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初音(はつね)

中尾正義

富山駅から歩いて1〜2分の所に「初音」というなまえの飲み屋さんがありました。47年間続いたそのお店は、入居していたビルが解体されることになったため2015年4月30日に閉店したとのことです。わたしと初音とのつきあいは、お店が開店した1968年に遡ります。

当時わたしは京都の大学山岳部に所属していました。毎年夏休み期間に、北アルプス北部に位置する富山の誇る剱岳で部員全員が参加する夏山合宿を行うのが恒例でした。合宿に限らず、数人毎にパーティーを組んで自主的に行う少人数の山登りの時でも、京都との列車連絡がとても便利な富山は登山活動には極めて地の利の良い町のひとつでした。

剣岳や立山周辺での山行が終わった後に、気楽に行ける飲み屋さんが富山駅の近くにあればいいな、と思っていました。わたしたちがルームと呼でいた、大学の西部構内にあった部室でそんな話が出たときに、わたしと山岳部で同期のGCが言いました。 「1期上のKGさんと一緒に先日二人で行った富山駅前の店はすごく感じが良かったよ。たまたまその店がオープンした日だったので、そのせいかもしれないけど。」とのこと。

しばらくして、山登りを終えて富山に下山する機会のあったわたしは、GCに教えて貰った富山駅からすぐのそのお店に早速行ってみました。それが初音でした。

客が5〜6人も入れば一杯になるカウンター席だけの小さなお店でした。40歳前後のご主人が奥さんと二人で開いた店とのことでした。ご主人は京都で板前修業をしたこともあるそうで、京都の学生であるわれわれを大歓迎してくれました。そして弟分のようにかわいがってくれたのです。われわれの相手をしながらもっぱら料理を作って出すのは小父さんで、小母さんはほとんど口をきかずに奥の方で皿洗いなどの跡片付けに専念しておられました。

それからは山から富山に下山するときは毎回初音に行きました。すると小父さんはいつもわれわれが京都までの汽車の切符を既に買ったかどうかを確かめるのでした。「汽車の切符を買ったのなら、持っている残り金を出しなさい。」と言って、われわれが出した、合計しても数千円程度にしかならないお金を集めました。そして、「もう支払いはして貰ったからあとは好きなだけ飲み食いしていいよ!」とのこと。

そして、われわれが初めて食べるような富山の海の幸やおでんなどの料理をどんどん出してくれたのです。ズワイガニの雌であるセイコ蟹というものを初めて食べたのも初音でした。小さなその蟹の食べ方を小父さんは詳しく教えてくれました。ツブ貝やホタルイカなどのほか、海ぶどうという聞いたこともない海草の一種を出して貰ったこともありました。日本酒やビールなどの飲み物は、われわれがもういいです、というまで、いくらでも出てきました。われわれが支払った額ではとうてい足りないご馳走をしてくれたのです。

支払額が少ないことをたまに気にすると、「学生のくせにそんなに金持ってないやろ。出世払いや!」というのが小父さんの口癖でした。

それからわたしが大学を卒業するまでの2年間ほどの間に3〜4回ほどお邪魔したと思います。大学卒業後、わたしは大学院に進学して京都から札幌に移り住んだこともあって、その後は初音に行く機会はほとんどなくなりました。

それから20年ほども経った1987年に、大学の教官になっていたわたしは、当時の科学技術庁傘下にあった防災科学技術研究所、長岡雪氷防災実験研究所に北海道大学から出向しました。雪氷災害の研究に従事することになったのです。

その頃の防災研究の官民特定研究という枠組みを利用して、われわれの研究所は、当時雪国の代表的な道路災害として問題になっていた、冬期路面凍結の予測研究を富山県との共同研究として実施することになりました。その頃富山県は独自に水雪対策室という組織を設置しており、時の知事さんが雪氷災害対策にとても熱心な方であったためでもありました。

共同研究の調査対象は富山県内の国道です。研究打ち合わせや現地調査のために毎年4〜5回ほども長岡から富山を訪れるようになりました。こうして学生時代から20年あまりの年を経て、再び初音を何度も訪れる機会ができたのです。

わたしが大学を卒業して初音に行かなくなって程なく、初音の小父さんは急逝されたとのことでした。しかしその後も、小父さんの遺志を継いで小母さんがひとりで店を開けておられました。小さい店とはいえ小父さんと二人でしていた仕事すべてを小母さん一人でこなすのは大変です。小父さんが亡くなってからは、冷蔵庫からビールを出すことや後片付けなどの仕事は、常連客が中心になって対応するというのが恒例になっていたようでした。小母さんはお母さんと呼ばれていて、常連のお客さん達にとてもひいきにされていたようでした。

店の外には、わたしが初音から遠ざかっていた間に山岳部の後輩達が寄贈したという「初音さんへ」という提灯が飾ってありました。店内には山岳部の現役やOB、関係者同士の連絡帳ともいえるノートがいつも置いてありました。そのページを繰ると、何月何日に誰と誰とがどこへ登った帰りにここに立ち寄った、などということがわかります。山行の記録や山で考えた雑感など、京都の部室に常に置いてあった連絡帳であるルーム日誌を彷彿とさせるノートになっていました。

ルーム日誌は単なる連絡帳というだけではなく、「なぜ山に登るのか」とか「フロンティアワークとは何か?」「部員には多様性が必要だ」など、仲間による登山や探検に関する多数の論考文なども書かれていました。古いルーム日誌をひもとくと、大先輩の本多勝一さんによる数ページにわたる大論文を目にすることもできました。(ルーム日誌への自らの記述を基にして、その後本多さんご自身が『山を考える』という本を出版されています。)

初音に立ち寄る度に、最近初音に来た友人達による連絡ノートへの記載に目を通しました。そしてわたしもメモを残すようになりました。山岳部の第2のルームという雰囲気でもあったのです。

その頃でもわたしは出世をしていたわけではありません。しかし毎月給料が貰える職に就いていたという点では、学生時代とは全く違う懐具合でした。「出世払いや!」と言っていた小父さんの口癖を懐かしく思い出していました。お勘定の時には小母さんに言われた額よりも多く払うように心がけました。「学生時代には、小父さんに出世払いやと言われてすっかりご馳走になりました」と言って、ビールを一本飲んだだけのときでも5千円くらいはお渡しするようにしていました。

1993年にわたしは長岡雪氷防災実験研究所からなごや大学に移りました。しかし、剱沢の源頭部にあるハマグリ雪雪渓の変動を修士論文のテーマとして選ぶ大学院の学生さんが研究室に入学して来たということもあって、初音の訪問はその後も比較的長く続けることができたのでした。

初音から再び遠ざかったのは、文部省の直轄研究所である総合地球環境学研究所(地球研)が京都に2001年に創設され、わたしが創設メンバーの一人としてなごや大学から地球研に移動してからです。地球研での研究は、日本国内ではなく、もっぱら中国国内を対象とする水環境問題の歴史的変遷の解明だったからでした(「氷河と沙漠と人間と」参照)。

そのプロジェクトが終了してからも、人間文化の研究を推進する大学共同利用機関法人、人間文化研究機構の在京の法人本部に勤務することになったために、富山を訪れる機会は全くなくなりました。わたしが40年以上もの研究生活に別れを告げてその職場を退職したのは2014年です。その1年後2015年の春に、初音は閉店したのでした。小父さん、小母さん、長い間お世話になりました。本当にありがとうございました。

(2021年4月)

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