わたしの履歴書



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ブラインドタッチとわたし

中尾正義

月月火水木金金―大学院生の暮し―

長崎の高校を卒業したわたしは、人生初めての独り暮らしを京都ではじめました。下宿生として部屋を借り、食事は外食という暮しでした。京都は、学生にとても優しい街で、学生生活には必須の古書店や食堂などは実に沢山ありました。街の食堂でも、学生証を見せると食事代を割り引いてくれる学割制度もありました。大学の構内には極めて安い食事を提供してくれる大学生協の食堂もあって、下宿先で食事を提供して貰わなくても全く困りませんでした。

大学生生活を終えたわたしが北海道大学の大学院修士課程に入学したのは1969年4月のことです。津軽海峡を越えて初めてやって来た札幌で、今まで経験のない研究もどきともいえる生活をはじめたのです。

札幌では朝食と夕食の賄いの付いた下宿屋さんが多く、大学から北へと向かう市電の終点、新琴似駅から歩いて15分くらいの所でわたしが借りた素人下宿の部屋も賄い付きでした。京都ではずっと外食だったので、賄い付きの下宿を体験してみたいという気持もありました。

そのお宅は、ご夫婦と小学生の女の子、生まれたばかりの男の赤ちゃんの4人家族でした。ご主人はタクシーの運転手をしておられたと記憶しています。そのお宅の2階に、わたしを含めて3人の下宿生がそれぞれ一部屋ずつお借りしたのです。わたし以外の二人は北大の学部の学生さんで、大学院生はわたし一人でした。

わたしが初めてそのお宅に伺ったときのことです。奥さんによると、付近には人家も少なく冬に吹雪いたりすると全く方角がわからなくなって遭難する人が出るとのこと。だから、「吹雪いた時には新琴似駅からうちに電話をよこしなさい。わたしが市電の駅まで迎えに行ってあげるから。」と言われました。

わたしは、京都での大学生活の4年間をもっぱら登山に打ち込んでいました。大学の所属学部はどちらと聞かれたときには、理学部ですというよりも山岳部ですと答えていたくらいです。まるで登山の専門家でもあるかのように、年間120日以上もの日数を山の中で過ごすという生活でした。冬山登山の経験もかなり積み、吹雪によって視界がなくなるホワイトアウトに苦しめられたことも幾度もありました。

そんな経験を積んで、人生で最も元気あふれる20代前半の若者にたいして、「吹雪による遭難が心配だから迎えに行ってあげる」と下宿の奥さんは言うのです。北海道の女性のたくましさに驚き、感心しました。たぶん過酷な北国での歴代の開拓生活の中で培われた自信と自負なのでしょう。その後も、奥さんは一家の中心となる大黒柱であり、リーダー的な肝っ玉母さんなのだと痛感する場面に幾度となく出くわしました。北海道の女性恐るべし、と感じた最初の出会いでした。後になって、ひとりの北海道の女性に恋をすることになる原因のひとつになったのかもしれません。

平塚らいてうの言葉にある、「元始、女性は太陽であった」かのように、奥さんはそのご家庭の中心でした。ご主人と遜色ないほどに家庭の収入をも支えておられたようです。加えて暮しの中では家事のすべてを引き受け、こどもの教育など家族全員に目配りすることはもちろん、われわれ下宿人の世話という役目のすべてをこなしていました。われわれの世話も単に朝晩の食事の準備をするだけではありません。長い寒冷期に耐える暖房用の灯油の心配や手配から、下宿人の健康状態や最寄り駅からの帰宅にまで気を配るわけです。

当時のわたしの大学院生生活は以下のようなものでした。研究室に自分専用の机を準備して貰い、専門科目の教科書や関連論文の輪読/輪講などを行いつつ、修士論文の研究テーマを探すことに勤しんでいました。そのために、おもしろいテーマに関係ありそうなことをつまみ食いしては、その勉強に精を出すという暮しです。自分の好奇心をとことん追求できる、今まで経験したことのない自由な暮しがすっかり気にいっていました。

朝食後下宿を9時前に出れば、市電を使っても遅くとも10時前には研究室に着きます。昼食や夕食以外の時間は、上記の研究もどきの生活に熱中して、下宿へ帰るのは最終電車になることも珍しくありませんでした。わたしが下宿に帰ると、既に横になっていたこともあった奥さんは急いで起き出して来ては、わたしのために汁を温め、その日の晩ご飯をテーブルに並べてくれたのです。奥さんは、「中尾さんは帰りが遅いからねえ・・・」と、時々ぼやいていましたが、文句を言うこともなく、毎夜、わたしの帰りに合わせて遅い晩ご飯の支度をしてくれたものでした。

わたしの暮しのすべては研究室であり、下宿に帰るのは、遅い晩ご飯を食べ、眠り、朝食を食べるためだけという生活だったのです。厳冬期には気温がマイナス20℃以下にもなる札幌にあって、石油ストーブの一冬の石油使用量が20リットル以下だったということも、このことを物語っています。石油ストーブは、眠りにつく前にほんの少し部屋を暖めるだけでよかったからなのです。

上述の、極端に帰りが遅いというわたしの生活パターンが、賄い付きの下宿先にとってはすごく迷惑なことだったと気づきました。そこで、契約が切れる翌春には、食事が付かずに部屋を借りるだけという京都時代のような下宿を探して引っ越しました。新しい下宿は研究室にも近く、時間を気にせず、大家さんに気兼ねすることもなく夜遅く帰ることができるようになりました。ますます、一日の大部分を研究室で過ごすという研究もどきの暮しを楽しむことができたのです。

同僚の一人が半分冗談で言っていたように、「大学院生は一週間休みなく月月火水木金金で、一日24時間、眠っている時と食事の時間以外は常に研究のことだけを考える暮しなのだ!」という、まさにそんな生活だったのです。

サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ

札幌で暮しはじめて一年が過ぎた1970年の春頃です。指導教官であった黒岩大助先生のご助力もあって、第12次南極地域観測隊の越冬隊員にわたしがなれそうだというニュースがもたらされました。その年の秋11月25日には東京の晴海埠頭を南極観測船「ふじ」で出港することになります。

しばらくすると、12次隊の出発準備のために東京に来てくれといわれました。研究観測のための準備は、電磁気学や気象学、地学、雪氷学、海洋学、生物学、医学などそれぞれの専門分野の観測隊員が行います。問題は、隊員全員が越冬生活を無事に全うするための装備や食料などの一般的な設営に関わる準備をする隊員があまりいないとのことでした。

東京でわたしが特に頼まれたのは、越冬隊員1年分の食材や調味料、嗜好品などの食料関連物品の調達の準備でした。もっとも、この仕事を中心的に担うのは、越冬生活中に調理を担当する隊員の方です。紀文の板前さんだった飯野さんと、後に万念さんというあだなが付いた、赤坂のホテルのコックさんだった清水さんの二人が調理隊員として決まっていました。しかし越冬隊員30人全員の1年間分にも及ぶ膨大な量の食料の準備作業、調達リスト作りや発注、さらに食品寄付の依頼への対応や受け入れなどは、飯野さんや清水さんのような技術職ともいえる調理の専門家は経験もなく、慣れていないとのことでした。海外登山の遠征準備作業に多少なりとも経験のある山岳部に所属したことのある大学院生にやらせようということだったのではないでしょうか。越冬装備の準備に関しても、北大山岳部のOBでもあった寺井啓さんが準備を頼まれていました。装備と食料とそれぞれ担当は異なりましたが、寺井さんとわたしとは年齢も近く、同じ立場の助っ人として、その時以来良い友人としてお互いに助け合うことになりました。

その頃、日本の南極観測事業を担っていたのは、上野公園にある国立科学博物館の極地部という部署でした。非常勤の職員を加えても職員数が10人前後という小さな組織でした。東京に出てきたはじめの頃は、わたしはボランティアとしての助っ人でしたが、しばらくすると越冬準備作業の対価としてアルバイト賃を払ってくれるようになりました。

池袋のすぐ北にある板橋に、極地部が管理する倉庫がありました。南極から持ち帰ってきたパイプベットや布団などの寝具、ヤッケやセーター等防寒具など様々な南極用の装備品が積まれていました。倉庫の一角を整理して、われわれ助っ人や、時折東京にやってくる隊員候補者数人が泊まれるスペースをつくりました。台所やシャワー室も併設されていたこの倉庫を、一日平均4〜5人程度が寝泊まりに利用していました。

寺井さん(愛称:啓坊)やわたし、調理の万念さんは板橋の倉庫暮しの常連でした。調理隊員の飯野さんと万念さんはそれぞれ和食、洋食の専門家ですが、ロシア料理や中華料理はプロではないそうです。そこで彼らは、専門でない料理を覚えてその幅を広げるために時々都内のロシア料理店や中華料理店へ出かけてはその腕を磨くという研修をしていました。彼らが研修へ行った日の板橋の倉庫での夕食は、彼らの覚えたての料理でした。復習をかねて同じものを調理しては同居するわたしたちに振る舞ってくれたのです。そしてその翌日の夕食は、啓坊とわたしとが全く同じその料理をまねて作ることが常でした。啓坊とわたしとが作った料理は専門店で提供するものとは似ても非なる料理だったかもしれませんが、二日続けて同じ?料理を食べたものです。彼らが研修に行くのは実に楽しみでした。

板橋の倉庫から 上野の科学博物館に通うには、国鉄の板橋駅で赤羽線(現在の埼京線)に乗り、池袋で山手線外回りに乗り換えて、科学博物館の最寄り駅である鶯谷もしくは上野で降ります。

極地部での手始めの仕事は、以前の観測隊の調達リストを参考にしながら12次隊のための調達リストを作るというものでした。最も時間を費やしたのは、食品メーカー等対応する各民間会社の担当者と発注品の価格や搬入時期、搬入の仕方などに関する様々の交渉でした。

仕事の相手がいわゆる一般の会社勤めのサラリーマンの方々でしたので、夕方5時を過ぎると電話がかからなくなることも多く、仕事になるのは朝の9時から夕方5時まででした。土曜の午後や日曜、祭日は全く仕事にならないという状況でした。

一日24時間、一週間は月月火水木金金という研究三昧の暮しをしていた大学院生にとって、全く異なる生活リズムになりました。ちょっと前に流行った、うえき等さんの「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」を彷彿とさせる一種のサラリーマン生活になったわけです。

このような生活では、夕方5時を過ぎると何もすることがありません。大学の研究室で夜9時や10時まで研究もどきの生活を楽しんでいた身にとっては、ある意味ではつらい状況でした。

そういう時に、池袋で「タイプ教室」という看板を見つけました。夕方から夜にかけて何もやることがなく時間がたっぷりあるのだから、英文タイプを習おうかなと考えました。英語の論文を自分でタイプすることができるようになれば、将来便利ではないかと思ったのです。夕方上野から板橋への帰路、池袋で山手線から赤羽線へと電車を乗り換えるのですから、タイプ教室に立ち寄るのはたやすいことです。黒岩先生から、自分の研究成果である論文は、日本語ではなくなるべく英語で書きなさいといわれていたためでもありました。

ということで、くだんのタイプ教室を訪れました。英文タイプに特化したコースもありました。タイプライターは貸与してくれるとのことでしたから、すぐにもはじめられます。授業料がどのくらいだったか忘れましたが、極地部の倉庫での宿泊費は無料でしたし、極地部で支給してくれるアルバイト賃からの支出は、板橋から上野までの電車賃と毎日の飲食費だけという暮しでしたから、金銭的には十分余裕がありました。

訪れたタイプ教室を見渡すと、生徒さんは例外なく妙齢の女性で、ほとんどの人が秘書を目ざしてタイプの技術を身につけようとしているという話しでした。全員が昼の勤務が終わってから、キャリアアップのために通ってきているとのことで、教室の開講時刻も、上野の科学博物館で夕方5時には仕事が終わるわたしの時間スケジュールともぴったりマッチしていました。

それからは週末以外ほぼ毎日、夕方1時間あまりを教室でのタイプ練習に励みました。男の生徒はわたし一人でしたし、(残念ながら)女性の生徒と仲良くなれるわけもなく、無駄口をきくこともなくせっせとタイプを打つという時間でした。おかげで2ヶ月ほどすると、練習用の原稿に目を集中したままで(タイプライターのキーや自分の指先を見ることなく)、原稿と同じ文章をタイプするといういわゆるブラインドタッチでタイプするということがなんとかできるようになってきました。

タイプ教室でのトレーニングは2ヶ月ほどで終了しました。「ふじ」の出港が近づくと極地部での仕事の中身が食品会社との交渉から実際の発注品への対応へと変り、上野の科学博物館でのデスクワークではなく、発注した物の受け入れ作業など晴海埠頭周辺の搬入倉庫での作業が中心になってきたからです。時間も夕方5時に終わるというわけでもなく、日によって大きく違うようになりました。定期的にタイプ練習に割く時間はほぼ無くなったわけです。

こうして出港準備を終えたわれわれ12次隊は、今からちょうど50年前、1970年11月25日に「ふじ」に乗りこんで晴海埠頭を南極へと出港しました。無数のテープが舞う中、父や母の他にも多くの友人たちが見送ってくれました。その日は、はからずも作家の三島由紀夫さんが盾の会の若者たちとともに、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を図った日でした。

「ふじ」は南極への往路、オーストラリア西海岸にあるフリーマントルに寄港します。 そこでは現地の皆さんを招待して「ふじ」を公開するのが恒例になっていたようです。訪れる皆さんのために軽食の準備もしました。特にフリーマントル周辺に住む在留邦人の皆さんに最も人気が高かったのが「にぎり寿司」でした。まともに寿司を握れるのは板前の飯野さんだけでしたので、万念さんと啓坊それにわたしの3人が急遽握り方を飯野さんに教えて貰いました。左手でシャリの形を整えつつ右手でわさびを塗りつけ、最後に右手で寿司ネタをシャリに載せてから両手を使って短時間で全体を整形するという手順でした。こうして飯野さん他3人のにわか職人が長蛇の列となる「にぎり寿司」を提供したものです。みなさんにすごく喜んで貰えたのは良い想い出となりました。

フリーマントルでは、南極へ向かう「ふじ」の 最終寄港地として、燃料や真水を船に満載します。加えて、野菜や果物など生鮮食料品の調達や、当時日本では高関税で極めて高価なウイスキーやブランデーなどの洋酒の購入も行います。オーストラリアの業者さんとのやり取りなどのためもあり、一台の英文タイプライターが船室にありました。

船の運航は「ふじ」の乗組員が行うため、観測隊員はいわばお客さんとして船上での仕事はほとんどありません。船の航法の勉強や無線電信技術の習得という船上での特別なタスク(情報通信技術の進歩と南極観測 参照) を負っていたわたしでも時間的にはかなり余裕がありました。そこで、このタイプライターを使って、池袋の教室の続きとなるタイプ練習をしたものです。

船室でタイプ練習をするわたしを見ていた東京大学の教官だった12次隊の小口隊長は、「モンヤなあ(モンヤは当時のわたしのあだな)、タイプはなあ、秘書にやって貰えば良いので、自分でやることはないんじゃないか?」などと言って冷やかしていました。

当時、大学院生としてわたしが所属していた北大・低温科学研究所の各研究室にも一人ずつ秘書さんが配置されていて、研究用物品購入の会計処理並びに教官や大学院生の出張手続きなどの庶務作業を行ってくれていました。さらに、研究者が手書きした英文論文をタイプで清書するという作業も秘書さんが行うことが多かったようです。とはいえ、教授や助教授といった研究所の先生方の英文論文への対応が中心で、わたしのような大学院生が自分の論文の清書を秘書さんに頼むということはお願いしづらい雰囲気でした。だからこそ、池袋のタイプ教室に通おうと思ったのかもしれません。

タイプライターからパソコンへ

一年間に及ぶ越冬生活を終えたわたしたち12次隊は、一年後に再び南極にやって来た「ふじ」に迎えられました。札幌で冬季オリンピックが開かれた1972年3月のことでした。日本への帰路は、南アフリカのケープタウンで「ふじ」を下船し、われわれ越冬隊員は南アフリカからヨーロッパ経由で飛行機利用による帰国の旅でした。円貨の対ドル為替レートが1ドル360円という固定相場の時代が終り、越冬中であった前年の1971年には1ドル308円を中心とする変動相場制へと移行したばかりでした。円の価値が上昇したとはいえ、飛行機による旅行はかなり贅沢なことだったと思います。

わたしたちが日本を離れていた一年半の間に様々な技術革新がおきていました。そろばんに代わり得る四則演算のできる電卓が登場していました。わたしが池袋のタイプ教室や船上で練習に使っていた機械式のタイプライターもほぼ姿を消し、タイプライターも電動式の時代になっていました。

さらに数年するとワードプロセッサー、続いてパーソナルコンピュータ(パソコン)が登場しました。特にパソコンでは、搭載するソフトウエア次第で英文や邦文のタイプ清書が可能となってきたのです。英文用のワープロソフトとしてワードスターが一世を風靡しました。その後も様々なワープロソフトが開発されてきたのです。現在では、様々な言語に対応可能なワードなどのワープロソフトが提供され、益々便利になってきています。

タイプライターによる原稿書きとパソコンのワープロソフトによる原稿書きとの大きな違いは、前者ではできない推敲作業が後者では可能だということです。鉛筆でぐちゃぐちゃに推敲した元原稿を最後にタイプライターで清書するというかつての時代と異なり、パソコンで書きなぐった原稿をワープロ上で推敲すればその時点で最終稿の清書も完了するのです。

こんな時代には、初稿の書き下ろしから推敲作業を含む最終稿の完成までを著者自らが行うことが効率も良く簡単です。つまりタイプのプロである秘書さんの仕事がなくなった、ともいえます。ということで、研究者自らがキーボードを叩くのは当たり前の時代になったのでした。小口隊長の冷やかしとは裏腹に、身につけたブラインドタッチの技術が研究者にとっても役立つ時代が到来したのです。

英文入力にブラインドタッチができたわたしは、日本語の原稿の場合でもローマ字入力を採用することによって、比較的素早く原稿を仕上げることができました。もっとも、池袋のタイプ教室では数字の入力もブラインドでできるように練習させられましたが、論文作成時には、数字だけは目でキーボードを確認しながらゆっくり入力するように心がけました。後で読み返しても、数字の入力ミスは見つけるのがかなり難しいからでした。とはいえ、ブラインドタッチの技術に助けられた40年あまりの研究生活でした。

こうしてわたしは、2014年の3月に、最後の職場となった東京神谷町の人間文化研究機構本部を退職して、家族の住むなごやに戻ってフリーター生活となりました。余裕のできた時間を使って、「たそがれ梅花のよまいごと」と題する個人的なホームページを立ち上げました。はじめのうちは、雑誌などで発表した原稿を手直ししてアップしていたのですが、そのうちにホームページに掲載するために新たに原稿を書き下ろすようにもなってきました。修得したブラインドタッチの技術は退職後の暮しでも大いに助けになりました。

ところが2年半前、2018年4月にわたしは脳出血を発症して左半身ふずいになりました(昨日より今日、今日より明日)。車椅子の生活となったのです。左腕は肩からぶら下がっているだけで全く動きません。この状態は数ヶ月間続きました。こうなるとブラインドタッチどころではありません。幸い右手は以前通り動くので、右手の人指し指一本による入力でパソコンも何とか使えますが、入力のスピードは以前の半分以下に落ちました。

その後のリハビリのおかげで、杖をつきながらではありますが、最近は1キロ程度は歩けるように回復しました。バスや地下鉄を利用して一人で外出もできるようになりました。しかし左手の指はまだ半分しびれた状態で、自由に動かすのは難しい状態です。

現在も週に3日余りリハビリに通っています。リハビリによる回復の目標をリハビリ施設で尋ねられます。「10キロほどの距離の歩行とブラインドタッチの実現が目標です」と今は答えています。あとどれくらいかかるかわかりませんが、身体機能が日々向上していくことを楽しみながら、リハビリに励む毎日を過ごしています。そのうちにブラインドタッチ入力による原稿をホームページにアップしたいと思っています。

(2020年12月)

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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