第1部 人格と生命 1.生命の尊厳と生命の質は両立可能か(E.カイザーリンク) 2.医学における人格の概念(H.エンゲルハート) 3.〈ひと〉のいのち(R.プチェッティ) 4.人格性の基準(J.ファインバーグ) 第2部 人工妊娠中絶―生命の操作と倫理基準 5.体外受精をめぐる倫理的問題(M.ワーノック 6.人工妊娠中絶の擁護(J.トムソン) 7.嬰児は人格を持つか(M.トゥーリー) 第3部 安楽死 8.積極的安楽死と消極的安楽死(J.レイチェルス) 9.レイチェルスの安楽死論に応えて(T.ビーチャム) 10.倫理学と安楽死(J.フレッチャ−) 11.欠損新生児の生存権(R.ブラント) 第4部 治療と実験 12. 臓器移植の必要性(J.ハリス) 13. 医師と患者の「同意」の意味(P.ラムゼー) 14. 人体実験についての哲学的考察(H.ヨナス) 15. 動物の生存権(P.シンガー) 第5部 死の定義 16. 死の定義と再定義(H.ヨナス) 17. 脳死と人格同一性(M.グリーン、D.ウィクラー) 18. 死の定義――倫理学的・哲学的・政策的混乱(R.ヴィーチ) 19. 死の決定基準の法制的定義(A.カプロン、L.カス) 第6部 医療における配分の倫理 20. 高度救命医療の配分方法(N.レッシャー) 21. 社会的正義と医療を受ける権利の平等(G.アウトカ) 22. ヘルスケアの要求と配分的正義(N.ダニエルス) 23. 医療における平等と権利(C.フリード)
■内容 *( )数字は引用頁、〔 〕は引用者による補足を示す
■■動物の生存権(P.シンガー)
「ジェレミー・ベンサムは、有名な定式の中で平等ということの本質的原理を表現している。つまり「各人を1人として数えるのであって、誰をも1人以上に数えない。」言いかえれば、利害関係を持つあらゆる存在者について、その利害は考慮に入れられるべきであり、 ほかの存在者の利害の場合と平等に扱うべきだということである。」(207)
ベンサム曰く。「暴君以外に誰も抑圧することのできなかった権利を、人間以外の動物たちが獲得しうるときが来るかもしれない。……人間以外の、感覚を持つ動物についても、足の数、体表面の毛、仙骨の末端を理由にして、そういう被害にあうことを座視できないとされるときが来るかもしれない。越え難い一線をきめているものとして、ほかに何があるのか。理性的能力か、それとも、ひょっとして言語能力なのか。しかし、生後1日、1週間、さらには生後1ヶ月の幼児と比べても、大人の馬や犬の方が比較にならないほど会話の相手がつとまるだけでなく、理性的でもある。だが、馬や犬がそういうものではないとしても、そんなことが何の役に立つというのか。問題は「推論を行えるのか」でも「話せるのか」でもなく、「苦しむことががあるのか」なのである。」(207-208) 「見た目で他人に痛みがあると推論できるような事柄のほとんどは、他の動物、とくに哺乳類や鳥類のような「高等」な動物に見いだすことができる。身をよじらせたり、キャンキャンと泣いてみたり、痛みの原因を避けようとしたりするなどといった仕草は、現にある。それだけでなく、周知のように、これらの動物とは生物学的な類似点があり、見過ごすことができない。神経系統はわれわれと類似しており、調べてみればその機能も同じだということが分かる。」(209) 「……ほかの哺乳類や鳥類が苦しんでいるとわれわれが思う根拠は、他の人間が苦しんでいると思うのと、きわめて類似している。考えるべき問題として残っているのは、進化の段階をどれほど下がったところまで、この類比が成り立つのかということである。人間から遠ざかれば類似性が弱まっていくのは明らかである。もっと正確にするには、他の動物のあり方について詳しい調査が必要である。魚類、爬虫類やその他脊椎動物なら類似性は強いが、牡蠣などの軟体動物になると類似性ははるかに弱くなる。昆虫ならさらに困難になり、現在わかっている範囲では、昆虫が苦しみうるのかどうか知りえないと言うべきであろう。」(211) 「種主義〔人間相手なら間違っている処遇を他の動物にはしてもよいとする考え方〕の論理が最も明らかになるのは、人間の利益のために人間以外のもので実験を行うときである。なぜなら、動物実験という問題においては、動物は人間とは非常に違っているので、動物が苦しむかどうか分からないなどという口実で、論点が曖昧にされることはめったにないからである。生体解剖の擁護者は、この口実を理由にすることはできないのである。なぜなら、動物実験が人間の役に立つことを正当化するためには、両者の類似性を強調する必要があるからである。」(213) 「種主義の論理を最も明瞭に示すのが生体解剖だとすれば、動物へのわれわれの態度の核心にあるのは、動物を食糧にすることである。」(216) 「これは正しいと私には思われるが、次のような答えもありうる。動物が生きていることの価値は、生きていることが動物に与える喜びに由来するのだから、苦痛に対する喜びのバランスがあるとすると、動物を飼育するのも正当だということになる、という答えである。」(219) 「動物解放には、他のどの解放運動よりも、はるかに強い利他主義を人間の側に必要とする。動物が自分で要求することはできないし、投票、デモ、爆弾などで搾取に抗議することもできないからである。そんな純粋な利他主義が人間に可能なのか。誰にも分からない。しかしながら、本書〔『動物、人間、道徳』〕に重要な意義があるとすれば、それは、残酷や利己主義を超えるものを、人間は自己のうちに持っているのだと信じてきたすべての人々を、擁護していることだといえよう。」(220)