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フューチャー・デザイン・ワークショップ36
「未来世代への配慮と保守的性向」
日時 | 2023年9月4日(月)10:00 - 11:30 |
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開催形式 | オンライン ※ID・パスコードは担当者にお問い合わせください。 |
開催 | 中川戦略プロジェクト |
報告者 | 森村進先生(一橋大学法学研究科・名誉教授) |
概要 | サミュエル・シェフラーは『死と後世』において「われわれ自身の死後も人類が生存することは、通常認められているよりもわれわれにとってはるかに重要である」(シェフラー[2023]3ページ。強調は引用者)という主張を説得的に行った。 さらにシェフラーはその後『なぜ未来世代を気にかけるのか?』(Scheffler [2018])において、われわれが未来世代を気にかける理由を、①関心(利益)interest、②愛情love、③価値づけ(評価)valuation、④互恵性reciprocityの四つに分類したが、彼によればそのいずれも、われわれが未来の人々に対して持っている現実の愛着attachmentに基礎を置くものであって、福利といった内在的価値の不偏的尊重に基づくものではない。 未来の世代の諸問題を考える際には、[時間的・空間的に中立的な]善行beneficenceにもっぱらあるいは主として基礎を置いて、あるいは実際、何らかの種類の道徳にもっぱら基礎を置いて、考えるという以外の選択肢[つまり愛着に基づくもの]がある。もし視野を拡げるならば、われわれは未来の世代の命運を配慮すべき理由を、自分たちが実感していた以上に持っていることに気づくかもしれない。(Scheffler [2018]135) シェフラーはこのように未来世代への配慮について、パーフィット流の不偏的な人口価値論population axiologyのアプローチではない、個人的personal価値づけに基づくアプローチを提唱する。シェフラーはその際に、価値一般を最大化しようとするのではなく現存の価値ある事物を保全しようとする、G. A. コーエンの言う「小文字の保守主義」(それは大文字の政治的保守主義、具体的には社会主義者コーエンの嫌う市場経済、と区別され、対比される)(Cohen [2011])に好意的に言及し、結論としてこう書いている。 人類の未来と未来の世代の繫栄へのわれわれの配慮の多くは、現在存在する、および過去の、価値の担い手にのみ直接あてはまる保守的性向に依存している。(Scheffler [2018]122.強調は原文) しかし保守的性向に頼ることには次のような複数の問題がある。 (1)シーナ・シフリンは『死と後世』へのコメンタリー「評価されるものを保全するのか、評価することを保全するのか」において、〈われわれが後世の存続を望む際に重視しているのは、特定の人々の福利や特定の文化の存続ではなく、もっと一般的な人類全体の文明の存続である〉と主張している。そのためシフリンは、価値ある個別的事物の保全を望むコーエンが自分と「全く異なる価値観」(シェフラー[2023]246ページ注6(シフリン執筆分))を持っていると考える。この点でシェフラーはコーエンに近いようだ。(ただし評価の対象をトークンよりもタイプに求めているという点ではコーエンと異なる。森村[2021]212ページ。)コーエン=シェフラー流の保守主義は、場合によっては文化の変容を阻害する恐れがないか? (2)コーエンは「正気の人ならば誰もがこの[保守的]性向をいくらか持っている」(Cohen [2011] 204.強調は原文)と言うが、それをごくわずかしか持っていない人もいるだろう。人によって文化的な好尚はさまざまで、そのうちどれが合理的でどれが不合理だと決めることはできない。(後記の「補足」を参照)。コーエンは自分の保守主義を正当化するのではなく、明確化し、それを誰もが持っていると主張しているにすぎない(彼自身そのことを事実上認めている。同上226。同じことがオークショットの「保守的性向」やラズの「アイデンティティを形成する愛着」についても言えないか? それらは普遍的人間性か?)。また「正気の人」の中にも、現存の価値あるものの保全よりも、いまだに存在しない価値あるものの創造を選好する人がいるだろう(たとえば、新しいものや流行を好む人々や、芸術における前衛)。保守的性向を持たないそのような人も、シフリンのように、創造や評価といった活動自体が続くことは望むだろうから、未来の人々に配慮するだろう。 (3)確かにわれわれの視野から見れば、未来の世代に対する時間的に中立的な善行の義務以外の理由があることは確かだ。そのような理由はわれわれの愛着と評価に基づいているから、時間的に中立的でなく、具体的には遠い将来よりも近い将来を優先することになるだろう。これはシェフラーの言う「時間的パロキアリズム」の一種だ。それは人が見知らぬ人々よりも自分に近い人々の利害を、国が他国の文化よりも自国の文化を優先させるようなものだ。この帰結は私的行動ではなく公的政策に適用されるとどの程度適切か? またこのように愛着を重視することは、(A)不偏的な善行の考慮に加えて、われわれが未来世代に配慮すべき理由を強化することになるだろうか? それとも(B)不偏的な善行の考慮を相対的に弱めてしまうことになるだろうか?(私は従来(A)だと書いてきたが) 補足 文化的評価対象の時空的位置による気質・性向の分類 失われた過去 尚古主義antiquarianism 親しみある過去から続く現在のここ 保守主義 ここではない他所 異国趣味exoticism 過去から離れた現在と未来 前衛 時間・空間に中立的 普遍主義(現実にはあまりいない) 参考文献 マイケル・オークショット「保守的であるということ」オークショット『[増補版]政治における合理主義』(勁草書房、2013年)所収[原論文1956年] サミュエル・シェフラー『死と後世』(ちくま学芸文庫、2023年)[原書2013年] 森村進『自由と正義と幸福と』(信山社、2021年)第8章「未来世代に配慮すべきもう一つの理由」 ジョゼフ・ラズ『価値があるとはどのようなことか』(ちくま学芸文庫、2022年)[原書2001年]第1章「愛着と唯一性」 G. A. Cohen, “Rescuing Conservatism: A Defense of Existing Value”, in R. Jay Wallace, Rahul Kumar, and Samuel Freeman (eds.), Reasons and Recognition: Essays on the Philosophy of T. M. Scanlon, Oxford University, 2011. Samuel Scheffler, Why Worry About Future Generations? Oxford University Press, 2018. |
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