<生命倫理学事典(新版増補)>               *〔 〕は引用者による補足を示す

  ■エイズ(Acquired Immune Deficiency Syndrome)
・定義
 レトロウィルスの一種であるヒト免疫不全ウィルス(HIV)の感染をうけ比較的ながい潜伏期間ののちに細胞性免疫機能(CD陽性リンパ球数)が大きく低下した結果、通常なら発生しないような比較的感染力のよわい病原体(たとえばニューモシスチスカリニ)による感染症に罹患(日和見感染)したり、まれなタイプの腫瘍(たとえばガポジ肉腫)や脳症・HIV消耗性症候群などが発症した状態。

・歴史的経緯
 エイズ症例にかんする最初の報告は1981年6月、『疫学週報(MNWR)』(アメリカ疾病防疫センター刊)においてである。
 初期報道で男性同性愛者に特有の疾病とされたことで、同性愛者・感染者への差別と異性愛者への対策の遅れが帰結した。感染経路が不明であった当初は、診療拒否はもちろん、住居からの退去・解雇・退学・葬儀の拒否までもがなされた。
 世界レベルでみると、初期には同性間性的接触・薬物静注用注射針共用を主たる感染経路とする地域があったが、現在では異性間性的接触が主流となっている。日本では、国の対策の遅れからアメリカでの売血を原料とした非加熱血液凝固因子製剤の処方により、血友病患者をはじめ出血性疾患の患者が感染した。


・倫理上の問題
 エイズに固有の倫理的問題はないといわれる。その含意は、エイズにまつわる倫理的問題がないということではない。むしろ逆で、エイズにはありとあらゆる医療倫理問題がふくまれているという点にある。
 まず、感染者にたいする差別や偏見の問題がある。医療現場では、HIV抗体の無断検査、強制検査、陽性時の診察拒否がなおもあとを絶たない。陽性時の告知についてもじゅうぶんな配慮がなされていないケースも多い。これらは、診療体制がじゅうぶんでないにもかかわらず、検査が先行している現状を物語っている。
 第二に、生活の場(職場・学校)での差別や偏見も根強い。このような社会的背景にあって、スクリーニング検査の普及という公衆衛生的見地と個人の自由とのトレードオフ関係も問題である。
 第三に、いかなる条件下であれば医療者は守秘義務を解除し、感染者のパートナーに感染の事実を通知することが許されるのかという問題もある。
 その他、患者には抗体検査をすすめながら医療者の多くが検査をうけていないこと、言葉や経済的な問題をかかえがちな外国籍の感染者の医療アクセスの保障、治療薬やワクチン開発がもっぱら発展途上国をフィールドにおこなわれている現状、これらのことが考えられるべき問題としてある。

・展望
 治療技術の進歩により、先進国においてエイズはもはや「死にいたる病」ではなく、むしろ慢性疾患のひとつである。だが発展途上国においては依然「死にいたる病」であり、母子感染率も低くはない。社会構造や文化とわかちがたくむすびついたエイズをめぐる倫理的問題はまさに重層的な問題である。



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Effects of Environmental Change on Interactions
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