出張者:小磯学
出張先:カーンメール遺跡など
 
全行程(宿泊地)=デリー ⇒ ウダイプル ⇒ アーメダーバード ⇒ ブジ ⇒ ドーラーヴィラー ⇒ カーンメール ⇒ アーメダーバード ⇒ デリー
 
12月22日(木):成田発11am。バンコック経由、デリー着9pm過ぎ。
12月23日(金):2000-01年に東京・名古屋で開催されたインダス文明展以来なにかとお世話になっているインド考古局のK.C.Nauriyalさんにお会いする。最新の発掘調査や遺跡への道筋などの情報などを得る。デリー周辺のインダス文明関連遺跡の調査が地道に進められていることを再認識。国立博物館見学。夜はNauriyalさんのご親戚のお宅に夕食に招かれる。
12月24日(土):ラーキーガリーRakhigarhi遺跡へ。デリー北西約200km。1960年代にすでに発見されていたものの、1997年以降の発掘でようやくその全貌が明らかとなった。6つのマウンドが100haに広がり、最大の規模のマウンド4とマウンド5の上は現在の村が覆う。また発掘され日干し煉瓦の周壁が確認されたマウンド2のトレンチは埋め戻され、さらにその全域が村人が使用する牛糞の乾燥場所となっていた。このように生活の場所として使われていることから、さらなる調査には困難が予想される。ただしマウンドの規模や景観、その全体の「雰囲気」にはハラッパーに近いものを強く感じた。その版図北東部の「辺境」にまでとてつもない都市を築いたインダス文明の底知れぬエネルギーを改めて思い知らされる。
 散策中に、発掘にも参加されたW.C.Saroaeさんという方と出会う。お宅に昼食にお招き頂くとともに、各マウンドを案内して頂き遺跡の理解を深めることができて感謝。ラーキーガリーの滞在を優先させ、予定していたさらに西方のバナーワリーBanawaliへの訪問はキャンセルする。
12月25日(日):デリー周辺は12月半ばから1ヵ月ほど寒さとともに濃霧の季節。車(排ガス)の増加などもあって年々ひどくなっているとのこと。午前中はおろか夕方近くなっても晴れないこともあり、飛行機のみならず、すべての交通機関が混乱のきわみ。予定していたウダイプルへの朝のフライトは延期どころかキャンセルに。。。。明日の便に振替え可能と言われたが、毎日確実に濃霧なのであって当然飛ぶ保証などない。長距離バスのターミナルに出向いてみるが、こちらも混乱中。明日の昼までバスそのものがない、またバスが来るまで予約切符の購入が不可とのこと。しかも以前にあったウダイプル直行便がなくなり、ジャイプルで乗り換えせねばならない。高額覚悟で、長距離タクシーで行くことにする。結局デリー出発4pm、680kmを13時間ぶっ通しのドライブと相成った。予想以上にハイウェイが整備されていたこともあってタタ製V2-Xeta(1400cc)の乗り心地は悪くはなかったものの、暖房の効かぬ車内は最後まで寒さとの戦いでもあった。
12月26日(月):5amウダイプル着。午前中J.S.カラクワル先生と再会。発掘に必要な備品の購入等で忙しそう。早速銀行に赴き、今回の私の出張の第一の目的でもある調査資金(T/C)を換金。午後には郊外の金石併用文化のバーラータルBalathal遺跡へ。近年インド北西部の金石併用諸文化は前3千年紀初頭まで遡ることが指摘されるとともに、インダス文明との交流が明らかにされている。遺跡の規模は想像以上に小さかったが、発掘後のままの状態で保存されている家屋の壁の一部などを実見することができた。
12月27日(火):発掘に参加するデカン大学の学生K.P.シン君とも合流し、ウダイプルからアーメダーバードへ車で移動(370km)。カラクワル先生は雑務のためウダイプルに残る。先生および発掘機材のカーンメールKanmer遺跡への到着は1月1日と決まる。
 アーメダーバードでは今回のプロジェクトでもさまざまなご指示を頂いているインド考古学の重鎮のひとりD.P.アグラワル先生のお宅にお世話になる。アーメダーバードの物理学研究所を退職されたあとは故郷のウッタランチャル州のアルモラに事務所を開設し、多数の著作の準備などに従事されているとのこと。奥様のおいしい手料理を頂く。ここで同じくデカン大学の学生で発掘に参加するP.ゴーヤル君と合流。
12月28日(水):アーメダーバードからグジャラート州カッチ県ブジへ移動(400km)。途中カッチ小湿原の南西端北岸に位置するシカルプルSikarpur遺跡を訪問。小さなマウンドであるが、カッチ湾へと抜ける要衝の地でもあり、インダス文明の南東方面の交易網を司る拠点のひとつであったろう。9時半ブジ着。
12月29日(木):ブジ警察署で国境地帯入域許可証(for 外国人)の取得。以前と違って30分ほどでいとも簡単に取れ、拍子抜け。このように許可証発行がスムーズになった背景には、2001年のカッチ地方大地震のあと日本を含む多くの国々から援助活動のためNGO団体などが同地を訪れているのではなかろうか。ちなみに市内では地震で倒壊したままという建物が今も多く残り、また郊外では被災者向けに新設された家屋群が随所で目についた。
 その後日帰りで、北方85km、カッチ大湿原に面したパシャム島に位置するジュニー・クランJuni Kuran遺跡を訪問。この遺跡もすでに1960年代に発見されていたが、2003-04年の発掘によってようやくその実態が明らかとなった。220m×225mの方形の周壁の北西角に東西72×南北92m、高さ7mにそびえる石組みの城塞をもつ。カッチ地方を含む全グジャラート地方最大の都市遺跡ドーラーヴィラーDholaviraのミニチュア版ともいえる造りで、どっしりとした迫力。小規模な遺跡で周壁をもつものとしては同じくカッチ地方東部のスールコータダーSurkotadaがすでに有名であるが、こうした構造上の特徴が少なくとも当地ではむしろ一般的であったのであろう。新鮮な発見でもあった。ただ保護の目的で周壁全体を30cmほどの厚さの(オリジナルを模した)石組みで覆ってしまっているため、雰囲気は伝わるものの本来の姿を実際に見ることができなかったことが誠に残念。
 夜はシン君、ゴーヤル君らと町に繰り出し菜食料理に徹したグジャラート・ターリーの夕食を堪能。控えめな辛さは誠に美味。
12月30日(金):ホテルをチェックアウトし、まずはブジ市内の階段井戸Ram Kundやサティー・ストーンを見学。その後北西80kmに位置するデサルパルDesalpar(Gunthli)遺跡へ。これまでわずかな報告しかなされていないが、周壁をもつという。ようやく辿りついてみれば、河岸に沿って500m四方はあろうかという範囲に一抱えもある石が積みあげられた当方もない規模であった。間違いなく報告にある今日のデサルパル村近郊には到着したのであるが、報告に記述のある周壁の規模は130×100m。。。落ちている土器もどうも歴史時代のものばかりが目につく。ただ歴史時代にしてもこれだけの規模の遺跡の報告は知らない。遺跡違いだとしてもどうもおかしい。再確認を要する。
 道をブジに戻り、さらにそのまま東方へ向かいドーラーヴィラーをめざす。最短距離を直線で結ぶ道がないため、大回りしてブジから約200km。途中、長さ9kmの土手の上に敷設された道でカッチ大湿原を横断、カディール島へ。乾季の今は地平線の彼方まで真っ白な雪のような塩の平原。上空の空気はうだり、塩の結晶が浮き立つ平原は人知を超えた迫力さえ感じる。2000年に訪れた際には土手の道はきれいに舗装されスピードを出して通過できたのであるが、雨季に破損したまま補修されていないのか、一面に大きな穴が開いたりキワが崩れたりしている。インド政府がドーラーヴィラーを世界遺産として申請中で観光名所としても売り出しつつあるというのに。
 9時半ドーラーヴィラー到着。事前に紹介されていたインド考古局事務所付設の宿泊施設を訪ねるも、まだベッドがないなど施設としての準備がまだとのことであった。幸い村のはずれに数ヶ月前にできたばかりというりっぱなリゾート風のホテルが建っており、ここに無事宿泊できる。今日の日本から訪れた者にとって正直「僻地」という印象が強かったドーラーヴィラーであるが、こうしたホテルを目の当たりにして時代の流れの速さに今更ながら愕然とする。聞くところによれば、宿泊はしないまでもラージャスターン地方の観光ついでに日本人の団体がバスでしょっちゅう押しかけているという。まさにドーラーヴィラーもまたメジャーな名所になったということか。少々悲しくもある。
12月31日(土):インドに到着してからの日程の調整の結果、ちょうどドーラーヴィラーで大晦日と新年を迎えることに相成る。訪問は、城塞内郭北門でインダス文字を象嵌した「看板」が発見された直後の1992年とインダス文明展の準備で訪れた2000年と今回が3度目。発掘状況の違いや遺跡の受けとめられ方の違いなど、対比もおもしろい。
 本日は丸1日遺跡の探索。人々が生活をしていた当時の面影を伝える保存状態の良さは、インダス文明の中でも随一を誇る。ジュニー・クランと異なりオリジナルのままの周壁や階段などを目の当たりにすることができることもあり、とてつもない迫力でそこに存在している。ドーラーヴィラーがここに置かれた意味、インダス文明がどのように運営されていたのか、改めて考えさせられる。
 2003年でひとまず発掘は終了とのことで、城塞内郭の北側に密集する家屋群やこの遺跡最大の特徴といえる城塞東・南側の大貯水槽などがほぼきれいに掘りあがっていた。南の貯水槽ではちょうど補修作業を進めているところではあったが、東の貯水槽では一部壁面が大きく崩れるなど十分なメンテナンスが行き届いていない印象が否めない。まさに世界遺産クラスの遺跡であるだけに、それに見合う修復も望まれる。
 遺跡事務所に赴任しているインド考古局のサハーさんのご好意で、遺跡西方の墓地も案内して頂く。インダス文明ではめずらしい石棺墓で、少なくとも100m四方以上の面積に広がっているとのこと。ただし大多数は遺体が納められた痕跡のない、いわゆるsymbolic burial。一方で女性が納められていたものもあり、葬制の違いの解釈が大きな検討課題であることはいうまでもない。
2006年1月1日(日):7am頃、初日の出を拝む。1時間ほど再び遺跡の探索後、出発。街道を90kmほど戻りラーパルへ。そこから西に街道をはずれて約17km地点にあるパーブーマトPabumath遺跡を訪問。小規模ながらカッチ地方で発掘された数少ないインダス文明遺跡のひとつとして知られる。周壁はもたないようであるが、ここでも石を使用した家屋の壁が一部露出していた。
 次にラーパル東方約45kmのスールコータダーSurkotadaへ。1971-72年に発掘され、一辺で接した約70m四方のふたつの方形の区画それぞれを城塞と市街地としたユニークなプランで一躍脚光を浴びた遺跡である。ジュニー・クラン、パーブーマトなどともに、いわばドーラーヴィラーを取り囲むように配置された遺跡のひとつといえ、また同時にさらに南東のロータルやサウラーシュトラ半島方面とを結ぶ交易拠点であったろう。とても都市とは呼べない規模ながら、文明のライフラインの一端を担う末端神経のような存在。ここが機能しなくなることは、文明の血管が詰まり脳梗塞を引起すことを意味したかもしれない。
 約30kmほど南西へ街道を走り、6pm過ぎにようやくカーンメール遺跡到着。ちょうどカラクワル先生もグジャラート州政府考古局局長Y.S.ラワトさんやラージャスターン大学の学生7名と、機材を積んだトラックとともに到着したばかりというタイミング。テントを建ててキャンプを設営開始。夕食は10時半まで待たねばならなかったが、全員集合で一同意気高揚!
1月2日(月):こじんまりと程よい高さのマウンドが日の光に浮かび上がる。午前中、村に近すぎるという理由でやや離れた空き地にキャンプの引越し。
 現在のカーンメール村は遺跡の南側に位置し人口約5000人。村に接するように100mほどの高さの孤立した丘がそびえる非常に特徴的な地理的環境。頂上には女神(Mata-ji)を祀る寺院と10世紀頃の山城の壁の跡が残る。昼食後はここに登る。360°すばらしい眺望。遺跡、村、地平線までつづく草原、遥か南方にはカッチ小湿原が白く霞む。カーンメール遺跡の当時の住民もここに登り、交通路の監視(?)をしていたに違いない。北からそよそよと心地よい風が吹き、下界に降りたくなくなる。
 カラクワル先生他学生らほぼ全員は所要で午前中ラーパルへ出かけ、夜帰着。夕食後は学生らにも手伝ってもらい、カラクワル先生と夜中の1時半まで領収書の整理と計算。
1月3日(火):マウンド上に最初のトレンチを設定。11am、何故か私が発掘開始を告げるガネーシャ・プージャーの儀礼を象徴するココナッツ割りを担当することに。その後みんなで順番にツルハシを手にして「鍬入れ」の儀。ここにカーンメール遺跡の発掘が正式に開始する。
 But、残念ながら私は昼食後にキャンプを出発。実はラワトさんが1月4・5日にバローダで開催されるというインダス文明の国際セミナーに初日のみ参加するというので急遽ご一緒させて頂くことに。当初の予定ではアーメダーバード南方のカンバットへ向かいインダス文明当時と同じ技法で紅玉髄などのビーズ加工を行なうことで有名な職人街を訪れるつもりでいた。しかしこれをやめてセミナーを優先する。
 夜アーメダーバード着。今も残るバドラと呼ばれる城壁の中にあるインド考古局の宿泊施設にお世話になる。
1月4日(水):早朝ラワトさんの車が迎えに来て下さり、合流してバローダへ。2003年に完成したというアーメダーバード-バローダのハイウェイは日本と寸分違わぬ出来栄えで、1時間半足らずでバローダ着。会場の高級ホテルへ。
Magan and Indus Civilisation—International Seminarと銘打たれたこの2日間のセミナーは、10年ほど前からマスカット在住の考古学者T.Vosmerさんを中心に計画が進められていたインダス文明の舟復元プロジェクトを中心に企画されたものである。復元された長さ12m、重さ6.5tの葦舟で当時の交易圏マガン(現在のオマーンとされる)からインドまでの航海を2005年9月に実施するが、数日で沈没して失敗に終わった。しかし舟の建造と航海術ともに忠実に当時の技術を復元した試みはインダス文明研究史上、画期的といえる。
 セミナーには20数名がインダス文明の海洋交易をテーマに発表を行い100名ほどが参加。インドからは元インド考古局局長のB.B.Lalさんを初め、K.N.DikshitやS.P.Gupta、R.S.Bishtさん、M.S.バローダ大学のK.K.BhanやV.H.Sonawane先生、イタリアからはM.Tosi先生、フランスからはS.Cleuziou先生、アメリカからはG.Possehl先生と層層たる面々が参加された。最新の情報などにも接するだけでなく、こうした人々に短時間ながら再会したり挨拶することができたのは幸運であった。ただ4日の発表は最後まで聞くことができたものの、明朝のアーメダーバードからのフライトでデリーに行くため会場をあとにせねばならなかったのが残念でならない。
1月5日(木):アーメダーバード発8:15amのデリー行きのフライトは、やはりデリーが濃霧のため4時間遅れで出発。キャンセルにならなかったことを思えば、4時間程度は何でもない。そしてアーメダーバード-デリー間の3分の2ほどにあたるウダイプルまででさえ車で13時間かかった距離を、1時間足らずでひとっ飛び。飛行機がいかに早いかということを身をもって実感させられた。
 夕方は宿泊先のホテルからもほど近い、ディッリー・ハートと呼ばれる各州の手工芸品店やレストランが集まるエンポリウムへ。屋外ライブ演奏会などもあって楽しいが、ひどく寒く震えが止まらない。あとで知ったが、デリーの観測記録史上ほぼ最低となる気温5℃であったらしい。
1月6日(金):ニザームッディーン廟などを見学して過ごす。デリー発11pm過ぎ。
1月7日(土):バンコック経由、成田着4pm。
■ 出 張 報 告(2005年度)
出張日:2005年12月22日-2006年1月7日