎乗して馬を走らせるということは、わたしにとっては時代劇か西部劇の映画の中の世界であり、当然経験もない。アン・ダワは馬に乗ったことがあるそうで、さほど難しくないから経験のないわたしでも大丈夫だという。一抹の心配はあったが、一日の時間短縮になるということに惹かれて馬を借りることにした。
アン・ダワは早速2頭の馬を手配してくれた。1頭は彼が乗るために、そしてもう1頭はわたしが乗るためのものである。やってきた馬にはすでに鞍やあぶみがとりつけてあった。立派な馬の姿をしているが、その大きさはかなり小さい。ポニーほどしかない。そのおかげで、初めてのわたしでも独りで背中にまたがることはできた。馬を前進させるには靴のかかとで馬のメ腹を蹴ること、停止させるには左右の手綱を同時に引っ張ること、などの基本操作をアン・ダワが教えてくれた。
わたしが相手にしているのは生き物なのだと痛感させられた。馬は機械ではない。自分の意思を持っているのだ。アン・ダワに言われたようにメ腹を蹴っても、歩き出す気配もない。何度試みても同じであった。そのうち勝手に歩きだした。彼が歩きたくなったからであろう。左右の手綱の引っ張り具合を変化させて、進行方向をある程度コントロールすることはできた。しかしわたしの指示とは無関係に、草が食べたくなると道ばたにある草の方へと歩いて行っては草を食べる。時には河原に近づいては水を飲む。自分の意思で動いているだけなのだ。こんなことでは、わたし自身の足で歩いてジョモソンまで行く方がよほど早いのではなかろうか。
馬がわたしの指示に全く従わない様子を見ていたのだろう。アン・ダワが騎乗のままわたしの近くまで戻ってきた。そして、いきなり自分の馬を走らせたのだ。するとどうだろう。アン・ダワの馬の後を追って、わたしの馬も負けじとばかりに走り出したのである。その揺れのものすごいこと。両手で手綱を持っていることなど全くできない。振り落とされないように鞍にしがみつくほかはない。馬を停止させようにも、両手で鞍にしがみついているので、左右の手綱を同時に引っ張ることなどできるわけがないのだ。馬が疲れて自分の意思で止るまで鞍にしがみついているほかはない、と思うまもなく、わたしは馬から振り落とされた。サラブレットのような大きな馬でなかったからであろう。落馬をしても大怪我をすることはなかった。
わたしが地面に転がると、馬はすぐに走るのを止めて脇に立ち止まり、わたしの顔を見下ろすのが常であった。その顔は心なしか笑っているように見えた。このようにして、30回以上もの落馬を繰り返しつつジョモソンに昼前に到着した。わたしが自分で歩いてくるのに比べて、所要時間は確かに半分ほどですんだ。
ヒドンバレーへの入境許可証はすぐに発行して貰えた。昼食を終えてからわたしたちはトゥクチェへの帰路についた。すでに勝手知った道中である。アン・ダワが馬を走らせる。わたしの馬がその後を追って走る。わたしは鞍にしがみつく。馬上の揺れにこらえきれずに落馬する。という作業の繰り返しであった。こうして、もうすぐトゥクチェが見えそうだという辺りまで戻ってきた。
そこには、深く街道をえぐって道路を横断する小さな流れができていた。わたしたちがジョモソンにいた間に一種の集中豪雨があったらしい。幅1メートル余りにわたって道路が崩壊して切れてしまっていたのだ。深さ2メートルほどもあるこの流れをどうやって渡れば良いのだろうか。
道路の崩壊幅は、馬の前脚と後脚の間ほどに過ぎない。映画シーンの記憶では、この程度の幅ならば、いとも簡単に馬はジャンプして超えられるはずである。しかし馬を歩かせることすらままならないわたしには、1m余りの幅の溝を馬で飛び越えることなど到底できるわけがない。アン・ダワもわたしも馬を下りる他はなかった。手綱をひいて、馬とともに新たに洪水でできた流れを徒歩で高巻いて、流れの向こう側、トゥクチェへと続く帰りの道へとやっと越えることができたのである。ジャンプさえできればほんの一瞬ですんだはずなのだが、高巻きには1時間以上もの時間を費やした。
乗馬レッスン
この経験によって、今後のわたしの調査活動には乗馬技術が必要なのではないかと思いはじめた。そこでネパールからの帰国後、乗馬術を習得したいと思ったのだった。幸い、妻の友人の一人がずっと乗馬をやっているという。そこで妻と二人で彼女が所属していた乗馬クラブを訪ねた。そして、馬でジャンプする技術を教えて欲しいと頼み込んだのである。
カリガンダキで簡単な馬の操作方法をアン・ダワに聞いただけのわたしである。当然のことだが、ジャンプをするのは10年早いと言われた。それからは、馬への跨がり方、手綱の持ち方、「常歩(なみあし)」という馬の歩かせ方、など乗馬の基本をレッスンして頂いた。乗馬クラブに何回か通って、都合7〜8時間も教えて貰っただろうか。「速歩(はやあし)」と呼ばれる、馬を小走りさせるレッスンも受けた。「速歩」は馬上の上下動が激しく、乗り手はバランスを崩しやすい。そのため、馬の上下動の2回毎に1回はあぶみに体重をかけて幾分立ち上がることによって振動を吸収する「軽速歩(けはやあし)」という走らせ方もできるようになってきた。
ちょうどその頃、わたしは大学院を修了して、カナダの研究所に就職することが決まった。日本を離れるまでの残り少ない時間の中で、実際に試すことは少ししかできなかったが「駈歩(かけあし)」と呼ばれる前脚2脚と後脚2脚とを互いに動かす本格的な走りも幾分かはできるようになってきていた。とはいえ、念願のジャンプ技術の修得はまだまだ遠い夢であった。
わたしが就職したカナダ国立研究院の建築研究所はオタワにあった。オタワはカナダの首都ではあるが、近郊には田園が広がっている。郊外の牧場で、乗馬用の馬を簡単に貸してくれるところがあるという情報を得た。
教えて貰った牧場へ行くと、鞍や手綱を装着した馬をその場ですぐに連れてきてくれた。1時間あたり10ドル支払えば自由に馬を乗り回すことができる。ガイドに従って歩き回ることもできるし、牧場内であれば、独り勝手に馬を走らせることもできる。こうして、カナダ滞在中も乗馬をいくらか続けることができたのである。
馬とのコミュニケーションのためには、乗り手は体重移動のほか手足や腰の動き、手綱さばきや声かけなど全身を使う。その合図は万国共通のようであった。乗馬クラブで教えて貰った馬との会話のやり方はそのままカナダの馬にも通じた。有り難いことに、このことは後に経験する中国やモンゴルの馬たちも同様であった。
3年間にわたるカナダでの滞在を終えて、1980年の暮れにカナダ生まれの息子を連れてわたしたちは帰国した。幸い、翌1981年から北海道大学工学部に教官として職を得ることができた。しばらくして、わたしの所属する研究室に修士課程の大学院生としてなごし正泰さんが入ってきた。わたしは彼の修士論文の指導教官となった。なごしさんは大学入学以来ずっと北大の乗馬部に所属して乗馬をしてきたという。彼には、ヒドンバレーに行った時の経験や、実はジャンプができるようになりたいのだという夢を語ったりもした。
新学期が始まってまもなくであった。新入生をサークルに勧誘する一環だったのか、部員以外の学生や教職員に広く乗馬体験をさせるというイベントを乗馬部が企画した。なごしさんが誘ってくれて、わたしも体験会に参加して乗馬部の馬に乗せて貰うことができた。わたしの騎乗の様子を見ていたなごしさんは「もう少し練習すればジャンプもできるようになりますよ」と言ってくれた。ジャンプの夢がぐっと近づいたのだ。こうして彼はわたしの乗馬の指導教官になったのである。
乗馬部のサークル活動がない時間帯を選んで、なごしさんは一種の特別レッスンをしてくれた。野外調査のために乗馬の技術を覚えたいというわたしのために、馬場の脇に作ってあった小山を騎乗のまま登ったり降りたりするレッスンもしてくれた。実際に野外で遭遇するかもしれない様々な地形への対応技術の一つともいえた。そしてついにジャンプのレッスンもおこなってくれたのである。なごしさんが修士課程を修了して研究室を去るまでの間に、高さ30〜40センチ程の高さなら馬でジャンプして飛び越えられるまでになったのである。
1987年にわたしは科学技術庁傘下の防災科学技術研究所、長岡雪氷防災実験研究所に北海道大学から出向した。地球科学研究を新たに開始した科学技術庁の目玉プロジェクトのひとつ「砂漠化機構の研究」に参加することとなった。そのプロジェクトは、主として途上国で問題になっていた砂漠化のメカニズムを総合的に調査し、砂漠化防止への道筋を付けようというものである。現地調査を行ったのは主に中国国内であった。
プロジェクトの中でのわたしの役割は、氷河から氷試料を採取して、その分析によって砂漠化の歴史を復元することだった。蘭州氷河凍土研究所の韓建康(ハン・ジャンカン)さんが中国側の共同研究者であった。
試料採取をする候補氷河の中には、ジープやランクル等の四輪駆動車を使っても、その末端まで車で近づけるところはまずなかった。車が到達できるぎりぎりの場所で車を降り、その後氷河までの間は、機材や食料の輸送や人の移動などに馬を使うことも多かった。氷河調査に乗馬の技術が今後必要ではないかと感じたカリガンダキでの直感は間違ってはいなかったようだった。
チベットやモンゴルの高原を駆ける
砂漠化機構の研究が一段落した1993年に、わたしは5年半勤務した長岡雪氷防災実験研究所を後にしてなごや大学大気水圏科学研究所に移った。翌年からはネパールと中国両国を対象とする「ヒマラヤ雪氷圏における地球温暖化による影響評価の基礎的研究」を開始した。その調査活動の中で、わたしはチベット高原に初めて足を踏み入れた。憧れのチベットの匂いをかいだ1974年のヒドンバレー調査からちょうど20年が経過していた。
すでに地球温暖化問題が世界的に認識され、観測データの少ないアジア高山帯における調査研究が求められる時代になってきていた。観測手法も格段に進歩していた。とりわけ人工衛星による広域データの取得・活用に注目が集まっていた。
長岡滞在中に知り合いになった、長岡技術科学大学の小池俊雄さんは、雲があっても、衛星から地表の様子を観測できる当時最先端の合成開口レーダ(SAR)のデータ利用を進めていた。わたしのチベット調査にあわせてSARデータを取得するので、衛星データとつきあわせるための地上検証データをチベットで取得して欲しいと小池さんから依頼された。小池さんが指定する地点で、衛星の飛来時刻に合せて、数百メートルにわたって地表の凹凸状態などを微細に測定する仕事である。
現地調査をおこなったのは1994年春の終り頃であった。気温の上昇に連れてチベット高原の凍った土壌は一斉に融解を始め、地表の殆どはぬかるみ状態になる。このため、四輪駆動車といえども融けた凍土に車輪をとられて走行できなくなる。建設時に深く砂利を敷き詰めて造ってある公路以外は、車が立ち入れない季節なのだ。そんな時期に、公路から遠く離れた観測予定地点まで行くのは至難の業である。こんな時に馬の助けがあれば願ってもない。
しかし凍土の融解が進んで地表一帯がぬかるむこの季節は、車だけでなく馬にとっても極めて都合が悪いらしい。比較的足が細い馬という動物は、ぬかるみに深く足が埋まってしまうとのこと。わたしの経験でも、馬は深い雪には足を取られて動けなくなることがあった。馬を放牧しているチベット遊牧民達も、地表がぬかるむこの季節を避けるらしい。春の終りから初夏の季節には高原を離れ、馬が自由に動き回って、良質の草をたっぷり食べることのできる別の場所へと彼らは移動してしまっているとのこと。この時期、われわれの観測予定地周辺では、馬を借りることは全くできないという。
代わりにヤクなら借りられるという話しが飛び込んできた。牛よりも太い足を持つヤクは凍土の融けたぬかるみをものともせずに動き回れるらしい。今までに荷物の輸送にヤクを使ったことはある。しかし今回は荷物ではなく、融解の始まった凍土地帯を踏み越えてわれわれを調査地点まで運んで貰いたいのだ。馬よりも遙かに気の荒いヤクに乗ることなどできるのだろうか。聞けば人の輸送も実績があるという。背中にはちゃんと鞍を付けるから大丈夫だとのこと。ということで、調査を一緒に行う大学院生の矢吹裕伯さんとわたしのために二頭のヤクを借りることにした。
ヤクの背中に跨がるのは馬よりも遙かに簡単だった。ヤクは馬のように身体を動かすことが少なく、人が乗ろうとしても殆ど動かずにじっとしているからだ。背中に跨がって、馬と同様に声をかけながらメ腹を蹴ってみたところゆっくりと歩き出した。馬への合図と同じ合図で動くように訓練されているようだ。しかし走らせようとしても馬のように簡単に走りだすことはなかった。やはり馬と比べて動きはかなりにぶいようである。
チベットでヤクに乗る(撮影:矢吹裕伯さん)
今まで馬に乗ったときに、わたしは鞭を使うことは全くなかった。初めて馬に乗ったカリガンダキでの体験を別にすれば、わたしの腰や手足の微妙な動きやかけ声にどこの馬も見事に応答して動いてくれたからである。でもヤクの場合は馬ほど敏感でないかもしれないと思って、ヤクに跨がる前に鞭の代用にと竹の棒を持ってきていた。そこで、ひたすら歩くだけのヤクの尻をその棒で引っぱたいてみた。すると、ゆっくりとではあるがドッドッと走り出したのだ。歩くよりは早い。馬よりも遙かに遅いスピードとはいえ、この速さならば予定地点での調査を日帰りでこなせる。
尻を叩かれて走り出したヤクも、しばらくすると走るのを止めてすぐに歩き始める。馬のように、靴のかかとの合図で続けて走らせることはできなかった。走り続けさせるには、棒で尻を叩き続けるより他はなかった。こうして、繰り返しヤクの尻を叩き続けたために、持ってきた竹の棒が棒ではなくなるほどに割れてしまうほどであった。最後はピッケルを使うほかはなかった。ともあれ、こうして何とか小池さんに頼まれた地表面の凹凸データを指定の日時に取得することができたのであった。
地球環境問題が、人類の直面する大問題としてクローズアップされてきた。その解決に向けた学問的基盤形成のために、2001年4月に文部科学省の直轄研究所として総合地球環境学研究所(地球研)が京都に設置された。同研究所が実施する最初の研究プロジェクトのひとつを遂行するために、わたしは研究所の創設とともに京都に移った。
そのプロジェクトは「水資源変動負荷に対するオアシス地域の適応力評価とその歴史的変遷」というタイトルで、略称をオアシスプロジェクトという。水資源量の歴史的な変動とそれを背景にした地域の人間活動の過去を復元し、「水」を軸とした自然系と人間活動との相互作用の歴史的変遷を明らかにしようとするものであった。その目標は、過去の歴史的変遷過程において生まれた同地域の文化や価値観の形成をひもとき、将来の人間社会のあり方に関するヒントを得ることであった(氷河と沙漠と人間と参照)。
このプロジェクト研究を実施する過程で、人類の歴史において遊牧文化の果たした役割が極めて大きいことを実感することとなった。プロジェクトの調査対象地である祁連山脈には見事な草原が広がっている場所もある。素晴らしい草原は遊牧民の心の故郷でもあり、遊牧文化の基盤を形作るものに違いない。しかし少なくともわたしは、「草原」と触れた経験も少なく、草原の良し悪しもよくわからない。プロジェクトの成果に欠かせない遊牧文化の価値観を知り、感じるには「理想の草原」を知ることがまず肝要だと直感した。
そこで、オアシスプロジェクトの共同研究者でもあり、特にモンゴルの遊牧文化に詳しい民族学博物館の小長谷有紀さんに、世界で最も素晴らしいといわれるハンガイ山脈の周囲に広がるモンゴル高原を是非見せて欲しいと頼み込んだ。彼女のアレンジのおかげで、かつてモンゴル帝国の中心地でもあったカラコルムなどモンゴル高原の中枢地域一帯を訪れて、草原の持つ魂やその叫びをつぶさに感じることができたのだ。2003年の盛夏であった。
モンゴルの大草原
水辺の馬たち
モンゴルの少年
馬の放牧
競馬大会
調査を終えて、一種の昂揚感を胸に、日本へ帰国するためにウランバートルの近くまで戻ってきた。今回はもっぱらジープを利用しての調査であった。しかしモンゴルでは町のスーパーマーケットに行ってもその前には買い物に来た人たちの馬がずらりと繋いである。駐車場ならぬ駐馬場が併設されているのだ。この地では馬は最も便利な移動手段という座を他の手段に譲り渡してはいないようだった。ナーダムと呼ばれる競馬大会も盛んである。
それでも、馬に代わって最近はバイクを乗り回す若者も増えてきたらしい。そのせいか、酒に酔ってそのまま凍死するという事故が増えてきたという。以前ならば、出先でグデングデンに酔っ払っても、何とか自分の馬に跨がりさえすれば、馬上で寝ていても馬が勝手に自宅まで連れて帰ってくれたらしい。しかしバイクは自宅まで勝手に主人を連れて帰ってはくれない。ということで、特に寒い季節は、バイクの横で凍死している酔っぱらいが発見されるという事故が多発するようになったとのことであった。
カナダ滞在時に、北極圏に住むイヌイト(エスキモー)の人たちに似たようなことがおきていたことを思い出した。当時彼らが伝統的に使っていた犬橇に代わって、スノーモービル(スキドゥー)という、バイク程度の大きさの、橇を持つ小型雪上車が海氷上の移動手段として導入されてきていた。以前は、イヌイトの人たちに免疫のないアルコール飲料を多量に飲んで酔っ払っても、犬橇に倒れ込みさえすれば、犬たちが勝手に主人を乗せて自宅まで連れ帰ってくれていたという。しかしスノーモービルは機械である。主人を自宅まで送り届けてはくれないのであった。
閑話休題。モンゴル調査の最終日。モンゴルで最後の宿を提供してくれたゲル(モンゴルのテント)の主人に、最後にモンゴルの大草原で馬を走らせたいと頼み込んだ。快く一頭の馬と一人のガイドを準備してくれた。
場所は世界一素晴らしいというモンゴルの草原である。草は緑に輝いている。空はどこまでも青い。馬に乗るのは久しぶりではあったが、まだ馬に乗る術を覚えていた。まるで競馬の騎手になったかのように大草原を疾駆した。機械とは違い自らも意思を持つ馬という動物との至福のひととき。心ゆくまで馬との一体感を味わうことができたのであった。
(2020年5月)
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