京の名産品として名高い麩は小麦のたんぱくでできた栄養価の高い食品で、とくに、肉や魚を使わない精進料理には欠かせない食材のひとつである。小麦粉を水に溶いてだんごにし、よくこねてから布巾につつんで流水中で根気よくもんでゆくと、でんぷんだけが洗い流され最後に弾力のあるたんぱく質の塊が残る。これがなま麩の主原料である。麩はこのように、多量のきれいな水を必要とする食品であるが、京の豊かな地下水がそれを支えてきた。「水」が、「小麦」と並ぶ麩のもう一つのキーワードである。

 麩の原料となる小麦は、今から一二〇〇〇年ほど前に、中東のどこかで栽培されるようになったといわれる。初めそれは、あたりに生える、およそ目立たない草に過ぎなかったようだ。地球研の丹野研一さんらの最近の研究では、コムギの進化はゆっくりとすすんだ。原始的小麦は長い間、ごく簡単な方法で栽培されていたらしい。それが数千年前に劇的に進化を遂げて「パンコムギ」といわれる現在の姿になった。当時の主流であった小麦の種類が、その畑の雑草であったタルホコムギと「たまたま交配してパンコムギができた」というこの劇的進化のシナリオを書いたのが当時京都大学におられた木原均先生だった。木原スクールの息遣いは京大にまだ脈々と生き残っている。京は小麦の研究ゆかりの町でもある。

 私のプロジェクトの調べでは、パンコムギは四〇〇〇年ほど前にはパミール高原を越えて、中国の西の端である新疆ウイグルにも達している。このころには小麦はもう立派な作物に進化しており、灌漑などの設備を伴っていたらしい。現在の砂漠地帯も、昔は緑の大地だった可能性が高いことになる。パンコムギはほどなく黄河流域でも広く栽培されるようになったが、おそらくそれは、後に「シルクロード」と呼ばれることになる街道を、絹とは反対に西から東へと伝わってきたのである。シルクロードは、「小麦のきた道」でもある。そのころ南の長江(揚子江)流域にはすでに稲作の文化が成立しており、「北の麦と南の米」という対比はパンコムギの渡来によって形作られることになった。この南北の対比は今の中国にも残っていて、黄河一帯では麺や餃子、饅頭(まんとう)などのコムギの食品の消費が米の消費量よりずっと多い。いずれにしても小麦は、原産地から中国まで、乾燥の強い地帯を旅しながら進化した作物である。

 中国の沿海部に達した小麦はそこで麩という食品になった。麩は中国でも唐代には精進料理に使われていたようで、肉食を排する仏教の戒律が小麦のたんぱく質に目をつけさせたものとも思われる。とすれば麩とは、西域の小麦とインドの仏教とモンスーンの水という、三つの異なる風土の要素が交流して作り上げた食品ということになる。言い換えればそれはシルクロードの時代の「グローバリゼーション」の傑作ということになるが、さて現代のグローバリゼーションは後代にどんな一品を残すであろうか

佐藤洋一郎, 現代のことば (京都新聞 2006・5・8)