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マリアンヌ

中尾正義

ネット上の百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、マリアンヌ(Marianne)というのはフランス語圏の女性名で、フランス共和国を象徴する女性像、もしくはフランス共和国の擬人化されたイメージだとのことです。自由の女神としても知られており、ヒトがヒトらしく生きていくうえで最も基本的な条件の一つともいえる「自由」を象徴しているのかもしれません。

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一年間の浪人生活を終えて(京都のお雑煮)、1965年4月にわたしは京都大学に入学しました。しばらくして、長崎での中学、高校時代の友人の一人KS君が、大学生に成り立てのわたしを京都の下宿に訪ねてきました。彼も前年の東京大学受験に失敗していたのですが、東京のSDYという予備校に一年間通って、先日の受験でめでたく受かったとのことでした。

SDYでは予備校生のために寮が完備されていて、その寮で同じく東大を目ざす受験生の一人TK君と親しくなったとのことでした。そのTK君の実家が京都にあるらしく、ちょうど帰省している彼を実家に訪ねる予定なので一緒に行かないかと誘われました。TK君も無事に東大に受かったとのことで、気兼ねする必要もなく、連れだってTK君の実家に向いました。下鴨神社境内の糺ノ森の北の入り口付近にあった一軒のパーマ屋さんでした。その名前がマリアンヌでした。

聞けばTK君のお父さんは二次大戦で戦死され、お母さんが美容院をやりながら女手ひとつで彼と妹さんとの二人の子供を育ててこられたとのことでした。AYという名前のTK君のお母さんは、わたしの母よりも一回り以上若い感じの美しい方で、話し好きの素敵な小母さんでした。その時は顔見知りになったというだけでしたが、「中尾君は、東京にいるKS君やTKと違って京都にいるのだから、いつでも訪ねていらっしゃい!」と優しく誘ってくださったのでした。

京都で暮したそれからの4年間に何度お訪ねしたことでしょうか。パーマをかけに来ているお客さんがいるときには、置いてあった女性週刊誌などを読んで時間をつぶし、お客さんがいなくなると、小母さんと実に様々な話をしました。わたしを愛してくれた長崎の母や姉達の姿を小母さんに見ていたような気がします。きっと彼女も、東京にいる息子TK君の姿をわたしに重ねていたのではないしょうか。

AY小母さんは聞き上手で、わたしの大学生活について実にいろんな質問をしてきました。京都でのわたしの暮らしぶりから、ご自分の息子の東京での暮しを想像されていたのかもしれません。

わたしは大学入学と同時に山岳部に入部していました。パイオニアワーク、オールラウンド、コンプリートという三条件を満足させるような山登りをしなければいけない、という部の基本方針にわたしは心酔していました。登山とは全く無縁なAY小母さんを相手に、この基本理念やそのための努力などを熱く語ったりもしました。

わたしは山岳部の活動にどっぷりとはまり、一年間に平均120日ほどを山の中で過ごすという生活でした。読書でも、人類初のヒマラヤ8000メートル峰の登頂成功とその後の凄惨な顛末が書かれている、モーリス・エルゾークの『処女峰アンナプルナ』にすっかり魅了されていました。愛読書の一冊であり、AY小母さんにも是非読んで欲しいと伝えたものです。

大学の2回生になった翌年の春には、山岳部同期入部の友人HJ君が日燻R脈ペテガリ岳のすぐ南の尾根上で雪庇を踏み抜いて滑落し行方不明になるという遭難事故が起きました。救援・捜索活動は難航し、彼の遺体が発見されたのは何回かの捜索活動の後、盛夏になってからでした。遺体収容作業も簡単ではありませんでした。登山用ロープの助けを借りなければ近づけないような場所に見つけたHJ君を、荼毘に付すことができる場所まで運び出さなければいけないのです。検死にきた警察の方も、ご自分が現場に行くのがやっとのようでした。われわれはなんとか彼の遺体を尾根の上まで運び上げ、そして荼毘に付しました。彼を焼く焔と煙を見あげながら、元気だった彼と一緒に歌っていた歌を次々に歌いました。涙が止めどもなく流れました。そんなわたしの話を、AY小母さんはじっと黙って静かに聞いていてくださいました。

わたしが3回生になった頃、地域の病院への研修医の恣意的派遣など、有力大学の医学部教授によるボス支配的な医療制度に対する若手医師や医師の卵達による反対闘争が、ベトナム反戦運動や日米安全保障条約の期限延長への反対運動などと結びついた、いわゆる大学紛争が激しくなってきました。反体制運動の中心になったのは各大学で学生が中心になって結成した全共闘(全学共闘会議)と呼ばれた組織でした。

AY小母さんとわたしとの会話の中に「革マル」や「ゲバ棒」、「全共闘」、「団交」、「中核派」などの言葉が増えてきました。京大でも、学生同士の議論の中心が大学紛争問題になっていました。当時、いわゆる体育会系のサークルはどちらかといえば学生運動に批判的であり、文化系のサークルは学生運動を肯定的に捉えている傾向があったと思います。こうした中で、山岳部は体育会系に位置づけられてはいましたが、文化系的な活動も多いためか、OB達も含めて全共闘による反体制的な学園闘争を支持していたと思います。わたしと同期入部の山仲間の中にも、NR君やBB君など、全共闘運動に傾倒していく友人達が現れました。

そのうちにAY小母さんは、学生運動に対する評論家としての意見ではなく、主体者としてわたし自身がどうすべきか、どうするつもりか、などということを真剣に質問してくるようになりました。わたしも時の権力者達への反発は強く、全共闘運動に代表される学生運動を肯定的に捉えていましたが、運動にのめり込むことはなく、シンパという範疇だったかと思います。そんなわたしとの会話だけではなく、小母さん自身が学生運動の意義や役割、日々の事態の推移などをご自分ですごく勉強しておられることが話を聞いていてよくわかりました。小母さんとの話で、通り一遍の話をして逃げるということなどできるわけもなく、真剣に議論したものです。

当時全共闘運動が最も過激であった大学の一つである東大で宇宙工学を専攻していた、AY小母さんの自慢の息子TK君は、次第に東大闘争の中心的役割を果たすようになってきていたようでした。そういう彼をなんとか理解したいというAY小母さんの懸命の努力だったようでした。

大学卒業が近い1969年正月のことでした。学生運動を肯定的に捉えていたという程度のわたしでしたが、東大の安田講堂を学生達が占拠して封鎖したというニュースを聞いて、その実態を見極めようと、1月15日に東大へと向いました。山岳部で仲の良かったBB君が安田講堂に立てこもった学生メンバーの中にいたせいでもありました。BB君に会うことはかないませんでしたので、立てこもった側の主張をじかに聞くことはできませんでしたが、何時機動隊が安田講堂に突入してもおかしくないという緊迫した空気を感じることだけはできました。翌16日に京大でも学生部の建物が学生達によって占拠・封鎖されたというニュースが飛び込んできたので、わたしは急ぎ京都に戻りました。

機動隊による安田講堂の封鎖解除が18日になって始まりました。TK君は安田講堂立てこもりのメンバーの中にはいなかったようですが、占拠メンバーだったBB君はこのときに機動隊によって逮捕・拘束されました。

やがて3月に京都大学を卒業したわたしは、南極行きを目指して、4月から北海道大学の大学院に進学しました。幸い翌年1970年11月に日本を出発する第12次南極地域観測隊への参加が決まりました。その出発準備のために東京生活を始めたわたしは(ブラインドタッチとわたし)、時間を見つけて巣鴨の拘置所にいたBB君と2度ほど面会することもできました。

その後、仮釈放されていたBB君とは南極出発前に京都で再会することができました。「キューバに亡命するつもりだ」と当時彼は言っていましたが、それが彼と会った最後となりました。北大に進学してからはすっかりご無沙汰していたAY小母さんと再びお会いすることもできました。

わたしはまだ南極越冬中でしたが、ちょうど50年前、1972年2月にあさま山荘事件が起きました。その事件に代表されるように、過激なセクショナリズムや党派間の対立や闘争、仲間内のリンチ事件など、学生運動に伴う暗いニュースが、学園闘争をどちらかといえば温かく見守っていた市民の皆さんの感情に水を差したのでしょう。一世を風靡していたかのような全共闘運動も、その頃は一般の人々の支持を失い始めていたようでした。そんな時代にあっても東京で学園闘争をずっと続けていたらしいTK君のことを思い、小母さんとの会話も以前のように弾むことがなかったような気がします。

それから20年ほど経った頃、わたしはAY小母さんの美容院を訪れましたが、マリアンヌは閉店していました。ご近所で教えて貰った北山通りの一軒のアパートに、AY小母さんはTK君や彼のお嫁さんと一緒に暮しておられました。少し前に脳卒中を発症されたとのことで会話が少し不自由でしたが、わたしのことをしっかり覚えていてくださいました。「中尾君!」と抱きしめてくださり、わたしの訪問をとてもとても喜んでくださいました。その時がAY小母さんにお会いした最後でした。しばらくしてTK君から小母さんの訃報を受け取りました。

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どうしてご自分の美容院に「マリアンヌ」という名前をつけたのかということをAY小母さんにお聞きしたことはありませんでした。今となっては悔やまれます。AY小母さんはわたしにとって紛れもなく、自由な人生を生きることを応援してくれた「自由の女神」だったからです。

(2022年2月)

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