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法史学、特に中国法史学をバックグラウンドとし、「中国」における歴史上の人間の行為規範を研究してきました。現在は1)中華民国時代の租界において法行為が為されるときに生じる各国の法慣行の摩擦から見出すことができる中国の法概念と2)明清時代の中国西北地域における水利慣行とそれに関わる社会環境の復原を主要な研究対象としています。今後は千年持続というポジティヴな発想を枠に組み込んだ本グループ研究の中でメンバー同士切磋琢磨すること、リーダーとしてグループ運営に関する能力を身につけることを目指したい。グループ研究活動におけるグループ長の役割は、メンバー各自の研究傾向と研究領域拡大の可能性を踏まえた上で、グループとしての研究成果を出せるよう具体的な方向性を示して導くことにあります。近いながらも異分野の協働による研究活動であることから、相互の情報を本グループの目的と趣旨に従った形で総合していければと考えています。
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人類学や歴史学といった専門領域に囚われず、北東アジアや東南アジアの様々な時代と地域における生業・生産活動を対象とした調査・研究を行ってきました。こうした計画の一環として、本プロジェクトでは、近代までの歴史のなかでアイヌの人々が営んだ生活実践の復元を通して、アイヌ社会に形成されてきた資源管理を中核とする諸制度の再検討を行う予定です。とくに、特定の活動に従事する人々の発話化・言語化されがたい認知・行動様式に注目するなかから、各時代のアイヌ社会に形成された知識や概念を明らかにして行きたいと考えています。さらに、可能であるならば、北海道拓殖に伴う近代化に起因する、アイヌの人々の認知・行動様式や世界観などの変化、その結果として当該アイヌ社会に及ぼされた影響などを読み解くことも計画しています。なお、この研究では、民族誌や文献史料に加え、民具や考古資料といった非文字資料を積極的に利用することによって、文字資料や発話記録のみでは解明しえない過去のアイヌ社会における生活実践の復元を試みる予定です。
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アイヌの歴史を、中国語の史料を使って研究している。モンゴル帝国・元朝、明朝、清朝は、アムール川下流域で朝貢交易を行い、アイヌなどサハリンの先住民とも接触を持った。これまで、アイヌの歴史は、日本との関係、日本からの影響に重点を置いて研究されてきた。しかし、北方世界との関係も無視できない影響をアイヌ史に及ぼしている。近世の北方交易を山丹交易ともいうが、この交易によって中国製の錦がもたらされた。これを蝦夷錦という。このほかにも、ガラス玉などが北からもたらされているが、このような中国の物質文化が、北方先住民の文化にどのような影響を及ぼしているのかについて考えている。また、クマ送り儀礼(イオマンテ)など、精神文化についても北方との関係を研究している。
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アイヌ文化の成立過程をテーマに研究を行っています。具体的な作業のひとつは、北海道で8世紀から12世紀に展開した擦文文化の社会を、商品流通の影響という視点から検討すること。10世紀以降、北海道の日本海側では、移出品生産としてのサケ漁への偏向や、流通に関わる交易集団の析出など大きな変動が生じていきます。商品流通が北海道の狩猟採集民にもたらしたこのような変化を、私は縄文エコシステムからアイヌ・エコシステムへの転換と呼びたいとおもいます。もうひとつは、アイヌ文化の成り立ちを多様性と共生の視点からとらえ直すこと。擦文文化の集団が、サハリン由来のオホーツク文化集団や和人と多様な関係を結んでいたことを明らかにしていきたいとおもっています。
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清朝八旗社会史研究。大清帝国の歴史を満洲語・中国語等の多言語資料を用いて再構 を試みている。八旗ニル社会の研究を通して皇帝支配構造の究明だけではなく、より 実状に近いニル社会の究明を目指したい。そのためできるだけ同時代の満洲語档案史 料と一般旗人の史料を最大限に利用することによって、当時の社会状況や旗人の具体 像に迫りたい。最近は主に満洲語輿地図とシャーマニズム経典を中心に研究を進めている。
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バックグラウンドは東洋史学(満洲史・大清帝国史)で、マンチュリアに興起し、ユーラシア東半部に大発展した大清帝国の国家形成過程を、軍政一致の支配組織たる八旗制に即して解明を進めています。清といえ ば「明清」とひと括りにされて中国史の枠組の中で理解されることが多いと思いますが、私は満洲語・漢語の二大史料群を主用して、八旗制の下に組織された 草創期の支配体制には、階層組織体系・一族分封制・左右翼制・親衛隊制・部族連合体制といった中央ユーラシア国家的特徴が貫かれていることを明らかにし てきました。現在は、この帝国がどのような時代状況の中で生成してきたか、という同時代的観点と、彼ら満洲人の採った組織技術・語彙・正統観・系譜意識などの淵源とその後の変容を追うという通時的観点とのふたつの関心から、より多角的に政権像を明らかにしていきたいと考えています。そこにおいて浮上し てくるのが、彼らの故地にして後背地であり、政権を支える交易品/威信財の供給地・流通路であったマンチュリアの地とそこで活動する人々の姿です。この プロジェクトでは、マンチュリアを中心とした北方世界の交易と社会制度の実態について研究を進めたいと思っています。
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明清時代以降の江南デルタ社会の諸事象について歴史学的な手法を用いて研究している。博士論文では明清時代の江南デルタ市鎮(market town)における犯罪と治安を取り上げ、農村から都市部への人口移動と犯罪との関わりを、主に地方志・档案など文献資料を利用して研究を進めてきた。その過程で次第に明らかとなってきたのは、太湖の漁民が潜在的犯罪者とみなされていた事実である。太湖は治安の行き届かぬ地域と考えられ、漁民はしばしば「漁匪」「漁船盗賊」「湖寇」「湖匪」等と称されていた。しかしながら太湖の漁民に関する文献資料はほとんど存在せず、彼らをめぐる生活形態・社会関係・漁業経済・資源利用等の諸問題は手つかずのまま残されている。そこで本プロジェクトでは、太湖漁民に限定せず、江南デルタの内河・外海漁民について上記の諸問題を、文献資料・現地調査の二つの方法を用いながら考察してみたいと考えている。
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これまで清代台湾における漢民族と原住民(熟番・生番)との関わりについて交易を中心に研究を進めてきた。清代台湾においては漢民族・熟番と生番との間で制度的に棲み分けがなされ、番界(土牛溝)と呼ばれる境界線が設けられていた。しかし水面下では着実に交易が行われ、漢民族側から塩・火薬・布・鉄鍋など日常生活品が、生番側からは苧・通草・鹿皮・藤木などがもたらされた。その交易の仲介的な役割を担っていたのは「番割」と呼ばれた人々で、漢民族でありながら(漢民族と原住民との混血の場合あり)番語を習得し、生番の女性を妻とし、さらにヘアスタイル(髪型)・服装・生活場所までをも「番化」させていた。清代中期には取締対象とされたが、清末の国際情勢の変動、特に台湾の生番地の帰属問題が浮上してくると、一転して肯定的な評価を受けるようになる。本プロジェクトでは、研究対象を日本統治時代にまで広げ、日本人・漢民族・原住民との間で行われた山林産物交易と、そこで仲介的な役割を果たしていた番割との関わりについて検討してみたい。
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東洋史学をバックグラウンドとして、前近代の東アジア広域交流の史的展開に関心を持って研究をしている。これまでの研究では薩摩侵入(1609)以前の琉球王国の対中国関係と海上交易活動との連関に注目して、その具体像を可変的な枠組みの中に位置づけ、そこに関わっているそれぞれの存在にとってどのような意味を持っていたのかについて考えてきた。またそれと密接に関わる問題として、琉球王国を語る上で欠くことのできない要素とされる「朝貢貿易」をどのように理解すればよいかという問題にも注目しており、明朝を中心とした様々な「朝貢」を総体として捉えるべく、目下分析を進めている。このプロジェクトでは、アイヌ世界・マンチュリア・台湾などの諸地域での研究と対話しつつ、琉球王国の出現と活動の持つ意味についてさらに深く掘り下げて行きたいと考えている。
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私は、近世(1609-1879)における琉球王国と、当時の東アジアとの関わりを様々な角度から研究しています。この時期の琉球は、14世紀後半以来の中国(明清)との君臣関係(冊封・朝貢関係)を維持したまま、日本(幕藩制国家)の支配領域に包摂されており、いわば中日の二重の支配を受けていました。私は、この状態に琉球がどのように対処していったかを見ることによって、日本・中国という二大支配とその境界ゾーン(=琉球)との相関を明らかにし、また当時の東アジアの様々な境界地域や支配−被支配関係と比較検討しながら、東アジアの国際関係の特質(特にその境界地域の特質)、及びその中における琉球の位置付けを明らかにしていきたいと考えています。またその際、琉球と日中の関係を、単なる政治外交の問題として捉えるのではなく、それが王国構造や国家制度、民衆の世界観などに「いかに内在化したのか」という側面を重視して研究を進めていきたいと思っています。
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学部時代は、文化人類学の理論と民族考古学的手法に関心を抱き、経済活動という観点からみた考古学資料の検討を試みた。同時期に、祭祀考古学についても研究をスタートさせた。大学院修士時代は、弥生土器、古式土師器の移動という現象について、考古学的手法を用いて研究した。大学院博士時代は、弥生・古墳時代の墓制、特に土器棺埋葬について研究を行った。現在は、近現代考古学的、民俗学的視点から、台湾、沖縄の物質文化に興味を持つ。今後は、かつて、雑誌『えとのす』が目指したような、考古学の規範に留まらない、視野の広い物質文化を行っていきたい。
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