若濱五郎先生を偲ぶ
中尾正義
わたしが北海道大学理学研究科の大学院生として低温科学研究所(低温研)の物理学部門に配属になったのは今から50年以上も昔、1969年春のことでした。修士課程同期の新人院生として、海洋学部門には若土正曉さん、応用物理学部門には小関迪子さんの二人がいました。
入学して1ヶ月ほどした頃、われわれ新人のための野外研修がありました。5月になっても2メートルちかい積雪が残る、北海道北部、幌加内町の母子里にある北大の雨龍演習林に連れて行かれました。この演習林には宿泊施設が併設されていて、その施設に泊まりながら、低温研・修士課程での研究活動の基礎ともなる降雪や積雪に関する必要な知識をわれわれ新人に教えるとともに、断面観測など雪の観測手法を修得させるという研修でした。
修士課程や博士課程の上級生並びに助手の先生方などわれわれ三名の新人の数倍もの数の諸先輩が指導役として同行してくれました。研修・指導の中心になっていたのは、当時研究所の応用物理学部門の助教授だった若濱五郎先生でした。全く偉ぶることのない自然児のような先生でした。わたしが若濱先生にお会いしたのは、この母子里での野外研修のときが初めてでした。
当時の低温研は部門間の垣根がとても薄くかつ低く、部門の違いなど全く気にせずに、関心のありそうな人に自由に声をかけては、自主的な企画も含んで、論文や教科書の輪講等を何でも行うことができました。母子里で夜を徹して多くの諸先輩と語らい、その人となりを知ったということにも支えられたと思います。自分の修士論文のテーマを探しながら、自らの好奇心の赴くままに世の学問の動きを見定めては、面白そうに思えることをとことん追求するという、今から考えても貴重なそして楽しい日々でした。
時折外国の著名な研究者が低温研を訪ねてくることがありました。そういうときには、若濱先生は当該研究者をご自宅に招いて接待されることが多く、所属部門の異なるわたしにまで声をかけてくださり、わたしたちが諸外国の研究者と知り合い、国外でおきている様々な情報を得る機会を作ってくださったものでした。
1970年11月から1972年3月まで、わたしは日本の南極観測に越冬隊員として参加することができました。晴海埠頭を出港したのち、南極観測船「ふじ」はオーストラリアの西海岸にあるフリーマントルの港に立ち寄ります。南極への往路最後の寄港地として、野菜や果物などの生鮮食料品や、貴重な真水の積み込みのために、一週間ほどフリーマントルに停泊します。その機会を利用して、わたしはオーストラリアの東海岸に近いメルボルンを訪れました。ちょうどその頃、若濱先生がメルボルン大学に滞在しておられたからです。若濱先生の紹介で、オーストラリアの南極観測を牽引していた、オーストラリアを代表する雪氷学者であるビル・バッド(Bill Budd)博士に直接お目にかかることもできました。オーストラリアの南極観測の息吹を現地で感じることもできたのでした。ちなみに博士の先祖は、オーストラリアに流刑されたポケットピッカーだったらしいと、笑いながら話しておられたのを覚えています。
1972年に越冬を終えて南極から帰国したわたしは、翌1973年に大学院修士課程2年生として再入学しました。というのは、見渡す限り雪と氷に覆われた南極大陸や氷河を見て、感じて、経験して、今後の人生を氷河の研究者として過ごすのも悪くないなと思うようになっていたからです。
そこでこの年には名古屋大学の樋口敬二先生が中心になって進められていた、ヒマラヤの氷河学術調査隊に参加しました。氷河の専門家を目ざす人間が南極の氷河しか知らないのはまずいだろうと思ったからでした。アジアの氷河を見るチャンスだったのです。
研究の主たる対象を氷河にするのなら、低温研での所属は物理学部門よりも若濱先生の応用物理学部門の方が良いのではないかという物理学部門の指導教官であった黒岩大助先生のご助言を受けて、1974年春の博士課程進学を機に、教授に昇進されていた若濱先生率いる応用物理学部門へと移籍しました。
博士課程に進んだその年にも、前年に引き続きヒマラヤを訪れました。半年あまりの調査期間の終盤に、エベレストのベースキャンプ付近での活動中、わたしは完全に体調を壊してしまいました。急ぎ下山してカトマンズの医者に診て貰ったのですが、診断結果は急性の肝炎だろうとのことでした。肝炎のウイルスは当時まだ発見されておらず、決め手となる治療法はないから、旨いものをたっぷり食べて身体を休ませ、自分の体力で治すより方法がない贅沢な病気だと言われました。つまり旨い食べ物が沢山ある日本に急ぎ帰国した方が良いという医者の助言でした。
山岳部の先輩でもある上田豊さんに付き添って貰ってネパールから帰国したわたしは、東京の病院で即刻入院させられました。ネパールで肝炎にかかって帰国し、東京で即刻入院になったということは低温研に連絡してはおいたのですが、しばらくして北大病院のベッドが空いたので札幌に戻って来なさいという連絡を貰いました。こうして東京の病院から北大病院に転院して、肝炎を専門とする医学部講師の先生が主治医となって面倒を見てくれることになりました。北大病院では学用患者として受け入れて頂いたために入院費用はほとんどかからず、奨学金以外の収入が全くない大学院生としては本当に有り難かったです。これらの手配は、すべて若濱先生がしてくださったということを後になって知りました。
考えてみれば、1974年に応用物理学部門の院生になったばかりのわたしは、前年に引き続いてヒマラヤ氷河調査に行くということを、指導教官であり部門主任でもある若濱先生に相談したわけでもなく、いわば勝手に行ったようなものでした。にもかかわらず、病を得て憔悴しきって帰国したわたしを若濱先生はかくも手厚く迎えてくださったのでした。
わたしは知りませんでしたが、北大病院での入院中、わたしは二度ほど面会謝絶になったらしく、若濱先生他の低温研関係者や友人達に多大の心配をかけたようでした。主治医の先生によると、血液検査による肝炎の重篤さを示す指標の数値は、いつ死んでもおかしくないくらい高い値を示しているにもかかわらず本人が異常に元気で、「ネパールの肝炎は日本のものとずいぶん違うのだなあ、勉強になりました!」とのことでした。学用患者として、少しはお役に立ったかもしれないと、幾分気が楽になったものです。
数ヶ月にわたる入院生活を終え、肝炎が完治して研究所に戻ったわたしは、大学院生としての研究活動を再開しました。博士論文の研究テーマについて、指導教官の若濱先生は全く口を出すことなく、完全にわたしの自由に任せてくださいました。1974年に勝手にネパールへ出かけたことでもわかるように、いわば一種の放し飼いだったのでしょう。ネパールで見た放し飼いの鶏は飛ぶ力を身につけ、人家の屋根の上まで飛翔します。屋根の上まで飛び上がる力がついたかどうかは別として、博士論文の研究は、将に自由に自分の思うままに展開させてもらったのでした。研究の主題は、肝炎になったときに調査したネパールのデブリ氷河に関するものでした。
妻久美子と結婚したのはちょうどその頃です。仲人の労を執って頂いたのは若濱先生ご夫妻でした。
博士論文がまとまり始めた頃、低温研玄関の掲示板に「若い研究者(Research Associate)を求む」というカナダ国立科学院(NRC: National Research Council of Canada)の求人広告を見つけました。
博士の学位取得後の就職をどうしようかと考えていた頃でしたので、海外に行くという選択肢もあるなあと思って、若濱先生に相談しました。先生は、カナダ国立科学院の研究所には氷の力学の権威であるローン・ゴールド(Lorne Gold)博士というよく知っている研究者がいるとのことで、すぐに推薦状を書いてくださいました。わたしもNRCに応募書類を送付するとともに、ゴールド博士宛にもNRCのResearch Associateの職に応募したので、よろしくご検討くださいという私信を送りました。
すぐにGold博士からは、彼が所属する建築研究所(Division of Building Research)にはResearch Associateの空席がないので、申し訳ないがすぐにはご希望に沿いかねる、という丁寧な返事が送られて来ました。駄目だったんだなあと思ったのですが、数ヶ月後に、NRCから、「Research Associateとして受け入れる可能性がでてきたので、今からでもカナダに来る気があるのならカナダ大使館に出向いてinterviewを受けなさい」という手紙が舞い込んできました。
当時のわたしは、interviewとは何をするのかよくわからなかったのですが、東京の大使館に行ったところ、英語による一種の面接試験だということがわかりました。もちろん専門科目の試験ではなく、もっぱら、カナダでわたしが研究活動を行うだけの英語力があるかという視点での試験だったようでした。考えてみれば、NRCとしてわたしを採用すれば研究者としての滞在ビザを発行するのですから、まともな仕事ができるだけの英語力があるかどうかを見極める必要があったのでしょう。
こうして北大での博士号取得と相前後して、結婚して一年あまりしか経たない妻久美子と二人でNRCのあるカナダの首都オタワへと向いました。1977年11月末のことでした。
NRCの建築研究所では、親戚の子供を預かった伯父や叔母のような態度でわたしのことを扱ってくれました。北大の低温研という研究所が、雪や氷に関する日本の代表的な研究機関だと当時世界的に認知されていたおかげだと思います。学位取り立ての若造に過ぎないわたしを、一人前の研究者として扱ってくれました。
三年間にわたるカナダでの生活は、わたし達二人に世界への窓を開いてくれました。
当時日本の研究者が国際的な研究集会に出席できたのは数年に一度という割合でしたが、NRCでは、北米やヨーロッパで開かれる国際学会に、年に数回という頻度でわたしを派遣してくれたのです。おかげで世界中の研究者に知己が増えました。ここでは個別に名前を挙げませんが、その後の研究生活で、当時知り合った諸外国の友人達に幾度となく陰に陽に助けて貰うことになります。その始まりは、ゴールド博士への若濱先生の推薦状でした。
それから30年ほど経過した2012年に日本雪氷学会は公益社団法人になりました。そのための検討や準備はわたしの前任者であった藤井理行会長の時代にほとんど行われていたのですが、内閣府に認可されて正式に公益法人として歩き出したのはわたしが会長職を引き継いだ後でした。そこで、インターネットのmember announcementという機能を利用して、公益社団法人になった経緯の簡単な説明を付けて公益法人として再発足したことを、わたしから会員の皆さんにご連絡しました。わたしのアナウンスを受けて、わたしへの祝意とねぎらいの言葉を真っ先に送ってくださったのは、当時もう80歳を超えておられた若濱先生でした。
わたしは、若濱先生に「放し飼いにされていたようだった」と本稿に書きました。しかし先生は、実は常にわたしに目配りをされていて、ここぞというときには、そっと手助けをしてくださった、というのが本当のようです。自由に飛び回っていたと思っていた孫悟空も、実はお釈迦様の掌の中を泳いでいたに過ぎなかった、ということのようです。若濱先生、本当にありがとうございました。
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若濱先生が昨2021年12月に94歳で大往生を遂げられたとの報に接し、先生に頂いた慈しみのいくつかを述べてきました。本稿を執筆していた最中に、オーストラリアのビル・バッド博士が本年2022年1月に亡くなられたというニュースが飛び込んできました。本稿でも少し触れましたが、生前仲の良かったお二人です。泉下で四方山話の華を咲かせておられるのではないでしょうか。
(2022年2月)