研究軸2 人間活動影響評価

北東アジアの人間活動が北太平洋の生物生産に与える
影響評価

魚付林。岸辺の森から流れ出す栄養分が沿岸に藻場を作り魚を育むことを指す言葉です。近年、アムール川流域が、オホーツク海や北部北太平洋親潮域の巨大な魚付林になっている可能性が浮かび上がってきました。本研究では、これを巨大魚付林と名づけました。アムール川からもたらされる溶存鉄が基礎になって、海の生き物をどう育んでいるか、また流域における人為的な土地改変が陸面からの溶存鉄流出にどう影響するかを総合的に解析し、変化の背景を探ることによって、陸と海の間での人や生物の健全な関係の構築を目指します。

背景と目的

 オホーツク海や親潮域が位置する北部北太平洋は、冬季の鉛直対流によって深海から大量の窒素やリンなどの栄養塩が表層にもたらされる豊かな海ですが、最近の研究では、東部を中心に鉄が生物生産を制限していることが分かってきました。植物に必須の元素である鉄は水に溶けにくく海洋表面では不足しがちであるため、植物プランクトンは大気や河川を通して陸から運ばれてくる鉄に依存しています。陸から遠い北部北太平洋の中央部や東部では夏季には鉄が不足して大量の栄養塩が利用されずに表面に残りますが、オホーツク海や親潮では栄養塩が完全に無くなるまで植物プランクトンの生産が続きます。これは大気とアムール川から供給される大量の鉄のお陰であると考えられます。鉄は森や湿地から生み出される腐植物質と結合することで水に溶けやすくなり、遠方まで輸送されることが可能です。つまり鉄を生み出すアムール川流域の陸面状況の変化、すなわち森林伐採、森林火災、農地や都市域の拡大とそれに伴う湿地の縮小などは、それ故、水産資源の宝庫であるオホーツク海や親潮域の生産力の命運を握っている可能性があります。

 
図1 研究対象地域の概要
アムール川流域の人間活動とその河川水のオホーツク海、および北太平洋への流出の様子
 

 本研究の目的は、オホーツク海と親潮域における生物生産に対する大気輸送の鉄とアムール川輸送の鉄の役割を解明し、海洋生態系に与えるアムール川流域における人間活動の影響を評価することです。一方、仮に陸面の人為的な改変が海洋の生態系に影響を与えることがわかったとしても、それを理由に陸面の人間活動を抑制することは現実的な解決策とはなりません。アムール川流域からオホーツク海、親潮域に至るシステムは、モンゴル、中国、ロシア、日本といった複数の国にまたがっており、それぞれの国の論理であらゆる社会、経済的な活動が行われているからです。一方の利益を守るために、他方の利益を制限することは、このような巨大なシステムでは受け入れられません。

 日本に古来からある陸と海の生態学的つながりを意味する言葉である「魚付林」という言葉を参考にして、我々はアムール川流域から親潮域に至る生態学的システムを「巨大魚付林(きょだいうおつきりん)」と名づけました。システムの上流域と下流域に生活する利害関係者が受け入れられるシステムの保全はどのようなものなのか?巨大魚付林というシステムを総合的に解明する中で、その答えを探っていきたいと考えています。

主要な成果と課題
 本プロジェクトで一番重要な問題は、果たしてアムール川流域という大陸規模の陸面と、オホーツク海と親潮域という外洋規模の海洋が、鉄を通じて結びついているか否かを立証することです。平成18年は、念願のオホーツク海での日露共同海洋観測を実施することに成功し、アムール川の河口からオホーツク海にかけての様々な様態の鉄の濃度分布を掌握することに成功しました。その結果、アムール川から輸送された鉄は一旦河口域で沈殿し、海氷生成に伴って駆動される熱塩循環と潮汐混合によって外洋に運ばれ、サハリンの東岸を南流する東サハリン海流によって、海洋の中層を千島列島まで輸送されることが判明しました。千島列島から太平洋に通ずる海峡部においては、激しい潮汐混合によって中層の高い濃度の鉄が表層にも輸送され、親潮域に水平輸送されます。このようにして、当初の仮説どおりにアムール川から親潮域に鉄が輸送されていることを確認できたのは大きな成果でした。
 

図2:クロモフ号による海洋観測風景

図3:イチンスキー山の山頂氷河における氷コア掘削
 

 一方、大気を通じて輸送される鉄に関しては、カムチャツカ半島のオホーツク海岸において自動のエアロゾルモニタリングと、山岳氷河における115m深までの氷河コア掘削を実施しました。これによって、大気を通じた現在と過去の鉄輸送フラックスの観測に成功しました。今後明らかになる解析結果を待って、大気からの貢献の割合を定量化する予定です。

 

図4:水田における土壌間隙水試料のサンプリング

 

 さて、果たして陸面における様々な人為的擾乱はアムール川を通じて海洋に運ばれる鉄の総量に影響を与えるのでしょうか。我々はまだ明確な答えを得ていません。しかし、三江平原において平成18年度に実施された野外観測によれば、自然湿原と畑、水田においては明瞭な溶存鉄濃度の差異が認められました。自然湿原は予想通り重要な鉄の供給地であった一方、畑の土壌間隙水中には溶存鉄は認められませんでした。我々の作成したアムール川流域の土地利用分布図によれば、現在、アムール川流域の7%が湿原によって占められています。このわずかな面積の湿原と、腐植物質を供給することによって鉄を可溶状態に保つことに貢献する森林は、鉄の供給地として欠くべからざるものです。果たして、人為的な陸面の改変が鉄の供給過程を通じて海洋生態系に影響を及ぼす可能性があるのか?平成18年度に得られた点の情報を、プロジェクトの後半に完成予定の陸面水文化学モデルと海洋生態系モデルによって面的に拡大することで答えを得る予定です。

 

図5:中国三江平原の異なる土地利用における土壌間隙水中の溶存鉄濃度の季節変化

 
 このようにして明らかになりつつある鉄を巡る大陸と海洋の結びつきは、我々が持っている魚付林の概念をはるかに越えた空間スケールをもつ生態系システムです。このシステムの保全のためには、農業と林業に依存するシステム上流部の人々と、水産業に依存するシステム下流部の人々の利害を共に考慮する必要がありますが、両者に密接なつながりがない、あるいはあっても認識されていないため、事は簡単ではありません。プロジェクトの後半においては、巨大魚付林というシステムに依存する人々の様々なつながりを明らかにすることによって、この貴重な生態系システムをいかに保全することが可能か、学問的な基盤を整備したいと考えています。
 

図6:アムール川流域の土地利用分布

 

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