◆飯島 渉,2009,『感染症の中国史』中央公論新社.

■目次

はじめに

第1章 ペストの衝撃

1 ペストのグローバル化――雲南・香港から世界へ
2 感染症の政治化――列強の思惑と国際ペスト会議

第2章 近代中国と帝国日本モデル

1 公衆衛生の日本モデル――植民地台湾と租借地関東州
2 中華民国と「公衆衛生」

第3章 コレラ・マラリア・日本住血吸虫病

1 コレラ――19世紀の感染症
2 台湾のマラリア――開発原病
3 日本住血吸虫病――毛沢東「瘟神を送る」

終章 中国社会と感染症

■内容  *( )数字は引用頁、〔 〕は引用者による補足を示す

■■はじめに

本書の目的:感染症の流行という資格から中国・東アジアの歴史、とりわけ19-20世紀の歴史を読み解くこと

本書の対象:ペスト、コレラ、マラリア、日本住血吸虫病。すなわち原生動物・細菌やウィルスを原因とする感染症。

「感染症は社会のあり方と深く関わり、政治・経済・文化に大きな影響を与えてきました。このことは、感染症の流行を単に医学的な問題としてのみ考えることはできないことを示しています。/それは中国でも同様でした。」(A)
 

「マラリアの流行は、水田耕作に象徴される農業のあり方や人びとのライフスタイルと深い関係にあった。」(C)

「この感染症〔日本住血吸虫病〕の流行もやはり水田開発などの農業と深い関わりがありました。」(C)

「20世紀に入ってからの工業化や都市化の申し子である結核」(C)

「人類は、19世紀後半から、感染症の原因となる細菌やウィルスを発見し、そのヒトへの感染のメカニズムを明らかにし、ワクチン開発などを通じてさまざまな感染症を克服しようと努力してきました。」(D)

「20世紀後半、中国は急激な人口増加を経験します。その要因のひとつは、感染症の抑制でした。こうして、各地でさまざまな感染症の流行が抑制されるようになると、人類は近い将来には感染症を克服することができる、という楽観的な見方が広がりました。/けれども、現実はうまくいきませんでした。21世紀初頭の現在、 貧困や戦争、衛生行政の弛緩、細菌やウィルス、それらをヒトに媒介する動物の薬剤耐性の出現、感染症のグローバル化などで、人類が感染症を克服することはきわめて困難であるといった考え方が一般的になっています。」(E)

■■ペスト

「ペストは、雲南の地方的な病気として古くから知られていました。それが広東省に広がったのは19世紀後半のことです。このペストの伝播については、いくつかの説が指摘されています。ひとつは、清朝に反旗を翻したイスラーム教徒の杜文秀の反乱を鎮圧した軍隊が雲南からもちかえったペストが広東省の北海で1867年に発生したとする説です。……/もうひとつは、中国産アヘンの交易にその要因を求める考え方です。……/このふたつの説のどちらが事実に近いかは判断の難しいところです。ここではキャロル・ベネディクトの説に従っておきましょう(Benedict, C., Bubonic Plague in Nineteeth Century China)。……/その説は、先に挙げたふたつをうまく融合させたもので、漢人の雲南への進出=開発によって環境変化が進み、この結果、ペストの感染爆発が起こったと考えています。そして、19世紀半ば以後の商品開発の活性化、とくに中国産アヘン交易の活性化を背景として、雲南起源のペストが広東省に伝播し、また、反乱鎮圧のための軍隊の移動もきっかけとなって、ペストが広東省全域に拡大したと説明しています。」(6-7)

「ペストのグローバル化は、19世紀後半からの汽船交通ルートの整備によるヒトの移動の活性化(スピードの向上や移動のサイズの拡大)を背景としていました、1899年にはアフリカ東海岸のモーリシャス諸島のポートルイスでもペストが発生しています。……/1901年、ペストは南アフリカへも感染しました。これを契機にケープタウンではアフリカ人の隔離が行われ、これがのちの人種差別のきっかけとなったのです。1894年香港での大流行ののち、ペストは上海や天津、営口などの中国沿海都市に広がり、台湾や日本、そしてハワイや北米にも広がりました。また、東南アジアやインド、アフリカへも広がり、まさにグローバル化しました。」(26)

■■コレラ

「19世紀から20世紀初頭、世界各地でコレラが流行しました。コレラの原因となるのはコレラ菌で、これが消化器に入ると米のとぎ汁のような下痢が続き、脱水症状に陥ります。コレラにはアジア型とエルトール型などの種類があり、この時期流行したのは非常に致死率が高いアジア型でした。コレラ菌は食物や水を通じて経口感染するため、感染は世界各地に瞬く間に広がりました。/中国や東アジアも例外ではなく、中国では1820年に南部の温州や寧波などの沿海部で、最初の流行が発生しています。その後、コレラは南京、山東省、北京へと北上し、1822年には全国的な流行となりました。朝鮮での最初の流行も中国と同じく1820年、日本や琉球での最初の流行は22年でした。」(122)

「コレラは、もともとインドのベンガル地方で流行していた感染症でした。1817年大規模な感染爆発が起こり、世界各地に広がります。インド洋地域では、1818年セイロン(現・スリランカ)、19年モーリシャス、20年アフリカ東岸へと広がりました。その後、中東のペルシャ、メソポタミアからエジプトにも達します。そして、ロシアやヨーロッパへ、また北米やメキシコにまで広がりました。19世紀初期、インド起源のコレラは、グローバル化したのです。」(123)

「〔コレラのグローバル化の〕背景には、ヨーロッパ諸国のアジア・アフリカへの積極的な進出とそれを支える交通網の整備がありました。イギリス植民地統治下のインドで進められた、その要とも言える鉄道網の整備や生態系のバランスを崩すような農業開発もコレラの流行の背景となりました。さらには、ヒンドゥー教の巡礼がインド国内でのコレラの流行を拡大させたことも指摘されています。……イギリス史家の見市雅俊は『コレラの世界史』のなかで、そのグローバル化の背景には、イギリスのインド支配を軸とする世界交通網の整備、言い換えれば、世界資本主義の展開があったと指摘しています。……/しかし、それだけでは、コレラがわずか数年のうちにインドから東南アジア、中国、朝鮮、琉球、日本へ広がり、また、アフリカ東岸や中東へと広がった理由をうまく説明できません。……19世紀初期のコレラのグローバル化は、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国のアジア進出とインド人や中国人の交易圏が交錯した結果として、わずか数年のうちに日本までコレラが広がったと考えたほうがよさそうです。」(123-125)

■■マラリア

「マラリアは、マラリア原虫が雌のアノフェレス蚊の吸血によって動物の体内に取り込まれることによって発生します。マラリアはヒトだけではなく、爬虫類・鳥類・哺乳類にも感染します。……/ヒトのマラリアには、三日熱・四日熱・卵型および熱帯熱の4つの種類(つまり四種類のマラリア原虫)があります。いずれも高熱が発生することが特徴で、発熱の頻度から……分類されます。また、熱帯熱マラリアは、致死率の高い悪性のマラリアです。/1880年、アルジェリアに駐屯していたフランス人軍医であったアルフォンス・ラヴランがマラリア原虫を発見しました。その後、インド勤務軍医団の軍医を務めていた〔イギリス人の〕ロナルド・ロスが、1897年、アノフェレス蚊がマラリア原虫をヒトに媒介させる動物であることを発見しました。そして、イタリア人学者のジョバンニ・B・グラッシがこのメカニズムを確認します。」(144-145)

「中国では、古くからマラリアが流行していました。……/『後漢書』などの正史には、雲南でのマラリアの発生を示す「瘴気」や「瘴疫」などの言葉が出てきます。以後、20世紀にいたるまで、雲南には多くの漢人が入植し、開発を進めますが、その最大の障害はマラリアでした。マラリアは、ヒトが森林を開発したり、農業を通じて自然環境に働きかけるなかで発生する感染症だったからです。こうした特徴を持つ感染症を「開発原病」(developo-genic disease)と呼んでいます。」(146)

「第二次世界大戦後、世界各地で進められたマラリア対策、とくに1957年から開始されたDDTの残留噴霧によるWHOのマラリア根絶計画はめざましい成果をあげ、天然痘と同じようにマラリアの根絶も可能であるかのように見えました。……/しかし。マラリアは人間をあざ笑うかのように、再び勢力を盛り返しはじめました。DDTによる環境汚染問題が指摘され、アノフェレス蚊の殺虫剤耐性、キニーネにかわって多用されるようになったクロロキンへの薬剤耐性の出現などによって、WHOは方針の転換を余儀なくされ、マラリア根絶計画は、1969年にはマラリア制圧計画(Malaria Control Program)へと後退しました。」(162)

「1992年アムステルダムでマラリア・サミットが開催され、WHOの年次総会などでマラリア対策の再構築が求められました。薬剤耐性マラリア原虫の分布の拡大、あるいは環境保全に関連した再植林など、農林業の振興にともなうマラリアの発生など、今後ともマラリアは人類の最大の医学上の問題として存在し続けると考えられています。」(162-163)

「地球温暖化にともなうマラリア流行地域の拡大も懸念されています。2010年までの平均1.0〜3.5度の気温上昇によって、マラリアなどの感染症が中緯度地域にも拡大し、感染可能性のある地域に居住する人口は総人口の60%に増加し、年間5000万人から8000万人の新たな感染者が出ると推定され、環境庁も地球温暖化によって、21世紀には西日本はマラリア流行域になるとの観測を発表しています。/1998年にローマで開催されたマラリア学100年会議では、地球の気温が三度上昇すると、マラリアは12〜27%増加するとの予測が出されました。グロ・ハーレム・ブルントラントWHO事務局長(当時)は、これを「ロールバック・マラリア』(マラリアの再興)と呼び、警戒を呼びかけました。」(163)

■■日本住血吸虫病

「中華人民共和国が成立してまもない1950年代はじめ、中国の多くの地域で、日本住血吸虫病という寄生虫病が蔓延していました。日本住血吸虫病は、皮膚炎を起こし、腹部や血筋が腫れ上がり、ついには絶命することがある病気です。/日本住血吸虫病は、日本・中国・フィリピンに発生する住血吸虫病の一種です。住血吸虫病には、他に西アジア・アフリカなどに発生するビルハルツ住血吸虫病、アフリカ・南アメリカ・カリブ海地域などに発生するマンソン住血吸虫病、東南アジアのメコン住血吸虫病があります。/この病気の原因となる日本住血吸虫病の卵は水中で孵化し、オンコメラニアという巻貝を中間宿主として成長します。その後、経皮感染によってヒトや牛などに感染し、日本住血吸虫病が発生するのです。」(164)

「日本では、九州の筑後川流域、広島県深安群(現・福山市)の片山地方、山梨県の甲府盆地などで日本住血吸虫病が流行していました。……/日本では現在、日本住血吸虫病は根絶されましたが、それはごく最近のことです。筑後川の安全宣言が出されたのは1990年、山梨県の流行終息宣言も1996年になってからのことでした。」(164-165)

「中国の流行地域はきわめて広大で、長江流域だけでも日本の面積の約6倍という広さです。1950年代はじめ、患者数は3000万人を超えると推定されていました。日本住血吸虫病は、中国史上最大の感染症だったのです。」(165)

「日本住血吸虫病の流行は、稲作のための土地利用のあり方=人為的な環境変化と深い関係がありました。つまり、水田開発によって、日本住血吸虫病の流行が広がったと考えられるのです。日本住血吸虫病もマラリアと同様に「開発原病」としての正確を持っていたと言えます。」(169)

■■中国社会と感染症

「感染症は、病原性微生物の生活サイクルとヒトの生活サイクルが、直接あるいは中間宿主を媒介として交錯したときに発生します。/感染症の流行は、第一に人類の能動的な活動(その典型は農業のための森林開発)によって、病原性微生物の生活サイクルへの介入が高まった場合、第二に商品流通の活性化や都市化による人口の集中によって、病原性微生物の活動が活発なり、あるきっかけで感染爆発が発生した場合と、すぐれて社会経済的な問題です。」(191)

「中国社会が蓄積してきた正史や地方志などの歴史書は、長期にわたってつねに「疫」を記録してきました。その意味で、中国史は感染症の発生の連続でした。/感染症の発生のメカニズムは決して単純ではありません。原因となる病原性微生物とヒトの生活サイクルの交錯がその発生の可能性を高めました。また、戦争、水害、そして飢饉は、しばしば感染症の流行の要因でした。」(193)

「多くの研究は、人口減少の要因として、戦争さらに飢饉をあげます。けれども、戦争では直接的な戦闘で死亡するよりも戦病死のほうが一般的に多かったこと、また栄養条件の悪化がさまざまな感染症を流行させた可能性を考慮する必要があるでしょう。/感染症の歴史には、より複眼的な視覚も求められます。そのひとつは気候変動で、温暖化と寒冷化のサイクルが植生や感染症の発生条件を左右することがありました。/また、重要なことは、感染症に罹るのは決してヒトだけではないということです。動物や植物の罹る病気も無視できない問題です。農作物に病気が広がれば栄養条件を悪化させ、食用さらには耕作用の動物が大量に死亡してしまうことがあったからです。」(193-194)

「感染症は、人間が環境にどのように働きかけてきたのか、またその環境からどのようなリバウンドを受けたのかを明らかにするための重要な指標です。中国でも疾病構造は、感染症から生活習慣病へという道筋をたどり、その変化は20世紀に急激に進みました。」(195)

「20世紀前半、日本の植民地となり、植民地医学が蓄積され、帝国医療が実践された台湾などでは、それまで流行していたペスト、コレラ、天然痘などの感染症が抑制されました。こうした状況は、本書ではあまり触れませんでしたが、朝鮮でもほぼ同様でした。/このため感染症対策は、しばしば植民地統治の「善政」として議論されることがあります。しかし、感染症全般が抑制されたわけでは決してありません。赤痢、ジフテリアおよび結核などの感染症は、むしろ増加傾向にありました。それは植民地統治のもとで進められた開発政策による産業化や都市化の結果でもありました。」(199-200)

 


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Effects of Environmental Change on Interactions
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