◆鬼頭秀一,1996,『自然保護を問いなおす――環境倫理とネットワーク』筑摩書房(ちくま新書68).

■目次

序章 環境倫理思想のいま――自然との「共生」再考

第1章 環境倫理思想の系譜

  1 人間中心主義を超えて
  2 「自然の権利」という概念
  3 環境倫理思想における全体論の問題
  4 ディープ・エコロジーの出現
  5 環境倫理思想における「社会」の視点

第2章 新しい環境倫理をもとめて

  1 環境倫理思想を問いなおす
  2 「生業」と「生活」の視点からの環境問題
  3 環境問題の社会的リンク論
  4 新しい環境倫理学の枠組み
  5 風土論と文化論の射程で

第3章 白神山地の保護問題をめぐって

  1 白神山地の保護問題が問いかけるもの
  2 青秋林道問題から世界遺産の登録へ

終章 わたしたちはいかにして「つながる」ことができるのか

あとがき

■内容  *( )数字は引用頁、〔 〕は引用者による補足を示す
■■第1章 環境倫理思想の系譜
◆自然保護から環境主義へ

1970年代における環境倫理思想の転換は「自然保護(conservation)から環境主義(environmentalism)へ」という命題として定式化できる。
すなわち従来の自然保護のあり方があくまで人間にとっての利益にもとづいていたのにたいし、自然保護は自然それじたいのために
――人間の利害とはかかわりなく――なされるべきであるとする考え方への転換である。
◆人間非中心主義と人間中心主義という議論枠組の生成

リン・ホワイトJr.は「現在の生態学的危機の歴史的根源」(『サイエンス』1967年3月号)において、環境危機の歴史的根源は有史以来もっとも 人間中心的な宗教であるユダヤ・キリスト教的世界観にあると説いた。『創世記』は人間の自然にたいする支配権を表していると解釈され、近代科学技術の根底にある永続的な進歩にたいする暗黙の信仰もユダヤ・キリスト教的な目的論に根ざしているというのである。これにたいしジョン・パスモアは『自然にたいする人間の責任』(1974)において、キリスト教的な世界観はむしろ人間が神の代理人(「スチュワード」)として動植物の世話を任されていると、すなわち人間中心主義的な環境保全思想の源泉として解釈可能であるとした。
◆保全と保存

ジョン・パスモアは「保全(conservation)」と「保存(preservation)」を厳密に峻別する。「保全」は保護・節約を意味している。つまり「〜へに備えた節約」とのように、最終的には人間の将来消費のために天然資源を保護するという考え方である。 他方「保存」は「〜からの保護」を意味しており、特定の生物種や原生自然を人間の活動を規制してでもその損傷・破壊から保護しようという考え方をさす。パスモアによれば、保全はスチュワード論的な思想伝統に、保存はロマン主義的な思想伝統にそれぞれ対応しており、必ずしも「保全から保存へ」という 思想 転換を意味しているわけではない。
◆ロマン主義/超絶主義

人間非中心主義的な「保存」概念は、思想的には19世紀のロマン主義思潮にその起源を求めることができる。18世紀の啓蒙主義時代において人為による自然の征服は称揚されていたが、ロマン主義はその反動として自然の全体性、さらには人間の自然との一体性を説くにいたる。なかでもアメリカにおいて大きな力をもったのはエマソンやソローの超絶主義である。エマソンは自然を人間の想像力の源泉であり人間精神の反映とする一方で自然の自体的な価値は認めず人間による支配を認めていた。これにたいしソローは、エマソンの見解を批判しつつ、人間は自然のなかに身をおくことで理性や科学ではなく直観によって自然のなかのすべてのものに 浸透している大霊(Oversoul)との直接的な交流や、それをつうじて人間精神をみつめることが可能となると説いた。ソローのこの思想はその後のアメリカのナチュラリストや今日のディープ・エコロジーにも継承されていくが、注目しておきたいのはロマン主義的思潮が生まれた当時の社会的背景である。すなわちロマン主義的思潮もまた啓蒙主義的近代の申し子だったのではないか。その思想は「原生自然」と向きあって開拓し生業を営んでいた人よりもアメリカ東部の都市生活者らに、今日でいうところのアウトドアブームさながら、失われつつある「自然」を嘆くという仕方で受容されたからである。
◆「保全」対「保存」

アメリカにおいて森林管理の観点から自然保護にはじめて取り組んだ人物にピンチョがいる。彼の自然保護は「森林(資源)管理」を意味し、基本的に保全であり、「最大多数の最長期間の最大幸福」という考えにもみられるように功利主義にもとづくものであった。これにたいし保存の観点から自然保護運動を推進した人物にジョン・ミューアがいる。 超越主義の影響色濃いミューアは自然に内在的価値を認める立場からヨセミテ渓谷の国立公園化に尽力し、シエラ・クラブの創設者としても知られる。19世紀末から今世紀初頭にかけてサンフランシスコ市がヨセミテのヘッチィ・ヘッチィ渓谷に慢性的水不足解消のためダム建設を計画したことから保全派(ミューア)と保存派(ピンチョ)のあいだで対立が生じた。この論争は1913年に最終的にダム建設が認められる、つまり保全派が勝利するかたちで終結した。当時、保全派の論理を支えた思想的背景が功利主義と科学的管理であったのにたいし、保存派の論理はロマン主義的な感性に訴えかけるにすぎず、脆弱なものであった。

   cf. http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2009/mn02.pdf
   http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2010/mn01.pdf
◆自然物の当事者適格論

「保存」の論理を倫理学・法的に正当化していくためには、自然そのものの権利を何らかのしかたで基礎づける必要がある。法の場面では、特定の個人・団体は自然にたいして土地の所有権があるか、法的に定められた利害がないと、自然保護にかんする訴訟を起こすことができない。そこでその対象となっている自然じたいに当事者適格を認めさせようというのがクリストファー・ストーンの理説である。ストーンによれば、社会の進化にともない、その進化に対応するかたちで無生物(「法人」など)にまであらたに法的権利が付与されるように法も変化してきた。他方、法操作主義的な側面を重視するストーンは、自然物に当事者適格を認め、後見人方式という制度を採用することで、破壊の危機にある当該自然環境に利害関係はなくとも精通している個人・団体にも訴訟権を
付与することができると主張する。 さらにストーンは自然物に権利を認めることにたいする反論への応答として「道徳多元主義(moral pluralism)」を提起している。すなわち倫理的原理はいかなる場合でも普遍的に適応されねばならず、それゆえ単一の解しかもちえないとする立場を「道徳的一元論」として排したうえで、 道徳のエージェントを異なる原理と論理によって支配される多元的なフレームワークとしてとらえ、それぞれの場面での倫理的考察の必要性を主張した。
◆動物解放論

ピーター・シンガーは功利主義の立場から利益にもとづく平等を説く。その利益は種差別を排して快楽と苦痛を基準とするから、快苦を感じることのできるヒト以外の動物も倫理的配慮の対象とされる。さらにのちの『実践の倫理』においてシンガーは快苦と「人格(person)」 という基準で 生命を三つのカテゴリーにわけ、それぞれにたいする処遇について体系的な生命倫理論を提起している。 シンガーの理説はその論理的帰結として障害新生児の安楽死を容認することになり、論争を呼んでいる。
◆環境倫理学の台頭と全体論

哲学/倫理学も1960年代末からの環境危機の影響と無縁ではなかった。1971年にはV・R・ポッターによって人類が生き残るための科学が提唱され(Bioethics: Bridge to the Future)、1972年にはローマ・クラブのレポート『成長の限界』において地球規模での倫理の必要性が主張され、 1979年には倫理学的研究の蓄積をもとに国際的な学術雑誌『環境倫理学』が刊行をみている。 環境倫理学の大きな方向性は、従来の人間中心主義的な倫理学を脱し、人間非中心主義的/生命中心主義的な倫理学をいかに構想するかにある。それをシンガーらとは異なる仕方で試みたのがJ・B・キャリコットの全体論である。キャリコットによれば、動物解放論は近代の個人主義を無批判に前提とする原子論的思想の枠内にとどまっている。 これに対しキャリコットが師と仰ぐレオポルドは、土地(land)という生命圏共同体にたいする影響効果によって倫理的質を判断するという全体論的な立場に立つ。すなわちレオポルドのランド・エシックスは共同体という概念の枠を「土地」――土壌・水・植物・動物――にまで拡張したうえで、その安定や美観の保護を重視する、とされる。
◆共有地の悲劇/救命艇の倫理

ギャレット・ハーディンは、人口は増加しても「見えざる手」の調整メカニズムによって均衡にいたるとする考え方に異を唱えた19世紀の数学者ロイドの議論を
「共有地の悲劇」と呼び、現代に蘇生させた。共有地の牧草地に放牧動物を増やそうとした場合、増加による利益はまるまる個人のものとなるのにたいし、増加(過放牧)による不利益は共有地の飼育者全員に配分されることになり、個人の負担は軽減されることになる。 よって飼育者(諸個人)の合理的判断は動物の増加を帰結し、結果共有地の牧草は枯渇してしまう。ここからハーディンは、私有地ではそうした問題が生じないと説く。さらには、資源/人口問題においては科学技術が進歩しても個人の自由の追求と社会全体の環境の適正な享受のあいだに決定的な矛盾が生じることは必然であるため、個人の福利よりも環境全体の福利を優先すべきであるとする「救命艇の倫理」を説く。これは地球全体の資源維持/環境保持のためには個人の自由の制限もやむなしとする、いわゆる「地球全体主義」の古典的な形態のひとつといえる。
◆政治的エコロジー論

バリー・コモナーは人口問題について、それは社会的・政治的に複雑にいりくんだ問題であり、産児調整などの生物学的な方法によって解決できないとする。
◆宇宙船倫理/世代間倫理

K・S・シュレーダー=フレチェットは『宇宙船「地球号」操縦マニュアル』(1969)におけるフラーの考えを敷衍しつつ、人類と自然の本来的な福利は密接に結びついており、どちらかを一方的に損なうことはできないと主張する。すなわち宇宙船地球号の構成員により民主的かつ公正なやり方で政策を構想していくことによって、共有地の悲劇は回避可能であるとする。さらにシュレーダー=フレチェットは環境問題における科学技術の問題、なかでも人口化学物質や核エネルギーの問題を直視し、 未来世代の権利を主張する「世代間倫理」を提唱した。
◆地球全体主義の問題点

地球全体主義は近代的な個人の自由とも抵触するなどのさまざまな問題を抱えている。とくにそれらの議論の前提については検討が必要である。その第一は、地球全体のために抑制されようとしているのは人間の欲望や自由であるということである。ここには人間の欲望は無際限に拡大するという前提がある。つまり古典的ともいえる近代の個人主義的な人間観を前提としているが、それを非西欧圏にまで適用できるかは疑問である。たとえば南国での人口爆発には社会経済的要因が大きくかかわっており、その要因を人間の欲望などの自然的な傾向に還元することは不可能である。第二は、地球全体主義が「人間 対 自然」図式の延長線上に位置する主張だということである。すなわちそこでは人間と自然(地球)が個別の存在として拮抗しているかのような前提があるが、人間を離れた地球はそもそもありえないし、人間の欲望や自由でさえ自然とのかかわりあいのなかで、それぞれの地域において、多様な形態をとっているとみるべきである。
◆ディープ・エコロジー

ロマン主義的な伝統に根ざした現代環境思想にディープ・エコロジーがある。ノルウェーの哲学者アルネ・ネスは、従来の環境保護の考え方は汚染や資源枯渇に反対しているが、つまるところ先進国の繁栄と健康を意図しているだけの Shallow Ecologyにすぎないと断じ、それにかわるものとして Deep Ecologyを提唱する。ネスは生命を原子論的にではなく、関係論的な世界観のもとで把握する。そして原則として全生命体平等主義を想定し、 それとの関連で多様性・共生の原理・脱中心性・地域の自律性を説くといった、全体論的でありながら多元主義にも目配りのきいた理説を提起している。 またネスのいう「深さ deep」は答えではなく問いの深さであり、内容的には自己実現の問題とかかわっている。すなわちすべての生命体は生態系のなかで自己開花し相互に関連していく本質的な価値をもっており、その権利の平等化は生物や文化の多様性を保証する規範とされるが、かかる自己実現は世界の全体との同一化によってより大いなる自己感覚を獲得することも意味している。
◆ディープ・エコロジーの問題点

ディープ・エコロジーは人間の心理学的/精神的な側面を重視し、環境思想の転換においてはひとつのあり方として意義をもつ。 だが我々の経済財的側面がむしろ環境破壊も大きな要因となっている事実に鑑みたとき、経済的側面もまた精神的な意識改革だけで解決できると考えるのはむしろ危険である。
◆エコフェミニズム

人間非中心主義は男性と女性を対立させ、男性優位社会の脱却を志向するフェミニズムと強い親和性がある。カルチュラル・フェミニズムの視点に立つと、自然破壊の深淵には家父長的でヒエラルキー的な自然-文化の二元論に立脚した人間の自然にたいする支配がある。かかる観点から1970年代にはスーザン・グリフィンやキャロル・マーチャントによって展開されたエコフェミニズムは、1980年代になると、原発事故や第三世界での開発の問題ともあいまって多様化していく。たとえば社会主義フェミニズムの代表的論者であるメアリー・メラーは、自然と女性を親和的なものとみる立場と一線を画し、 自然を搾取する家父長制資本主義とそのイデオロギーを環境破壊の要因とし、女性もその社会システムのなかで劣位に置かれ自然搾取的な存在形態に押しこめられていることこそ問題であるとする。他方ヴァンダナ・シヴァのように、第三世界の緑の革命に象徴されるような自然搾取と女性の問題を視野にいれた観点から 生物多様性を文化多様性の問題として論じる者もいる。
◆生命地域主義(bioregionalism)

ディープ・エコロジーと密接な関係をもちつつも異なるスタンスに立ち、1970-80年代にかけて展開した思潮。カークパトリック・セイル、ピーター・バーグ、ジム・トッドなどが主要な論者。「生命地域」とは政治的な境界ではなく、 その土地の真の性格をあらわす自然の生物的・地域的特徴によって画定される領域をさす。つまり人間をとりまく生態系の理解のうえに、さらにはその土地に棲まう人々の多様な感性・意識を土台に、経済・政治制度や組織を打ち立てていこうというのが、この立場である。このように実際に生活している土地や社会に密接に関連づけられた思想である点で、精神的な自己変革へ傾倒するディープ・エコロジーとは一線を画する。
◆ソーシャル・エコロジー

ジェイムズ・オコンナーの社会主義的エコロジーもあるが、一般にマレイ・ブクチンのアナキズム的エコロジーをさす。 この思想は人間の社会的関係性を重視、自然を人間が関与して存在しているとみる「人間的自然」観に立ち、人間の自然支配に先立っては人間間の(階級的/性的)支配-従属関係が撤廃されねばならないとする平等主義的な社会構想を基軸とする。また原生自然の探求は人間嫌いにもとづく人間社会への反抗であるとしてディープ・エコロジーを批判、むしろ自然の歴史的・社会的文脈を理解し、それぞれの生命地域に暮らしている人たち(先住民など)の生存権を重視する。
■■第2章 新しい環境倫理をもとめて
◆使用価値/内在価値/本質価値

自然保護の根拠には自然の価値がある。この自然の価値はつぎの三つに分節化できる。 第一は「使用価値(instrumantal values)」である。自然は人間が利用するからこそ価値があり、だから保護されねばならないという考え方であり、人間中心的な価値である。 第二は「内在価値(inherent values)」である。人間の利用から離れても、自然には畏敬や驚嘆の対象としての価値が内在しており、だから保護されねばならないとする考え方である。これは旧来の人間中心主義を脱してはいるが、自然が人間にもたらす効用を基礎に価値が付与されている点で功利主義的である。第三は「本質的価値(intrinsic values)」である。人間が介在しなくても、自然それじたいには本質的な価値があり、だから保護されねばならないという考え方であり、人間非中心主義的な価値である。
人間中止主義的な「保全」にたいして「保存」の考え方の根拠とされ、「原生自然=ウィルダネス」という価値もひとつにここに根ざしている。
◆「原生自然=ウィルダネス」の変遷と問題点

「原生自然=ウィルダネス」は人間非中心主義的な環境思想の中核概念となっているが、その概念/価値の普遍性については留意が必要である。西洋ではそもそも「原生自然=ウィルダネス」は否定的あるいは両義的な意味で用いられていたが、ロマン主義によってそれをポジティブなものとする 意味の転回が起こる。しかしこのロマン主義的な「原生自然=ウィルダネス」思想はその地域に生活し生業を立てて暮らしている人たちの思想ではなく、すでに都市化した地域からの旅行者の視点に立つ思想である。その意味で「原生自然=ウィルダネス」の称揚は歴史的にも文化的にも特定の文脈において登場してきたものであることを認識しておくべきである。また第三世界の文脈では「原生自然=ウィルダネス」概念が環境破壊の問題と因果的な関係が結べないとするインドのグーハの指摘も重要である。グーハは、第三世界の環境破壊の原因としてはむしろ先進諸国や都市部における過剰消費、あるいは軍事問題といった政治経済的要因が重要であると 主張するとともに、先進諸国の関心が「原生自然=ウィルダネス」に偏ることで、第三世界のより先決的な環境問題――土壌流出・大気/水質汚染、食糧の安全性、貧困――が立ち後れるのではないかとの危惧を表明している。
 
◆学際的な学としての環境倫理学

今日その破壊が取りざたされている自然は、原生自然とはいえ何らかのかたちで人間の生活と関係しあっているものが大多数である。 したがって環境思想の構想にさいしても、人間と自然の関係性、さらには人間の営みじたいにも目を向け、分析する必要がある。すなわち環境思想や環境哲学だけでなく、人間の営みを対象とした諸学――環境民俗学・生態人類学・人文地理学・環境社会学――の知見を組みこみつつ環境倫理学を構想する必要がある。
◆人間と自然のかかわりの全体性

近代の人間-自然の対立図式を脱するには、関係論的な思考が必要となる。つまり人間が中心か、自然が中心かという見方ではなく、そのあいだのかかわりを全体的にとらえる視点が要請される。そこでその分析のために、ふたつの概念を導入する。第一は、人間と自然のあいだのかかわりのベクトルにかんする概念である。相対的ではあるが、人間の自然にたいする能動的なかかわりを「生業」、人間が自然から受ける受動的な働きかけを「生活」と定義しよう。このふたつの概念はベクトルの方向性は異なっているが不可分の関係にある。この考え方は人間にとっての概念として定義されている点で人間中心主義的にみえるかもしれないが、そうではない。そもそも自然をそれじたいとして、人間存在から独立してその価値を論じることは不可能である。 たしかに自然は人間との関係性においてしかその姿を開示することはできないが、人間もまた「生活」や「生業」といった営みのなかで自然によって規定された存在である。人間と自然のあいだには自然の道具的価値や本質的価値を云々する以前に、その「生業」「生活」において宗教儀礼・社会関係・経済活動を含めた、よりひろいつながりのネットワークが存在している。そして注意すべきは、その関係性における「生業」の部分による「生活」の部分の凌駕/圧倒が歴史的経緯のなかで一般的に生じていることは事実だが、それ自体が環境危機を生み出しているわけではない、ということである。近代以降の工業社会において環境破壊が大規模化/急速化しているのはたしかだが、近世の農耕中心の社会でも森林破壊はおこなわれていたし、狩猟社会においても資源の取り尽くしの問題はあったからである。 したがって問題は両者の全体的なバランスにこそある。そしてそのバランスは量的な関係ではなく、両者の関係性の様態という質的な問題である。 かかる質的な側面をつかまえるために、第二の概念である「生身」と「切り身」を導入しよう。これらは人間-自然系におけるかかわりの全体性と部分性を端的に要約したものである。人間が社会/経済的リンクと文化/宗教的リンク――あわせて社会的リンク――のネットワークのなかで総体としての自然と不可分なかたちでかかわりつつ生業を営み生活している一種の理念型の状態を「かかわりの全体性」と呼び、「生身」の自然との関係のあり方と定義する。これに対し社会/経済的リンクと文化/宗教的リンクのネットワークが切断され、自然から一見独立的に想定される人間が人間から切り離されて認識された自然とのあいだで部分的な関係をとり結ぶ様態を「かかわりの部分性」と呼び、「切り身」の自然との関係のあり方と定義する。
  これらの概念を導入すると、環境問題の本質は人間から離れて存在している自然の破壊にあるのではなく、人間と「生身」のかかわりあいがあった自然が
  「切り身」化していくことにあるといえる。つまり環境問題解決の鍵は「生身」の関係――人間-自然系の「全体性」――の回復にある。
  そしてその「全体性」とはとりもなおさず、さまざまなレベルで存在している社会/経済的リンクと文化/宗教的リンクのネットワークの総体をさしている。
◆新しい環境倫理学


  社会的リンク論による新しい環境倫理学の構想とその射程を示すために、

@「技術論」A「生業論」B「所有論」C「流通論」の四つの論点について検討をしておきたい。

@「技術論」:社会/経済的リンクと文化/宗教的リンクのネットワークが切断されているのみならず、リンクの存在自体が非常に見えにくくなっているのが現状である。その要因としては科学技術の影響が大きい。近代科学技術は伝統技術とは異なり自然への侵襲性が圧倒的に高く、普遍性を有するためローカルな文化/宗教的影響も比較的希薄である。 さらにはそれを利用する人間の潜在的な欲望を増大させる傾向を内在させてもいる。 それゆえ地域社会のなかでそこにおける社会的リンクをいかにうまくとり結ぶことができるか、つまり全体としていかに環境適合的なネットワークを形成することができるかという観点から科学技術を評価するテクノロジー・アセスメントの重要性が高まっている。

A「生業論」:文化人類学においてマイナー・サブシステンスへの注目が高まっているように、生活の糧をえる活動を「狭義の生業」とするなら、遊技的な色彩をもった「遊び」をその対極に配置し、そのスペクトルのなかで人間の活動をとらえなおすことが可能となる。

B「所有論」C「流通論」:ハーディンによる「共有地=コモンズの悲劇」は大きな問題提起であったが、その前提となっている共有地=コモンズ観は 必ずしも一般的ではない。井上真は所有や利用にかんして「オープン・アクセス資源」「公的資源」「共的(コミューナルな)資源」「私的資産」の四つの類型を提起しているが、ハーディンが前提しているのは第一の類型であり、すべての個人/団体によって使用され、使用権も排他的でも譲渡可能でもないような資源である。しかるに一般に共有地=コモンズといわれているのは第三の類型であり、資源にアクセスできる構成員には一定の限度があり、資源の利用に暗黙/明示的な規則があり、制度の内外から認知や合意がえられているという特徴をもっている。そしてこうした共有地=コモンズにおいては、すくなくとも資源の利用などにかんする規則がしっかりしている場合(タイトなコモンズ)には、 「共有地」の悲劇のようなことが起こらないことが各種実証研究によって明かされている。また所有と流通のそれぞれについて社会的リンク論の観点から整理すると、各類型には以下のような特徴がみられる。
   所有と社会的リンク

  私的資産:社会/経済的リンク;市場経済 文化/宗教的リンク;個人的嗜好・信仰
  公的資産:社会/経済的リンク;行政 文化/宗教的リンク;希薄化・普遍化
  共的資産:社会/経済的リンク;非市場経済 文化/宗教的リンク;地域文化  
流通と社会的リンク

  市場経済的流通:社会/経済的リンク;匿名性・公開性 文化/宗教的リンク;希薄化
  非市場経済的流通:社会/経済的リンク;実名性・閉鎖性 文化/宗教的リンク;地域文化
◆「自然」の再定義

従来の環境倫理学では自然保護の根拠として自然の価値論を採用してきた。 しかるに本書で提示した枠組では「自然」は、「人間と自然的環境とのかかわりあいという、関係性のシステムすなわち、 様々なリンクのネットワークの総体の中で客観的な対象として立ち現れるもの」として再定義される。これは従来「風土」という概念で呼ばれてきたものに近い(和辻哲郎『風土』、オギュスタン・ベルク『風土としての地球』『日本の風土性』 「エデンの園と新たなパラダイムのはざまに――日本における風土論」)。ベルクは「風土性」を、当該社会が共同体な主体として関与しているような 風土的関係の客観的傾向を示すとともに、主観的な感覚や知覚や意味をも含む概念としてとらえたが、それは文化の形成とわかちがたく結びついている。
◆生物多様性

生物多様性をたんなる生態学的な視点からのみとらえるのは浅薄である。さまざまな地域での生物多様性は、そこで暮らして生業をたてて生活している人たちの文化のなかにも存在している。そうした文化の多様性を守ることこそ、結果として生物多様性を守るという視点が必要である。すなわち時間的・空間的に多様な文化を保証するものとして母体となる自然環境の生物多様性の保持ははじめて重要な課題となるのである。
 



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Effects of Environmental Change on Interactions
between Pathogens and Humans.
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