中尾正義
子供の頃に第1次南極越冬隊の記録映画を見て、わたしは地球の南の果てにある南極にすっかり魅せられてしまいました。それから十数年が経った1970年、北海道大学の大学院生の時になって、南極に行ってみたいという子供の頃からの夢を叶えることができました。日本の南極観測隊に越冬隊員として参加することができたのです(「若濱五郎先生を偲ぶ」、「情報通信技術の進歩と南極観測」)。
南極行きの夢が実現したこの時までは、ただ南極に行くことだけを目ざしていました。しかし、南極での一年間におよぶ越冬生活で、現実に南極の広大な氷床を眺め、触れ、感じるうちに、巨大な氷の塊である氷河や氷床を調べる研究者として今後を過ごすのも悪くないな、と思うようになりました。それからの人生を、氷河研究者として生きてみようかと思うようになったのです。
しかし考えてみたら、氷河の専門家になろうという人間が、氷河や氷床を見たことがあるのがただ南極だけだというのはまずいだろうと思いはじめました。ご存じのように、現在の地球は「氷河時代」のただ中にあります。南極以外に、北極はもちろんヒマラヤやアンデス、ロッキーやアルプス、チベットなど世界中の山々の高みの中にも多くの氷河があります。これら総ては無理にしても、せめて異なる地域のいくつかの氷河を見ておくことは専門家を目ざすものとして不可欠だと思えたのでした。
はからずも、わたしが南極から帰国した年1972年の8月に、ネパールの東部にあるカンチェンジュンガの西峰、標高8000メートルを超える高峰ヤルン・カンを対象として、ネパール政府の登山許可がおりたというニュースがもたらされました。この山は、1960年代にいったん京都大学学士山岳会(AACK)に登山許可が下りたものの、地元住民にとっては聖なる山であるということもあって、その後その許可が取り消されたという山でした。しかし許可が取り消されてからも現地偵察や登山許可の申請を何度も繰り返してきたAACKに、再びヤルン・カンの登山許可がおりたのです。
登山許可の正式連絡を受けたAACKでは、ヤルン・カン初登頂を目指す遠征隊を組織するために隊員の募集・選考を始めました。AACKはわたしの所属する山岳会です。所属会員を対象とする隊員公募の通知がわたしのもとにも届きました。
南極以外の地にある氷河を訪れたいと熱望していたわたしにとっては、アジアの山岳氷河を直接見る良い機会です。ヤルン・カンの登山許可取得に至るそれまでの経過やAACKの努力など何も知らないわたしでしたが、ヒマラヤの氷河を訪れる好機と捉えて遠征隊の隊員に応募しました。しかし、ヤルン・カン遠征隊への参加を今後の氷河研究の糸口にしたいというのはわたしの個人的な望みです。人類最後に残された8000メートル級の未踏峰であるヤルン・カンの初登頂を目ざす遠征隊全体の共通認識とはかけ離れていたのかもしれません。わたしは隊員選考では漏れてしまいました。
一方ちょうどその頃、大学間の垣根を越えてヒマラヤの氷河研究を進めようという比較氷河研究会という活動が名古屋大学や京都大学の大学院生を中心として活発に行われていました。専ら文献調査を基にしていた研究会の成果をまとめて、『ヒマラヤ山脈、特にネパール・ヒマラヤの氷河研究における諸問題(1973年に刊行)』という冊子を刊行しようとしている時期でした。この冊子をとりまとめる過程で、文献調査というものの限界が感じられ、「現地での実地調査が不可欠だ」という気運が盛り上がっていたのです。ネパールでの氷河現地調査(後にGlaciological Expedition of Nepal: 略称GENと呼ばれました)を1973年から実施しようという計画が進んでいました。
南極とはかなり異なるであろうヒマラヤの氷河に接するために、わたしはこのGENのヒマラヤ氷河調査に参加することにしました。調査予定地は、当時ネパール政府が外国人の立ち入りを許可していた、世界第一の高峰エベレスト(ネパールではサガルマータ、中国ではチョモランマと呼ばれています)のあるクンブ地域でした。
ヒマラヤ山脈中に数多くの氷河を抱えるネパールにせっかく行くからには、観光客など多くの人が立ち入ることができるクンブ地域だけではなく、クンブ以外の地域の氷河もぜひ見てみたいと思い始めました。しかしあらかじめ許可されていない地域への入域許可を得るのは、ネパールでの経験など全くないわたしにとって極めて高いハードルでした。
とはいえ考えてみれば、GENの現地調査に参加するわたしのネパール行きとほぼ同時期に、隊員選考でわたしが落選したヤルン・カンの初登頂を目ざすAACKの遠征隊がヤルン・カンのあるカンチェンジュンガ山域で活動予定です。遠征隊には先輩、同輩、後輩である多くの山仲間がいます。彼らを訪問するということを理由にして、同地域への入域許可が得られるかもしれないと思い至りました。
そこで遠征隊が日本を出発する前に、ヤルン・カン遠征計画で中心的役割を果たしていた山岳部の先輩、松田ランプさんに相談しました。わたしの話を聞くなり、「どうせネパールに来るんやったら(遠征隊の活動現場に)来たらええやン!」という返事が即座に返ってきたのです。少なくともランプさんの考えでは遠征隊の邪魔になることはないということでした。
小躍りしたわたしは、遠征隊の京都留守本部的な役割を担っていたAACKの先輩、岩坪ゴローさんに事情を話して、「関係者各位(英語でTo whom it may concernと書くということも初めて知りました)」を宛名とする「この手紙を所持する中尾正義はヤルン・カン遠征隊の派遣元であるAACKの会員です。彼のネパール国内での活動に便宜を図ってやって頂ければ幸甚です」という趣旨の、当時のAACK副会長、近藤良夫先生の署名の入った英文の手紙を準備して貰うことができました。この手紙1通を頼りにして、なんとか遠征隊のベースキャンプを訪れ、一般の外国人には訪問が許可されていない同地域の氷河を見るチャンスをものにしようと考えたのでした。
いよいよネパールに出発しようとしていた1973年4月の半ば頃でした。わたしは岩坪ゴローさんに急に呼び出されました。「すでに登攀活動を開始していたヤルン・カン遠征隊でトランシーバーの故障が続発したとの連絡があり、急遽追加のトランシーバーを手配したので、遠征隊のベースキャンプまで届けて欲しい」と、ゴローさんから4台のトランシーバーとその部品などを託されたのです。わたしがベースキャンプを訪れることは、邪魔にならないだけではなく、いくらかは遠征隊の役にも立ちそうです。
「彼らからの連絡では、ルート工作や荷揚げ等の準備を4月中には終えていったんは休養する計画だが、5月初めには初登頂を目ざすアタック体制に入る予定らしいので、そのスケジュールに間に合うように頼む」とのことでした。あまり時間がありません。わたしがネパールに入ってから半月ほどしかないのです。ゴローさんと相談して、遠征隊のベースキャンプ入りに要する時間を短縮するために、カトマンズから現地までのヘリコプター利用を試みることにしました。
こうして、ネパールというヒマラヤの小さな王国に、わたしはたった一人で足を踏み入れたのでした。ネパールという国やネパール語の知識も全くないわたしでした。その時は、ネパールで日常的に使われる「ナマステ」という挨拶の言葉すら知りませんでした。予想される様々な交渉は英語だけが頼りです。とはいえわたしの英会話は、南極への往路に立ち寄ったオーストラリアや、復路に経由した南アフリカやヨーロッパの国々でのあわせても2週間ほどの経験しかないというお粗末ものでした。
ネパールの首都カトマンズ。トリビューバン国際空港は実に小さな空港でした。あらかじめ東京で短期の入国ビザを取得していたこともあって、入国手続きは簡単に終わりました。何を調べられることもなく、税関も難なく通過できました。
カトマンズでまずやることは、ヤルン・カン登攀中のAACK遠征隊のベースキャンプへの立ち入り許可を貰うことです。しかしその申請場所や申請方法など、わたしには何の予備知識もありませんでした。誰かに聞かなければなりません。ネパールに来た外国人の登山活動を手助けしてくれるというシェルパと呼ばれる人たちが詳しいのではないかと思いつきました。そこで、カトマンズの中心部アッサントーレという市場の一角にあると聞いた、シェルパの皆さんが集うらしい一軒の食堂兼飲み屋にまず行ってみることにしました。ネパール入国から数日が経過した1973年4月23日のことでした。
その店は、顔立ちが日本人によく似たシェルパとおぼしき多くの若者達で賑わっていました。彼らはチャンと呼ばれるどぶろくのような酒を飲んでいます。つまみはスクティという一種の干し肉や、肉を薄皮に包んだ餃子のようなモモと呼ばれる彼らの好物だとのことでした。同じものを注文しました。
シェルパの人たちは皆さん英語が堪能でした。片言の英語でおずおずと話すわたしが日本人だとわかると、沢山のシェルパ達に取り囲まれました。日本のどこから来たのか?何のために来たのか?ここで何をしているのか?などなど、好奇心に溢れた彼らの質問攻めに遭いました。
ヤルン・カンの初登頂を目指す日本からの遠征隊のことを彼らはよく知っていました。そのベースキャンプに行きたいのだがどうすればいいのだろうかと訪ねたところ、登山活動の手続きに詳しい人が居るといって一人の年輩のシェルパを呼んできてくれました。諸外国の登山隊に雇われるシェルパ達を統率するリーダー役であるサーダーと呼ばれる仕事を長く勤めてきたニマ・ドルジェさんという方でした。8000メートル峰の登山隊にもシェルパ頭として参加した経験もあるとのことでした。ヤルン・カンのベースキャンプへの入域許可の取得や日本から持ってきたトランシーバーをヤルン・カン遠征隊に届けるために必要な手続きなど、わたしの抱える当面の問題を、近所の小父さんという雰囲気で、親身になって聞いてくださいました。詳しい手続き問題は政府の登山関係のお役人に直接聞いた方が良いとのことで、翌24日にシンガダルバールにあるというネパール登山局のオフィスに連れて行ってくれるという約束をしてくれたのでした。
親切なニマ・ドルジェさんでしたが、飲み屋での口約束です。本当に来てくれるのだろうかと半信半疑でした。不安な気持ちを抱えたまま翌朝待ち合わせを約束した場所に行きました。
ニマ・ドルジェさんは時間通りに約束の場所に来てくれました。そして昨夜約束した通りに政府庁舎内の登山局へと連れて行ってくれたのです。そこにいたのは、顔立ちや風格から見て、将にエリート官僚らしいお役人でした。後にわかったのですが、登山局の局長、ナラヤン・ダ・シュレスタさんでした。ニマ・ドルジェさんとはかなり親しい様子でした。
ニマ・ドルジェさんは挨拶もそこそこに、わたしを登山局に連れてきた理由を局長さんに説明してくれたようでした。局長さんはわたしの要望をほぼ理解されたようで、「問題のトランシーバー(walkie-talkie)は今どこにありますか?」と流暢な英語でわたしに直接話しかけてきました。「わたしの宿舎の部屋にあります」と答えると、局長は一瞬厳しい顔になりましたが、「そのメーカ名や型式、周波数などの一覧表を作成の上、持ち込んだものを持ってすぐに空港の税関にある保税倉庫に届けなさい!」とのことでした。
当時のわたしは、軍事的にも重要なトランシーバーのような通信機器の持ち込みには特別の許可が必要かもしれない、ということにすら全く思い至っていませんでした。それくらい無知な若造だったのです。トランシーバーは、空港の税関で持ち込みを申告しなくてはいけない重要物品のひとつでした。通関時には何の申告もせず、極端にいえば機密物品の密輸を試みた不届き者として拘束される可能性さえあったのかもしれません。しかし無断持ち込みを咎めるわけでもなく、シュレスタ局長は、トランシーバー持ち込み許可の申請書を自分宛に提出しなければならないことやその申請書類の書き方に至るまで、実に親切に教えてくれたのでした。これはある意味ではネパール外務省所属の彼の職域に直接関わることでした。
しかし登山局長の職域とは何の関係もない、「遠征隊のスケジュールからいって4月中にはトランシーバーをベースキャンプに届けたい」という、日本側の都合でしかないわたしの要望に対しても、急ぎ現地へ向うヘリコプター利用のためには、まずローヤルネパールエアライン(RNAL)に至急コンタクトをとりなさい、と教えてくださいました。助言だけではなく直接RNALへの橋渡しもしてくれたのでした。わたしが局長さんに見せたのは、近藤AACK副会長による関係者各位宛の「中尾正義はAACKの会員なので便宜を図ってやって欲しい」という例の1通の紹介状だけでした。
保税倉庫に改めて預けたトランシーバーを正式に請け出すこともできました。数か月にわたるネパール滞在が可能となるビザの更新やカンチェンジュンガ地域への立ち入り許可も、シュレスタ登山局長のお力添えで、無事に取得できました。
次の懸案は現地までのヘリコプターのチャーターです。シュレスタ局長の口添えもあって、RNALはすぐに相談に乗ってくれました。現地へのフライトにはお目付役が同行する必要があるとのことでした。ゴビン・ダ・シュレスタさんという中央警察署の警官がリエゾンオフィサーに指名されました。そして、彼とわたしの体重に二人の荷物を合わせた全搭載重量を1000ポンド(おおよそ450キログラム)以下にするようにとRNALからは厳しく言われました。直近では4月29日から5月7日までの期間ならばヘリコプターは空いているとのことでしたが、問題はその費用の支払いでした。
ヘリコプターのチャーター費用は、予定通り目的地に着陸できたかどうかにかかわらず、実飛行時間1時間あたり375米ドルだとのことで、カトマンズからはざっと4時間はかかるだろうから、片道約1500ドル(1ドルが360円という固定相場から変動相場制へと転換したばかりの当時の為替レートだと日本円で40万円前後に相当)になるだろうとのことでした。悪天候のために着陸できず別の日にもう一往復飛んで貰えばこの4倍の費用がかかることになります。順調に到着できないときには、現地に近いネパール東部の中核都市ビラトナガールに泊まって待機すれば飛行時間は短縮できますが、1泊あたり25米ドルの追加料金が必要とのことでした。
順調にいっても合計すれば100万円、場合によっては200万円にもなろうかというこんなに多額のお金を、当然のことですが、わたしは持っていません。遠征隊に直接支払って貰うしかありません。目的地に着いたときに、ヘリコプターのキャプテンに米ドルの現金で支払って貰っても良い、とRNALは言ってくれましたが、遠征隊がそれだけのドルの現金を現地で所持しているかどうかもわかりません。高額な支払いが絡むこの局面では、AACKの近藤副会長の例の手紙だけではRNALも納得してはくれませんでした。様々な方法を相談し検討した結果、ヤルン・カン遠征隊がカトマンズに戻ってきた時にヘリコプターのチャーター費用を支払うことを、在カトマンズの日本大使館が保証するというRNAL宛の書類を大使館に発行して貰えればそれで良いとRNALが言ってくれたのです。
近藤AACK副会長の例の手紙を見せて、ヘリコプター費用支払いの保証文書の発行を日本大使館にお願いしたところ、二つ返事で引き受けていただけました。本当に有り難かったです。すぐに準備して貰った大使館の保証文書を急ぎRNALに渡しました。
こうして、わたしとリエゾンオフィサーの二人は5月2日の早朝7時過ぎにヘリコプターでカトマンズ空港を出発することができたのでした。
ヘリコプターの目的地はあくまで登山隊のベースキャンプを希望しましたが、その標高は5000メートルほどもあるために、標高がベースキャンプより1000メートルあまり低い、遠征隊の西堀栄三郎総隊長が滞在しておられたツェラムというヤルン氷河脇のキャンプ地周辺に着陸することもあり得るという方針での出発でした。
エテさんというあだ名を持つ遠征隊の西堀総隊長はわたしにとってAACKの先輩でもありますが、将に日本の第1次南極越冬隊の越冬隊長だった方です。わたしが幾度となく読み返した『南極越冬記』の著者でもあった憧れの先輩なのでした。前の年(1972年)には、主に南極越冬生活の体験に基づく『石橋を叩けば渡れない』という著書を上梓されたばかりでした。はからずも本稿を執筆している本年(2023年)は、西堀栄三郎さんの生誕120周年に当たります。
天候にも恵まれて、トリビューバン空港を離陸してからほぼ4時間後の午前11時過ぎに、わたしたちはヤルン氷河の段丘脇にあるツェラムのテント地に無事に着陸しました。西堀エテさん以下、ツェラムに滞在していた登山隊の皆さんが暖かく出迎えてくれました。登山隊へのリエゾンオフィサーであるダマンさん、キッチンボーイのダヌーさん、ベンバーというメイル・ランナーなどの方々です。
初めてお会いした西堀エテさんは、ヘリコプターで突然やってきたわたしに対して、出版されたばかりのご著書に「謹呈 西堀栄三郎」という署名を入れたうえで一冊くださいました。思いもかけないことでした。『石橋を叩けば渡れない』というこの本は、「思い立ったことは誰に遠慮することもない。やってみなはれ!」という、何事にも何の経験もないわたしのような若造が奮い立つような言葉がちりばめてあるご本でした。
「やってみなはれ!」という言葉が幾度も出てくる同書に目を通したわたしなりの理解では、石橋を叩いてみてからその橋を渡るかどうかを決めようとすると、渡るという結論になることはまずない。橋を渡りたいなら、まず渡るという決断をすることが重要だ。そのうえで、どのように渡ればよいかを調べるためにこそ石橋を叩くことが肝要だ、ということではないかと思いました。
我々を運んできてくれたヘリコプターのキャプテンは、ツェラムよりも1000メートル以上も高い高度にある登山隊のベースキャンプへ行く気はさらさらない様子でした。午後からは天気が悪くなるといって、同行してきたリエゾンオフィサーとともに早々にカトマンズへと引き返していってしまいました。
標高1400メートルほどのカトマンズからヘリコプターで一気に4000メートル近いツェラムにやってきたのですから高度障害が心配でした。ともあれ、持ってきたトランシーバーをすぐにベースキャンプへ運んでくれるようにツェラムにいた隊のメンバーにお願いしてから、わたし自身はここで二日ほどかけて高度順化を行うことにしました。しっかり高度順化を終えてからベースキャンプに行かないと、わたしが体調を壊しては遠征隊にとって大迷惑になるに違いないのです。
高い高度に体を慣らす高度順化には、現在滞在している場所よりもさらに高い高度での活動を繰り返すことが必要だと聞いていました。ツェラムのテント地よりも高い手近な場所としては、付近にあるヤルン氷河のモレーン(側堆石と呼ばれる、氷河が作った小高い土砂の丘の連なり)が最も手軽に登ることができます。高度差は50から100メートルほどしかありませんが、とりあえず高そうなモレーンの丘を探して登りました。
モレーンの丘の上に登るとヤルン・カンから流下してきているヤルン氷河を見下ろすことができるはずでした。モレーンの丘で隠されていて、ツェラムのテント地からは見ることができなかった氷河本体を望むことができるはずなのです。ようやく登った丘の上から「氷河」を見下ろして驚きました。ヤルン・カンから流れてきているはずの「氷河」がないのです。そこに横たわっていたのは、土砂の巨大な塊、いわば流れてきた土石流がそこに凍りついたかのようなものでしかなかったのです。
土石流と見まがうような全体の外形から考えると、この土砂の塊も上流から下流へと流れてきたもののようにも思えます。しかしわたしが南極で接した、「青い空を背景に白く輝く美しい氷河」とは似ても似つかないものだったのです。なにせ氷らしいものが全く見えないのです。
よく見ると、表面にある土砂の隙間に氷のように思える壁があるような気もします。氷でできた氷河の本体がすっかり土砂で覆われて隠されているのかもしれません。やはり土砂に覆われた土石流のようなこの土砂の塊が氷河なのだろうと思うほかありません。これが、土や砂、岩くずなどの堆積物に覆われた、のちにいうところの「デブリ氷河(debris-covered glacier)」との出会いでした。
その後、ネパール・ヒマラヤにある大型氷河のほとんどすべては、この「デブリ氷河」であることに気付かされることになります。ほとんどが雪や氷だけでできている南極の氷河しか知らなかったわたしが想定していたような白く輝く氷河もネパールにあることはありますが、それらはすべて規模の小さい小型氷河ばかりなのでした。
カラ・パタールの丘から見下ろすクンブ氷河
エベレスト山麓にある代表的なデブリ氷河で、
画面の左側から右側に向かって流れている
デブリ氷河本体の氷は、特に氷河の末端付近では数メートルにも及ぶ厚い堆積物に覆われているようです。覆っている堆積物の断熱効果のせいで、気温が高くなる夏の期間でもほとんど氷河の氷それ自身は融けないのではないでしょうか。そう考えると、デブリ氷河という規模の大きい土石流と見まがうようなこれら氷河は、寒冷な時期にできた大きな氷河がその表面を土砂等の堆積物に覆われることによって氷本体の融解が妨げられて残存した化石氷として存在しているに過ぎないかもしれません。土砂に覆われた下流域の傾斜がかなり緩いところを見ても、現在はほとんど流れていないのかもしれません。
【デブリ氷河はどのようにできたのだろうか?今も流れているのだろうか?夏でも融けないのだろうか?この先もずっと存在し続けるのだろうか?温暖化等の気候の変化にはどのように応答するのだろうか?】ヤルン氷河を手始めにわたしがネパールで出会ったデブリ氷河というしろものは、全く得体のしれない、疑問だらけの氷河なのでした。氷河に関する教科書にもほとんど何の記載もありません。ヒマラヤ特有の氷河なのでしょうか?ほかの地域には全くないのでしょうか?
デブリ氷河の詳細については稿を改めるとして、わたしはツェラムで二日ほどかけて高度順化を行ってから、遠征隊のベースキャンプへと向かいました。5月5日の早朝のことでした。ツェラムを発って二日後、5月7日の昼過ぎに樋口ジャン登攀隊長のおられたベースキャンプに到着しました。登山隊はすでにアタック体制に入ろうとしており、シェルパも含めてほとんどの登攀隊員は上部のキャンプ地へと出払っていました。ベースキャンプに滞在していたのは、ジャンさん以外の遠征隊員では、やや体調を崩していた神山さんだけでした。シェルパ隊員でも、コックやメイル・ランナー等、登攀に直接かかわらない数名の隊員が残っていただけなのです。ほっとしたのは、わたしが急遽日本から持ってきた追加のトランシーバーはすでに上部のテント地へと荷揚げされており、登攀スケジュールにかろうじて間に合ったらしいことでした。
遠征隊員の中から最終的に松田ランプさんと上田ポッポさんとをアタック隊員に予定しているということをジャン登攀隊長にお聞きしました。わたしのベースキャンプ訪問を強く勧めて応援してくれたランプさんも、登頂予定隊員としてすでに最上部のキャンプ地に上がってしまっていました。ベースキャンプを訪問したのにランプさんと会うことができなかったことは残念でしたが、登頂が無事に終わって下山してこられたときにお礼を言おうと思ったものでした。
登攀隊が頂上アタックを決行したのは5月14日のことでした。後にわかったことですが、ランプさん、ポッポさんという二人のアタック隊員はヤルン・カンの初登頂に見事に成功しました。しかし、二人は頂上からの帰路にルートを見失ってしまったのです。下降ルートを探し続ける二人の様子を、ジャン登攀隊長の指示もあって、わたしはベースキャンプの望遠鏡で見守り、二人の彷徨・移動のルートを克明に記録しました。しかしながら、救援隊による懸命の救援活動もむなしく、ランプさんは最終的に帰らぬ人となってしまったのです。
これらヤルン・カン初登頂や遭難事故の詳細は、京都大学学士山岳会による『ヤルン・カン』並びに生還した上田ポッポさんによる『残照のヤルン・カン』を参照していただきたいと思います。
遠征隊員でもないわたしにヤルン・カンに来るように励ましてくれ、結果として、思いもよらないデブリ氷河なるものと出会う機会を作ってくれた松田ランプさん。わたしはランプさんに直接お礼の言葉を述べる機会をも失ってしまったのでした。
もう一人のアッタック隊員上田ポッポさんは、頂上からの下山時に手足に深刻な凍傷を負いましたが、無事に救援隊に救出されました。その後ポッポさんは、ヒマラヤの氷河調査の先達研究者の一人として、後のわたしの研究生活における恩人の一人になった方です。
ヤルン・カン登攀隊員のベースキャンプへの撤収とその活動終了と相前後して、わたしはカンチェンジュンガ山群を後にして、GENとしての氷河調査活動を予定していたクンブ地域へと向かいました。そしてクンブ地域でも多くのデブリ氷河を目にしたのでした。上に写真を掲載したクンブ氷河はまさに代表的なデブリ氷河です。
以上本稿では、わたしのネパールにおける初めてだらけの体験について述べてきました。わたしのネパールとの始まりは、素敵なネパールの皆さんとの始まりでもありました。右も左もわからないわたしを実に親切にもてなし、相談に乗ってくれたニマ・ドルジェさん他のシェルパの皆さんやシュレスタ登山局長に代表される政府のお役人の方々、実に親身に相談に乗ってくださったローヤルネパールエアラインの皆さん、さらには日本大使館の職員の方々やヤルン・カン登山隊の皆さんなど、実に多くの方々にいただいたご厚情の数々は枚挙のいとまもありません。
都合3か月にわたるわたしの初めてのネパール滞在中、街のバザールなど雑踏の中でさえ、ネパールの皆さんがお互いに争う喧嘩の類には一度も出会ったことがありません。口喧嘩すら全く見たことがありませんでした。実に穏やかな人々が暮らしている平和な国なのだなあと実感し、すっかりファンになってしまいました。
ちなみに、翌年の1974年にもカトマンズを訪れました。2年目となったGENの現地調査の一環として、その年はネパール西部のドーラギリを望むヒドゥンバレーでの氷河調査を実施したからです(「わたしの乗馬術」)。この年にはGENのカトマンズでの宿舎として、カトマンズの中心部、王宮の前に部屋を借りていました。
休日の早朝には、王宮の正門が大きく開き、王妃さまを助手席に乗せたビレンドラー国王がドライブに出かけられるのを目にするが常でした。ビレンドラー国王は我が国の美男俳優、中村錦之助さんとよく似ておられ、目の大きい女優、真木洋子さんそっくりの王妃とのツーショットは、まさに美男美女カップルでした。
ネパールにおいて長く権力を保持していたラナ家から政権を取り戻し、一種の王政復古を成し遂げた祖父のトリビューバン国王、引き続き王権を確立したマヘンドラー国王、そして三代目の近代的な国王として期待されていたビレンドラー国王でした。当時の世界情勢を先取りして、ビレンドラー国王は王権を次第に縮小し、ネパールを、イギリスや日本のような一種の立憲君主国へと変貌させようと努力しておられるように感じていました。
平和で穏やかな、笑顔で「ナマステ!」のネパールでしたが、2001年に起きたビレンドラー国王の暗殺事件を契機として、マオイストの勃興や王政の終焉など、その後の烈しい政治闘争の歴史を辿ることになろうとは、当時のわたしは全く想像することもできませんでした。
とはいえ、上述してきた1973年のわたしのネパール初体験や、その後の数十年間にも及ぶネパールの皆さんとの長きにわたる多くの素敵な思い出とともに、穏やかで真心あふれる多数の友人・知人の暮らすネパールは大好きです。
参考図書
『石橋を叩けば渡れない』(日本生産性本部)1972 西堀 栄三郎 (著)
『残照のヤルン・カン』(中公新書)1979上田 豊 (著)
『南極越冬記 』(岩波新書) 1958 西堀 栄三郎 (著)
『ヒマラヤ山脈、特にネパール・ヒマラヤの氷河研究における諸問題』(日本雪氷学会・氷河情報センター)1973 比較氷河研究会 (編)
『ヤルン・カン』(朝日新聞社)1975 京都大学学士山岳会 (編)
(2023年9月)
ホームに戻る