順平さんと歩いた30年
中尾正義
長く仕事を一緒にしてきた窪田順平さんが、2021年5月25日に癌のために永眠されました。63歳という若さでした。以下は、ご家族による葬儀にわたしがお送りした弔電の抜粋です。
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順平さんご逝去の報に接し言葉もありません。順平さんはわたしより一回りも若いのに・・・と悔しいです。わたしよりも先に逝ってはいけません!知り合って以来、順平さんには、わたしの仕事の尻ぬぐいをいつもやって頂いたような気がします。 順平さん!今まで本当にありがとう。楽しかったですね!今度は順平さんの方が先に逝ったのですから、あの世で、わたしを迎える準備をしてくれることと期待しています。あの世でもいっしょにまた面白いことをやりましょう!待っていてください。
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順平さんに初めて会ったのは1991年のことでした。ちょうど30年前になります。
その年の1月、中国の梅里雪山登頂を目ざしていた梅里雪山第2次学術登山隊との連絡が突然取れなくなりました。日中合せて17人もの隊員全員が行方ふめい状態となったのです。
中国登山協会から連絡を受けた日本側の京都大学学士山岳会(AACK)では、中国側と協力して急ぎ現地に救援隊を派遣しました。しかし、隊員全員が第3キャンプで就寝中に雪崩事故に遭遇して遭難した可能性が高いという情報が得られただけで、十分な成果をあげるこができないまま救援活動を中止せざるを得ませんでした。AACKでは急ぎ事故調査委員会を立ち上げ、徹底的に遭難事故の原因を究明することにしました。
当時わたしは新潟県、長岡市にあった科学技術庁傘下の長岡雪氷防災実験研究所に勤務しており、事故調査委員会に参加してその活動に協力して欲しいと依頼されました。
わたしにとって、梅里雪山で遭難した学術登山隊長の井上治郎さんは、山岳部で一期上の怖い先輩でした。それだけではなく、大学卒業後もヒマラヤでの調査を一緒に行う仲間でもありました。GEN(Glaciological Expedition of Nepal)と呼ばれたヒマラヤ氷河調査初年度の1973年には、ひとつき以上の期間、ハージュンという場所に作ったGENの気象観測拠点や氷河上でのテント生活を一緒におくったこともありました。
この遭難では隊員全員が行方ふめいでしたので、事故原因を調べるにしてもあまりにも情報が乏しい状態でした。そこでAACKと中国登山協会では、問題の第3キャンプ地点の確定など遭難原因を解明するための調査をおこなうために現地に捜索調査隊を派遣することにしました。
1985年のナムナニ峰(グルラマンダータ、7694m)に初登頂した学術登山隊( 映像記録)に参加していた順平さんは、同登山隊で一緒だった井上さんと親しかったということもあり、梅里雪山の捜索調査隊として現地に行く予定隊員の一人でした。
捜索調査隊は、雪の下に埋没しているであろう隊員やテント等をまず探すわけですから、遺跡や埋蔵物の調査に使われているレーダー探知機や金属探知機の搬入も計画されていました。出発前にこれら機器のテストを兼ねた実験が、その時に積雪していた新潟県の上越で行うことが計画されました。
学部学生のときに山岳部に所属していたわたしと、時期的に10年あまりも後に、しかも山岳部ではなく探検部員だった順平さんとの接点はこれまで全くありませんでした。今から考えると、わたしと順平さんとは、遭難した故井上治郎さんに引き合わされたのかもしれません。この梅里雪山捜索調査隊の捜索機器のテストを行う上越の現場で、わたしは順平さんに初めて会ったのでした。
その後1993年に長岡からなごや大学に移ったわたしは、防災研究から再び氷河の研究に主軸を移しました。特に、氷河それ自体の研究に加えて、その水文学的役割の解明にもっと力を注ぎたいと考えるようになっていました。モンスーン期の雨量が極めて多いネパールなどヒマラヤの南面だけではなく、北辺に拡がるチベット、さらにユーラシア大陸中央部の広大な乾燥域への今後の研究展開を予測し、意図していたためでもありました。
幸運にも順平さんが水を専門とする水文学の研究者だと知り、ヒマラヤとチベットとを対象になごや大学で1994年からはじめた「ヒマラヤ雪氷圏の衰退やその原因解明に関する研究」に協力してくれるようにお願いしました。それまでなぜかヒマラヤに行く機会がなかった順平さんは喜んで協力を約束してくれました。
順平さんとのヒマラヤ現地調査の手始めは1995年のネパール・ランタン谷でした。この調査の主たる目的は、表面が厚く堆積物に覆われているためにその融解量を推定することが難しい、いわゆるデブリ氷河の融解速度を氷河各地点での表面熱収支計算によって見積もろうというものでした。
そのために、比較的規模が小さいデブリ氷河であったランタンのリルン氷河を対象に選び、ヘリコプターに搭載した放射温度計を用いて氷河上の堆積物表面の温度分布測定を計画しました。氷河上に設置した微気象測器による熱収支観測データを元に、この表面温度分布データを用いて、表面状態が場所によって大きく異なる氷河上様々な場所での融解速度を地点毎に推定するという、わたしたちが開発した手法を実地に試そうとしたのです。その手法が正しいかどうかを、氷河上各場所の融解量の合計である氷河全体からの総流出量で検証しようというものでした。順平さんに全面的にお願いしたのは、まさに水文屋の彼が得意であろう検証データとしての氷河からの流出量の算定でした。
この調査にネパール政府はすぐには首を縦に振ってくれませんでした。たぶん大きな障害となったのは、それまで行われてきた人や物資の輸送ではなく、広域の観測にヘリコプターを使うという、多分ネパールで初めての試みに、政府のお役人が戸惑ったということが大きかったのかもしれません。
結局カトマンズでの調査許可の取得に一月半ちかくもかかってしまい、現地調査ができた期間はひとつき弱になる始末でした。それでも順平さんと過ごしたカトマンズでの許可取得交渉や現地のランタン谷での野外調査は、このあと数年後に展開する中国西部の乾燥地域、ひいてはユーラシア大陸中央地帯を対象とした総合調査の先駆けとなりました。
わたしたちが「ヒマラヤ雪氷圏の衰退やその原因解明に関する研究」を行っていた頃は、地球温暖化に代表される地球規模の環境問題が世界的な重要課題として浮かび上がってきた時代した。わが国でもこれらの問題への取り組みが喫緊の課題として取り上げられたのです。2001年4月には、地球環境問題の解決を目指す総合的な共同研究を推進するための中核的研究機関として、当時の文部省の直轄となる「総合地球環境学研究所(略称:地球研)」が京都市に設置されることになりました。
大学教官としての勤務の傍ら、地球研の創設のために文部省の学術調査官を併任していたわたしは、個人的にはこの研究所を(密かに)「人間・地球研究所」と呼んでいました。そして研究所の開設とともになごやから京都に移動し、わたしは新研究所初となる研究プロジェクトの一つであるオアシスプロジェクトをはじめました。文系と理系の研究者が協働して総合的に環境問題に取り組むという地球研が目ざした研究スタイルの一つであったプロジェクトの構想は以下のようなものでした。
ユーラシア中央部乾燥地帯では、地球規模変動に連動した氷河等の水資源の時代的変化に加えて、人々の生活の場や生業の形態も大きく変化してきました。歴史的に農耕が次第に優勢になる過程において遊牧産業が衰退し、最近では、砂漠化の進行によって農業を基本とする人々の生活基盤も脅かされてきています。オアシスプロジェクトでは、同地域の人間生活に密接に関わる水循環過程の変動に対して、そこに成立する生態系や人間社会・文化・生活形態などの適応性を歴史的に評価し、このことを通じて、水資源の利用体系や未来のあるべき人間社会およびその文化を探ることを意図したものでした。
地球研ができた2001年夏には、同プロジェクトの現地予備調査を企画しました。問題の所在を現地で探り、プロジェクトの研究目標を具体的に明らかにするための偵察行です。主要共同研究者の一人として順平さんの同行をお願いしたことはいうまでもありません。わたしになじみの薄い文系の研究者として、切り込み隊長とでもいうべき小長谷有紀さんやプロジェクトの軍師役でもある杉山正明さんを得ることもできました。歴史学や文化人類学、地理学、農学、水文学、気象学、雪氷学など多岐にわたる研究分野を背景とする専門家の混成チームによる調査の試みでもあったのです。
研究対象地域として選んだのは、中国西部の青海省から甘粛省、内蒙古自治区へと流下して消滅する内陸河川、黒河の流域です。現地では、プロジェクトの研究計画の具体的な検討はもちろんですが、参加してくれた調査メンバーの皆さんと、地球研の設立理念そのものに関する議論にも多くの時間を費やしました。
総合地球環境学研究所というなまえに「科学」という言葉が入っていないのは、科学だけでは地球環境問題の解決に?がる道筋を吟味することはできないだろうという創設調査委員会での検討結果が反映されています(地球研の創設)。また、その日本語のなまえを検討した学者の集まりである創設調査委員会での案には「総合」という文字がなかったにもかかわらず、事務手続きの最後の段階で、時の文部省学術国際局長によって彼の役人としての思惑によって「総合」の字句が追加されということもありました。つまり創設調査委員会で合意されたなまえの案を事務官がいわば勝手に修正したわけです。研究所創設の担当官はこのことを謝罪していましたが、同時に、英語のなまえについては、政府は何の干渉もしないはずですから学者の先生方だけで学問的に決めてくださいとのことでした。
そこで、英語の語感に感性がある欧米の研究者、中でも地球環境問題に問題意識を持っていそうな多くの友人達に研究所の創設理念を説明してはその英語のなまえについて何回か議論してもらいました。その中で「Humanity」という言葉が浮かび上がってきたのです。「これだ!」と思いました。最終的には「Research Institute for Humanity and Nature」というなまえを検討会議に提案しました(個人的に呼んでいた「人間・地球研究所」にも幾分通じるかもしれません)。初代の所長候補者であった日熾q隆さんはこの案がとても気に入ってくださいました。最終的にも正式の英語の呼称として採用されたのです。
英語のなまえの検討会では、「Global」や「Environment」の語句が欲しいという意見もあったので、新たに作った研究所のロゴにこれらの言葉の雰囲気を含ませるように後にいくらかは努力したものです。
地球研のロゴ:地球研創設期の研究補助者の一人であった山崎美樹さんのお父さんとわたしとの合作として作成したものです。美樹さんのお父さんの原案を左周りに90度回転したものが元になっています。地球(Globe)を両手で抱いているような雰囲気の人型は、はじめはEnvironmentのEの字をデザイン化したものでした。
閑話休題、オアシスプロジェクトの現地予備調査中には、順平さんを含む共同研究者の皆さんに対して、研究所のなまえの検討の経緯など、如何に素晴らしい研究所を作ろうとしているかという宣伝にもかなり時間を割きました。というのは、ちょうどその頃に研究所の研究スタッフの公募を行っていたからでもあったのです。
学位を取得してもなかなか研究職に就職できない研究者の卵ともいうべき若者が当時でも多くの大学にオーバードクターとして在籍していました。新研究所で公募した助手のポストには、様々な分野で就職活動をしていたこれら優秀な若者達が多数応募してくれるだろうと期待していました。
しかし、いわば働き盛りともいえる助教授のポストへの応募があるかどうかについてはやや危惧していました。というのは、プロジェクト研究を活動の中心に据える地球研では人事を停滞させることなく活性化させたいという意図があり、研究職のポストは、参加するプロジェクトの期間に対応した任期制をとろうとしていたのです。
つまり地球研に新たに採用される研究者は、参加するプロジェクトの終了とともに、その職を失うことになるのです。研究所の理念によっぽど共感する人でなくては、中堅の研究者として現在勤めている、いわば定年まで安泰である職を投げうってまで応募してくれる人は少ないだろうと感じていました。
京都大学の助手を経て当時東京農工大学の助教授であった順平さんは、黒河流域の予備調査を終えてから、その安定した職を捨てて、オアシスプロジェクトを指定して地球研の助教授という任期付きのポストに応募してくれたのです。地球研の創設理念に真に共感してくれたのだと、とても嬉しく感じたものでした。プロジェクトにそして研究所に彼を得たことは、黒河流域での現地予備調査の最も大きな成果だったかもしれません。こうして、何ごとも清濁併せ呑むかのごとく豊かな包容力をもつ順平さんを我がチームの中核メンバーに迎えることができたのです。
プロジェクトが終わるまでに、順平さんが中心になってまとめた成果の一つは、いわゆる水資源に河川水などの表面水資源だけではなく、地下水資源も含めて一体的に考えなくてはいけない、という実証データを基にした提言です。当時の中国政府は全く気づいていなかった指摘でした。中国の大学に所属するオアシスプロジェクトの共同研究者に、北京の水利部の幹部達に特別に話す機会を作るので、このことを是非彼らに話してくれないかと頼まれました。実現はしませんでしたが、中国水利部の部長と言えば、日本では国土交通大臣に相当するようです。因みに、その後の中国政府の対象地域における水管理政策では、地下水資源の売買など、地下水管理がしっかり組み込まれるようになっています。
こうして黒河流域を研究対象とするオアシスプロジェクトは6年間の研究期間を終えましたが、プロジェクトの研究構想が6年程度で終わるはずもありません。対象地域としても、構想からいって中国国内に閉じるはずもありません。プロジェクトをはじめた頃にはアフガン紛争が再燃しており、アフガニスタンに侵攻する米軍の拠点がウズベキスタンに設けられようとしていました。そのこともあって政治情勢が比較的安定していた中国国内を当面の研究対象地域としたのです。中国の西方に拡がるユーラシア中央部を中心に据えて地域的な展開を図ることが次の課題として浮かび上がってきました。
こうしてオアシスプロジェクトを西方に大きく発展させるイリプロジェクトがまさに順平さんを中心として立ち上がったのでした。地球環境問題の一つとしてよく知られているアラル海の水枯渇問題をも取り込んで、中国から、キルギスタン、ウズベキスタン、カザフスタンへと研究対象地域を拡大して、プロジェクトリーダー順平さんによる、フォローアッププロジェクトの開始となったのです。
イリプロジェクトも順風満帆というわけではありませんでした。開始後間もなく、中国新疆省で湖底堆積物の採取候補地を探していた時に、順平さん以下プロジェクトの中核メンバー数人が中国当局に拘束され所持していたパソコンが押収されるという寝耳に水とでも言うべきショッキングな事件が起きました。わが国の一般紙でも報道されました。
中国の友人達と何度も連絡して、実情がかなりわかってきました。調査のために持ち込んだ、当時世界的に出回り始めたばかりの携帯型GPS装置が問題になったようでした。調査隊のパソコンを中国当局が押収したのも、調査で取得したGPSデータをチェックしたかったからなのでしょう。
拘束されたメンバーの解放のための努力には、在北京の日本大使館の全面的な協力を得ることができました。そのおかげもあって、1週間ほどの拘束期間を経て、なにがしかの罰金を支払うことによって、全員無事に解放されることになりました。携帯型GPS装置の取り扱いに関わる中国当局の方針がまだ確定していなかったのも幸いしたのかもしれません。
2007年、国立大学の法人化にあわせて文部科学省が所掌する大学共同利用機関である直轄研究所は、四つの大学共同利用機関法人に再編されました。その時に直轄研究所の一つであった地球研は、各個別の研究所がそれぞれの設立目的を果たしながら基盤研究を進めるとともに、学問的伝統の枠を越えて相補的に結びつき、自然環境をも視野にいれた人間文化の研究を目ざそうという人間文化研究機構の一員になりました。
新たにできた人間文化研究機構では、機構全体としての活動の一環として地域研究を開始しました。その一つが現代中国地域研究でした。早稲田大学など機構外の組織と連携してこの計画を進めるために、機構内組織である地球研に中国環境問題研究拠点なるものを設置して推進することになりました。
わたしは中国国内で実施していたオアシスプロジェクトがちょうど終了したばかりであったこともあって、この拠点のリーダー役を仰せつかりました。初代事務局役の児玉香菜子さんの奮闘も得て、多くのシンポジウムや研究会の開催や成果の刊行などに加えて、「天地人」というニュースレターの発行などを通して、現代中国地域研究全体にもなにがしかは貢献できたのではないかと自負しています。
2008年にわたしは人間文化研究機構の本部へと異動し、地域研究推進センター長役を仰せつかりました。イスラーム地域研究と現代中国地域研究に加えて、金田機構長肝いりの現代インド地域研究の立ち上げにかかわることもできました。現代中国地域研究がその第1期を終了した時には、早稲田大学の天児 慧さんの協力を得て、参加研究機関を再編して第2期をスタートさせることもできたのです。ちょうどその頃に順平さんは地球研の中国環境問題研究拠点リーダーになり、一緒に協力して現代中国地域研究を推進することとなったのでした。
2014年にわたしは機構本部を退職したのですが、しばらくすると人間文化研究機構が実施する地域研究全体を見直す時期がきました。主としてそのことを担当したのは、地球研から機構本部に異動した順平さんだったのです。結果的に現代中国地域研究は終了することになりましたが、順平さんは、地球研の中国環境問題研究拠点発足以来の成果を中国語で出版するという形での後始末を行ってくれました。その後の地域研究全体の見直しと新たな全体像のデザインにも順平さんがかなり貢献したと聞いています。
このように、順平さんはわたしが初期に手がけた仕事の尻ぬぐいをするという役目を、結果的にずっと担ってくれたような気がしています。地球研でのオアシス、イリの両プロジェクトの推進と展開、地球研という組織の理念追求、中国環境問題研究拠点の活動、機構の現代中国地域研究の活動やその終了、その後の地域研究の展開などです。最後の活動や、さらに大きな枠組みである大学共同利用機関法人の行方などは順平さんにとってはまだ道半ばだったのかもしれませんが、わたしにとっては、彼と一緒に歩いた、情熱を傾けた、そして実に実り豊かな30年でした。
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順平さん!今まで本当にありがとう。楽しかったですね!今度は順平さんの方が先に逝ったのですから、あの世で、わたしを迎える準備をしっかりしてください。そちらでもいっしょにまた面白いことをやりましょう!待っていてください。
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(2021年8月)