徒然なるままに



ご質問やご意見はメールをお寄せください。

昨日より今日、今日より明日

中尾正義

孫の成長と年寄の繰り言  

岐阜県に住む息子のお嫁さんから、3歳になる孫の様子を撮った動画が月に数回の頻度で送られてくる。孫が、スクリーン上で跳んだりはねたりしている。地上に降りて餌をついばむ鳩の群れを公園中追いかけては走り回っている。あるいは、右に左に腰を振りながら、時には片手でVサインを出しながら、保育園で教わったのであろう童謡を自慢げに熱唱している。歌が終ると満足げに笑う。  

3年前にはベビーベッドの上に横たわってひたすら眠っていただけだった孫が、急激にその身体能力を向上させている。「這えば立て、立てば歩けの親心」という。日に三度の食事も、はじめはスプーンで食べさせて貰っていたにもかかわらず、そのうちに、待ちきれないのか自ら手づかみで食べるようになった。そして、すぐにスプーンの使い方を覚え、あっという間に箸での食事にも挑戦している。その様子を撮る母親に気づくと、カメラに向って自慢げに笑うのだ。  

昨日より今日、今日より明日と、今までできなかった様々なことが日に日にできるようになっていくのだ。こんな自分の人生を、彼はまさに謳歌しているようである。  

孫が感じていると思われる満足感は、トップレベルにあるアスリートが感じているであろう充実感にも通じるものがあるような気がする。日々の苦しい練習に耐えつつも、日本記録を、あるいは世界記録を更新しては、昨日より今日、今日より明日と、自らの成果として人類の能力の限界を広げているのだと実感できるのだと思う。みなさん、まさに充実した人生を謳歌しているのではなかろうか。  

人は高齢になると、アスリート諸兄姉や幼児とは全く逆の体験をするのが常である。昨日より今日、今日より明日とやれることが少なくなっていく。身体能力が日々低下していくのだ。わたしの場合、40代後半くらいから次第に老眼の兆候が現れてきた。薄暗い飲み屋のメニューがはっきりとは見えなくなってきた。当該店のメニューを思い起こし、その記憶を頼りに注文するのだ。若い頃より目だけは良く、身体検査の検眼時には検眼表の一番下の小さな文字まで一気に読み下していたものだったのに、である。50歳を過ぎた頃に、老眼鏡なるものをあつらえた。文庫本を読むためにはめがねが必携の道具となったのである。今では我が家の居間や書斎など、生活空間のあちこちに老眼鏡が置いてある。それだけ老眼鏡を必要とする局面が増えてきたのだ。めがねを忘れて外出するとまず用を足すことができない。

視力に限らず、着実に身体能力が低下して来たことを実感することが増えてきた。今までは10分あまりで着いていた近隣のスーパーマーケットまで行くのに20分近くかかるようになる。安いときには3〜4本まとめて買っていたパック入の牛乳も、重くて運ぶことが大変になり、頑張っても2本買うのが精一杯となる。

今となっては、北アルプス北端の剱岳から薬師岳、三俣蓮華等を超えて北穂高や奥穂を経由して西穂高岳まで一気に縦走することなどとてもできないような気がする。30〜40キロの荷物を背負ってひと月以上も山の中を歩きまわることは難しかろう。厳冬期に天狗尾根から鹿島槍に登り、大キレットを超えて遠見尾根か八方尾根経由で下山するような山行計画を実行することなど可能ではないだろう。滝谷を遡行して、最後は北穂高岳へとバットレス状の岩尾根をよじ登り、奥穂を経て涸沢の岩小屋で一泊した後に、徳本峠から穂高の紅葉を愛でつつ松本へと下るなどという優雅な山行も、想い出の中だけの世界のような気がする。冬の幌尻岳をスキーで往復するようなことも自信が無い。昨日より今日、今日より明日と、日に日に様々なことができないようになってきているのである。

脳溢血の発症  

人間文化研究機構本部の職を辞してから4年あまりが経過した2018年4月の末近い頃であった。妻は街に買物に出かけ、今日は一人だし、一日のんびりしようという日曜日であった。昼を過ぎて少し腹も減ってきたので鍋を火にかけてインスタント・ラーメンを作った。できあがったラーメンを丼に移して食卓まで運び、食べ始めた。右手で箸を持ち、汁が飲みやすいよう左手で丼を手前側に少し傾けていたと思う。  

食べている途中で突然カタッと音がしてラーメン丼の傾きがなくなった。丼が急に水平に戻ったのである。その衝撃で少量ではあるがスープが食卓にこぼれた。こぼれた汁を拭くために、食卓の中央に置いてあったティッシュを左手で取ろうとしたがどうやってもティッシュに向かって左手を動かすことができないことに気がついた。左手が全く動かないのである。考えたらラーメン丼の傾きが急に水平に戻ったのも、丼を傾けていた左手の力が抜けたからなのではないのだろうか。左手が全く動かないという現実に、驚き、そして戸惑った。  

ひょっとしてと思って、左足を動かそうとしてみた。全く動かない。どうやら話に聞いたことがある脳梗塞か脳溢血ではないのだろうか。そのことによる半身が麻痺する現象のような気がしたのだ。ともあれ外出中の妻に連絡するとともに救急車を手配するに如くはない。

幸い右手と右足は動くようではある。電話機は何処にあるのだろうか。自宅の電話、いわゆる宅電が食卓から2メートルほど離れた隣の机の上にあった。どうやればその電話機を手に(右手に)取ることができるのだろうか?実に遠い2メートルだった。座っていた食卓用の椅子から滑り降り(というか、ずり落ち)、右手と右足を使って、床の上をずるずると這って隣の机に近づいた。その上に置いてあった電話機にかろうじて手が届いた。かくして妻に状況を伝えるとともになんとか救急車を呼ぶこともできたのである。

救急車が来たのと、急ぎ帰宅した妻が我が家に到着したのはほぼ同時であった。ひと安心したせいなのか、それからのことはあまり詳しく覚えていない。とまれ、運ばれた救急病院で頭のCT写真を撮られ、右視床出血という脳内出血の一種であると診断されたのであった。

あとはおきまりの入院生活に入ったが、今まで経験したことのある入院と大きく違ったのは、治療と同時にいわゆるリハビリが開始されたことであった。動かなくなって固まってきている左足と左手の筋肉のマッサージを基本としたリハビリであった。入院後ひと月ほどで、車椅子に乗り込んで食事をとる、トイレに行く、等の基本的な日常生活は何とかできるようになってきた。もちろん介助を受けながらのことである。初体験であった車椅子での移動というものは、動かせる手と足すべてを使う作業であり、移動には全身の機能をフル活動させる必要があるということを知った。

救急病院でのひと月ほどの治療の後、リハビリ専門の病院への転院を薦められた。そこでは、回復期には欠かせないリハビリのサポートを、週末も含んでほぼ毎日終日にわたって得られるとのことであった。かくしてリハビリ専門の加藤病院に転院することとなったのである。

「歩く」という、難しい作業

加藤病院でまず課せられたのは、車椅子に依存しつつではあるが、起きてから寝るまで自立した生活を送るということであった。起床、洗顔、寝間着から普段の衣装への着替え(寝る前は逆に寝間着に着替えること)、トイレの往復、食堂への移動、三度の食事、食事後の歯磨き、フロアの異なるリハビリ室へのエレベータ利用による往復、また(嬉しいことに)週に2度の入浴、等々入院中のすべての生活を他人に頼ることなく自分で自立して行えるように努力することが求められた。そのうちに、単なる努力目標というだけではなく、ある程度は自活できるようになってきた。いつの間にか、車椅子の運転、操縦による移動もずいぶん手慣れてきた。エレベータ内部のような狭い空間でも車椅子の方向を180度回転させることができるようにもなったのだ。

次の目標は、移動手段である車椅子とさよならをすることであった。つまり自分の足で歩いて移動できるようになること。そのための第一歩は、手でものに掴まることなく二本の足だけである程度の時間は立っていられるようになることが必須となった。一週間ほどして、車椅子を離れて両足で立てたときの嬉しさは何ともいえない。幼児が「這えば立て!」という親の気持を知ってか知らずか、その期待に応えることができたときの誇らしさに通じるような気がした。

二本の足だけで立つということは、移動するという作業や立っているという行為から両手が解放されることに他ならない。解放された両手は、道具の開発や利用を含む様々な人の活動分野を生み出し、その後の人類の繁栄の元を築いたともいえよう。アフリカの森林からステップへと進出し、その後ユーラシア大陸を経て世界中に拡散していく人類の隆盛の契機ともなった身体能力の進歩であったに違いない。

わたしが両足で立てるようになった時にも、当然ながら、手が自由になった(残念ながら左手はまだ動かず、解放されたのは右手だけだったが)。自由になった右手によって、たとえば、ズボンの上げ下ができるようになり、トイレの中での完全な自立にも?がったのである。

こうして二本の足で「立つ」ということはリハビリ病院への転院後比較的短期間に実現できた。しかし、「立てば歩め!」の「歩く」という行為がかくも難しい作業だとは思ってもいなかった。もっとも、体重の軽い孫の場合でも、よちよち歩きから、公園を走り回れるようになるまでには2年近い時間をかけている。そうしてやっと「歩ける」ようになり、「走る」こともできるようになったのだ。

何十年も前ではあるが、わたしも2年近い時間をかけて「歩く」という技術を修得したに違いない。しかしながら、脳内出血によって神経がダメージを受け、身体が覚えたその技術をすっかり忘れてしまったのだろう。どうやって歩けば良いのか全く分からないのだ。「今まで全く経験の無いひとつの技術をゼロから取得する」必要に迫られたといってよい。

半世紀も昔の話だが、わたしは大学に入学すると同時に山岳部に入部した。初年度の冬は、新潟県の妙高高原、笹ヶ峰でのスキー合宿に連れて行かれた。同期の新入生14人のうち4人はわたしも含めて九州の出身者で、全員スキーなるものは見るのも触るのも初めてであった。もっとも他の10人は多少なりともスキーの経験があったようだ。中でも、神戸出身のNR君と函館出身のTG君の二人は、上級生も顔負けするほどに、ずば抜けてスキーが上手であった。聞けばNR君はスキー準指導員の資格を持っているという。TG君は、割れ竹の短いかけらを折り曲げただけの竹スキーなるものを長靴の底に着けて、冬場は毎日のように函館山の斜面を滑り降りて、子供の頃から遊んでいたとか。

スキー初心者の4人は、山の斜面を斜めに滑る斜滑降なるものを試みつつ、目標とする場所まで到達してはそこで転んで止る、というような滑り方をしたものである。しかも多くの場合は目標地点に到達する前に転倒する始末であった。どうすればもっと旨くスキーを操ることができるのか?スキーで曲がることなんてできるのだろうか?上級生よりも聞きやすい同期のスキー上手二人にそのこつをよく聞いたものである。二人の返事が好対照だったのをよく覚えている。

スキーで止るためには転ぶ以外にないことや、曲がるためには、いったん転んでから立ち上がり次の進行方向へとスキーの向きを修正して次の転倒予定地点へと再出発するというわたしたち初心者のやり方は、TG君には全く理解できないようであった。「止ろうと思ったら勝手に止るやないか!」「曲がろうと思ったらスキーは自然と曲がる筈や!」という。「思えばそうなる!」というのがスキーを身体で修得した彼のアドバイスであった。止ったり曲がったりできないのは、「止ろう」「曲がろう」という思いが足りないかららしい。

一方、初心者の悲哀に理解を示してくれた準指導員のNR君は、滑り方のノウハウのようなことをそれなりに教えてくれた。斜滑降の時には、身体をねじって谷側を向きつつ谷側の足にほとんどの体重をかけること。曲りたい時には両足の膝を同時に曲げてスキーにかかる体重を減らす(抜重する)ことなどである。これらアドバイスのせいもあってか、妙高の外輪山である三田原山から、何十回と転びながらではあるが、われわれ初心者もなんとか滑り降りることができるようになったものである。

リハビリ病院で、どうやって歩けば良いのか全く分からないわたしが「歩くという技術をゼロから修得する」必要に迫られたという状況は、笹ヶ峰で初めてスキーなるものに向き合った当時と同じことだと考えられる。わたしが幼児期に修得した「歩く」技術は、TG君のスキー技術同様どのように歩くかという理論的理解は全く無しに、身体で修得したものである。したがって「歩く」という行為の努力目標が頭で全く分からないのである。足のリハビリが主な担当であった理学療法士の栗田浩未さんに、「歩く」とはどういう行為なのかいうことを幾度か聞いたものである。栗田さんが貸してくれたのが参考文献に掲げた水口慶高さんの著書(水口、2017)であった。

その本に目を通して、われわれが幼少時に身体で体得した「歩く」という行為とは、「身体の重心」を「足という支点」の真上から意図的にずらして非安定状態を作り出し、重力によって身体が倒れかかる力を移動の推力として利用する行為であるということを初めて知った。つまり身体の重心が支点(足)の真上にないというアンバランスな非安定状態が人の動きを作るという。このことは前後への移動に限らず、左右の動きにも通じる。したがって、右足が支点の場合には身体が左前方へ倒れかかる力を利用して歩くので、歩行の支点は進行方向に伸びる左右それぞれ二つの軸に沿って交互に移動していくことになる。

体重を支える足というものも単なる支点ではない。かかとが球状であることによって重心の前方への移動に伴って支点となる場所もかかとの中で少しずつ前方へと移動していく。続く足首の回転によって足の支点の位置は更に前方へと移動する。そして体重を支える支点が前方へと移動した極めつきは、いわゆる母指球がその役目を担い、親指が支点の最終点となるのである。上記の、かかと、足首、拇指球での回転を利用しつつ体重を支える支点位置を前方へ移動させるということが、ロッカーチェアーと呼ばれる揺り椅子と似た機能であるためか、それぞれヒールロッカー、アンクルロッカー、フォアフットロッカーといわれる。

このような「歩行の理論」が少しは理解できたこともあってか、「歩く」という機能の回復もずいぶんと早くなったように思う。歩きながら後ろを振り向く、横向きに歩く、後ずさりする、などの動きも少しはできるようになってきた。こうして、杖の助けを借りながらではあるが、何とか歩けるようになってきたのである。

昨日より今日、今日より明日

「歩く」ことはある程度できるようになってきた。しかし左手は単なる物体として左肩からぶら下がっているに過ぎないという状況が続いた。しかし作業療法士の山口玖未子さんによるリハビリのおかげでしばらくすると左手も少しずつ動きを取り戻してきた。朝の洗顔は、濡らした右手一本で顔をこねくり回すという有様だったが、両手で顔を洗うということが可能になったことに湯船に浸っているときに突然気がついた。左手が顔の高さまで挙がるようになっていたのだった。

左手でペットボトルの本体を支え、右手でふたをねじってボトルの口を空けることもできるようになってきた。運動着の腰紐を蝶々結びに結んで締めることもできるようになった。昨日より今日、今日より明日と、日に日に様々なことができるようになってきたのである。日々できることが減ってきていた年寄が、自らの持つ身体機能が日に日に向上するという幼児やアスリートと似たような気分に浸ることができるようになったのである。自らの可能性がどんどん増加するのだ。楽しくないわけがない。

わたしの入院中に、「新御三家」の一人である歌手の西城秀樹さんが亡くなられた。63歳という若さであった。西城さんは2度も脳梗塞を発症して身体の自由がなくなったそうだが、そのたびにリハビリに励んで仕事に復帰された方である。リハビリの様子が公開されたということもあって、西城さんの告別式の中で、郷ひろみさんと並んで「新御三家」の仲間であった野口五郎さんによる「もうリハビリ頑張らなくても良いんだよ」という弔辞がテレビで中継されていた。しかし西城さんは、身体能力が日々向上するリハビリを楽しんでいたのではないかと思う。ひょっとしたら「リハビリしなくて良いなんて言わないでくれ。リハビリという俺の楽しみを奪わないでくれ!」と天国から言っているかもしれないなどと想像するのである。

合計3ヶ月にわたる救急病院とリハビリ病院での入院生活に別れを告げ、わたしは7月の下旬に懐かしのわが家に戻ってきた。発症前と同じというわけにはいかないが、ともあれ比較的静穏な暮しに戻ったのである。 今日も我が家の前の露地で遊ぶ子供達の叫び声が聞こえる。彼らの歓声を聞いていると、昨日より今日、今日より明日という、より良い未来を信じている子供達の弾けるような喜びを感じることができる。そのお裾分けに預かれるような気がして、わたしは今日もリハビリに励むのである。

参考文献 水口慶高(2017)『要は「足首から下」〜足についての本当の知識〜』(木寺英史 監修)、実業之日本社、pp.224.

(2018年9月)

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

ホームに戻る