特集1
巻頭対談
自然も、音楽も、人の営みも、ハーモニーがあってこそ美しい
話し手●森 悠子(ヴァイオリニスト、長岡京室内アンサンブル音楽監督)
聞き手●阿部健一(地球研研究基盤国際センター教授)
編集●阿部健一
地球研の第1回国際シンポジウムのプログラムのひとつに長岡京室内アンサンブルの演奏があった。日髙敏隆初代所長の発案だった。音楽と学術的な議論とは対極にあるようで密接なかかわりがある。環境学も論理と感性の二つがあって成りたつのではないか。「感性の人類学・共感の環境学」のことばが頭に浮かんだとき、長岡京室内アンサンブルの音楽監督の森悠子さんとお会いする機会を得たと阿部さんは言う。音楽と教育の話を聞きながら、環境学における感性について、さらには専門の異なる若い研究者の集う地球研の活動について考えてみた
阿部●このあいだ森さんとお会いしたときに、「最近、地球研は息をしているの?」と言われて……。「えっ、どういうことですか」と返したら、「活気がないよ」と。(笑)
森●最近はシーンとしていますね。木が育って建物が見えなくなったからかな。
阿部●私たちも成長して、落ち着いてきたんじゃないかな。(笑)
森●「京都議定書」が「パリ協定」に受け継がれましたね。協定でなにが変わるかわからないけれど、10年ぶりに戻ったパリはちがいました。心からそう思いました。
阿部●環境問題もあらたな段階に入りました。環境の危機をただ言い募るのではなく、自分たちの生活を具体的にどのように変えるべきか一人ひとりが考える段階です。
個性の共存がたくましい自然を育む
森●パリの郊外にフォンテーヌブローという森があって、私はそこで毎年ヴァイオリンの講習会を開くのですが、この森は木を適切に伐採して太陽光が入るようにしているから、新しい芽も生える。針葉樹に、クヌギやクリ、カエデなどの樹種を混ぜて植えて、現在の森ができたといいます。
阿部●日本には天然の森があるが、ヨーロッパの森は人の手の入ったものが多い。
森●ドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森)も一見すると自然の森だと思うのですが、植林だとか。フォンテーヌブローの森も人の手を入れないと、美しい森でなくなる。
阿部●「こもれび」というのはいいですね。
森●フォンテーヌブローの森は、太陽の光がチラチラと輝く森のそばに大きな池があって、そこは渡り鳥が羽を休める場所。私はそこで、バードウォッチするんですよ、双眼鏡を覗いて。そこにシカが水を飲みにくる。そういう森でのひとときが楽しみ。
阿部●日本の植林地は外からは美しいが、中に入るとじつは荒れた緑。とくに最近はそうです。手を入れなければならないのです。
森●ヒノキはとてもだいじな木なのにね。それに竹林もほったらかし。根が横に拡がるタケは地すべりを食い止められないのでしょう。
阿部●地球研の「食と農に関するプロジェクト」では竹炭をつくり、それを農地に還元する研究をしています。
森●父のお墓にクマザサがはびこるのですが、竹炭を撒くと雑草が生えないというので、竹炭を買って撒いているんですよ。
個性を殺す教育・活かす教育
阿部●そのお父さんは、森昭さん*ですね。
森●父は変わった人でしたが、すごい人でした。日本万国博の2年後に大阪大学に人間科学部を創設した人です。
戦後に日本の教育制度は「6・3・3」制になりましたね。制度を変えるときに父もよばれて反対したそうです。比較教育学が専門でユネスコにいた姉に尋ねたら、アメリカはドイツも「6・3・3」制にしようとしたが、ドイツはどうしても変えずに「4・4・4」制をとっているということでした。
阿部●小学校の6年間は長すぎますからね。
森●1年生って、身長は1mあるかないかでしょう。6年生はもうすっかりおとな並み。そんな子どもたちが同じ敷地で運動会をしたり、先生は1年生を担任したり6年生の担任になったり……。いつかはドイツやフランスの制度と同じシステムに戻さないと。
阿部●成長は、一人ひとりちがう。
森●ヴァイオリンでもぜんぜんちがいます。
阿部●お父さんが哲学から教育哲学に移られたのも、次の世代を……。
森●ドイツ、フランス哲学を学んだ父は、アメリカのカリキュラムでは日本の独自性を失うと主張していました。
いまの教育をうけた人たちは、「学び」や「詰め込み」はじょうずだけど、詰め込んだぶんだけ隙間がないからつまらない。(笑)
たまたま私はヴァイオリン弾きだから思うのですが、ヨーロッパには音の隙間や、楽譜をどのように弾くかを聴きたいという聴衆は多いのですよ。でも、日本の教育はメトロノームどおりに1、2、3と箱に詰める。わずか十六分音符長くなっても、コンクールでは落ちます。隙間の響きを表現しようとしたら、入学試験では落ちる。国際コンクールで優秀者を毎年出している日本ですが、残念ながらまだ世界で活躍している人は少ないのですよ。
阿部●日本の教育をふり返ってみると、型にはめることに懸命だった。でも、地球研には専門にこだわらず、型を越えようという若い研究者は多いですよ。
森●では、型をはずしてよいかというと、品がなくなる。(笑)型をつくることもだいじ。京都の友禅染の人たちは、40年、50年をかけて染めに心を向けている。職人芸を突き詰めた作品にはアートを感じます。いまの世のなか、どこにほんものがあって、どれがにせものなのか、見分けがつかないですね。
阿部●たしかに。専門を大切にしないと環境学も浮ついたものになってしまいます。
感性が結実すると個性になる
阿部●フランス人地理学者で、風土の研究をされているオギュスタン・ベルクさん。ベルクさんが地球研にこられたときは、風土のほかに二つの関心がありました。一つは進化論、もう一つが日本の俳句。
森●フランス人は俳句に惹かれるようです。作曲家のオリヴィエ・メシアンやピエール・ブーレーズも俳句をつくっていますよ。リヒャルト・ワーグナーの過剰な音の世界から、いかに少ない音で伝えるかというミニマリゼの思想に変わってゆく。このミニマリゼを象徴するのが俳句です。説明なしに感じさせる、一つのことばで感じさせる。これにほれ込んだのがジョン・ケージとエリック・サティ。この二人は、ミニより小さいミニマリゼの表現に入っていった。
阿部●俳句の世界ですね。
森●私はたまたま日本に帰っていたときに東京文化会館でのジョン・ケージの演奏会を聴きに行ったのですよ。すると、お客さんの前でお辞儀してピアノの前に座ったまま。5分くらいしてすっと立つと、そのまま演奏せずにお辞儀して帰っていった。
阿部●『4分33秒』。究極のミニマリゼ。(笑)
森●ゼロ、無。なにが始まるのかと身を乗り出して待っていると、お辞儀してさっと帰る。(笑)30年前にすでにここまできていた。
阿部●地球研がめざす環境学がどの方向に行くのか。ミニマリズムそのものではないかもしれないが、抽象度の高いなにかを導きだすことになる。けっきょく、人間のことを研究するのだという感じがしますね。
数学も音楽も環境学も、根本にあるのは感性
森●京都御苑で先日見かけた酔っぱらいのフランス人のおじさんは、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの詩を詠い出した。フランスの教育はすごいなと思いましたね。(笑)
阿部●というと?
森●小学3年生までは、ゲーテやボーヴォワールの詩を暗誦させるのです。勉強は詩の暗誦と数学だけ。だからあのおじさん、あんなに酔っぱらっていても、ボーヴォワールをきれいに誦んでいた。
阿部●教育の話でさきほど、「型もだいじだ」とおっしゃった。ある年齢までは古典を暗誦させるのですね。
森●日本人が『万葉集』や北原白秋の詩を覚えるように。暗誦、これをすごくだいじにしている。それに算数・数学、哲学。試験は、哲学と数学しかありません。
阿部●数学者の岡潔さんの著作を森田真生さんが編集した『数学する人生』を読みました。数学だからロジックかと思うと、岡さんは「情緒の大切さ」を語っている。
森●感性でしょ。
阿部●そう、感性だとはっきり書かれています。人間はやはり情緒、感性。どんなことばを紡いでも、感性なくしてはダメだと。
数学ですら感性が重要なら、環境学こそ感性。人間は生きものだから、自然なかたちで感じる。それを森さんはヴァイオリンに、私たちだと研究、学問に活かしている。
おいしい牛乳は幸せな牛からしか出ません
森●東京駅の八重洲口に「アーバンファーム」というオフィスビルがあります。窓枠につる薔薇を植えて、建物は薔薇だらけ。中に入ると、小さなキャベツがお迎えしてくれて、天井にはキュウリやトマトがぶらさがっている。フロアの隅を水が流れている。驚きました。野菜工場で栽培した野菜は、大きく育つと会社の食堂に出てくる。
阿部●薔薇だろうがヘチマだろうが、緑はみんながいいなと思う。とくにビルが立ち並んでいる都会だと、よけいそう感じる。
森●これを計画したパソナグループ創業者の南部靖之さんは、淡路島で農業と芸術活動をする「アーティスト・イン・レジデンス制度」も始められた。東北で震災があったときは、畑を失った80人ほどの青年が淡路島にきました。私もよばれて、農業しながら音楽の心を育てる活動を4、5年続けました。私も生きがいにしていました。
阿部●共同生活の二つの柱が農業と音楽。この二つはどう響きあうのですか。
森●似ているんですよ。ちょっと手を抜くとキュウリは大きくなりすぎて、それを収穫して帰っても、「食べられません」。(笑)音楽も、1週間に1回の練習では成長しない。こまめにみないとね。天気と雨のぐあいをこまめにみるのが農業ですし、私たちはメトロノームと音程測定器だけを見るのではなくて、その場に響く音や空気感をみるのです。
阿部●ぼくも音楽をすればよかった。(笑)
森●南部さんは、淡路島で牛を9か月まで育てて京都や神戸に卸しているんですよ。それはもう、目が飛び出るくらいおいしい、かわいそうだけれど。
阿部●地球研が、京都大学と京都府立大学と共同で開催したフォーラムに、東北で乳牛を飼っている中洞正さんにきていただいた。彼に言わせれば、日本の乳牛はミルクをつくる機械。狭いところに押し込んで、乳が出やすい配合飼料を食べさせるから寿命も短い。「そういう牛乳をおいしいと思いますか」、「おいしい牛乳は幸せな牛からしか出ません」と断言されました。
指揮者のいない楽団がなぜ美しい音を出せるのか
阿部●森さんの長岡京室内アンサンブルには指揮者がいないんですって?
森●指揮者はいないですね。
阿部●同じような話を、地球研の東京セミナーで金子郁容さん(慶應義塾大学教授)にお聞きしました。たしか「オルフェウス室内管弦楽団」も……。
森●オルフェウスも指揮者はいないけれど、リーダーはいますよ。
阿部●森さんのところには、リードする人も指揮者もいない。たくさんの人や楽器をどうまとめるのですか。
森●それは、どのように練習するかによります。日本のオーケストラは練習1、2回で本番ですが、私は最低4日、長くて1週間。ただし、音を「合わせる」のではなくて、「聴く」。見て合わせるのではなくて、聴く。目隠しでも、目をつぶってでもいいんですが、そうすると自分がどこに立っているのかわからなくなる。そうすると、耳のほうが音を探しはじめる。なにげない音も聴こえてくるから、みんなの呼吸が一つになる。
阿部●聴く練習ですか?
森●練習はしない。自分の音を聴いて、人の音を聴いて、そして弾く。ときどき私は、「いまの弾き方は自分に欲を出したね」、「自分が勝ちたいと思って弾いたら、私たちのアンサンブルは落ちるけど、それでもいい?」って。そしたらみんな謙虚になる。(笑)
阿部●オーケストラには、いろんな楽器、パートがある。じつは、この研究所もたくさんの楽器を弾く研究者の集まりです。安定同位体分析の分野で活躍している研究者もいれば、哲学の研究者もいる。生物学や教育学の研究者がひとつのフロアに机を並べて研究しています。この利点をもっと活かせるのでないか、それにはなにをすべきかと考えるのです。
森●私はヴァイオリンしかできない。(笑)
阿部●自分のことを話すよりも、分野のちがう研究者の話を聴いて理解しようとするのはすごくだいじ。それが「聴く力」であり自分の専門にもかえってくるのですね。
森●聴くのはむずかしいですよ。自分の音は聴けても、人の心を聴くのはね。
阿部●心を聴く……。
森●心っていうのは「気」。「気」は絵にもできなければ、物体として触れることもできないですね。音も物体としては触れられないから、見た、聴いた印象。たいせつなのは、私たちにそういう聴く力があるかどうか。
阿部●私たちだと自然の無言の声を聴きとる力ですね。ジョン・ケージの演奏会。
森●「きく」ということばにしても、「聞こえる」という「きく」、耳を澄まして「いまどの鳥が鳴いているかな」と思って「きく」、細かく心の奥深くを「きく」がある。私はよく生徒さんに、「自分がなにをしたいかわからないときは、ちょっと時間を止めて、自分の心に電話してきいてみよう」って……。(笑)
成果よりも心の成長を待つ
阿部●そういえばご著書に、「合わせる感覚ではダメだ。それをむしろ嫌う。合わせようとすると嘘くさくなる」と書かれていますね。「自分の音も周りの音も聴きながら、それで自然と一体感が生まれる」と。
森●私も日本人だから、突き詰めるとなにかをつくってしまう、いらない心でね。無心になれといったって、なれるものではない。でも、ヴァイオリンはインストゥルメント、道具でしかない。人間が叩いたり引っ掻いたりして音を出す。サッカーは、ボールという道具をつかって得点で勝ち負けを競いますね。でも、剣道は勝ち負けだけでなくて、闘いになにかを見つけようとする。心のなにが動いているかを考える。
阿部●まず自分の心にきいてみる。
森●日本のお子さんは、親に育てられ、学校に育てられ、塾に育てられて、自分の声を自分できく時間が少ない。これにストップをかけるのも私の仕事です。レッスン中に、「お父さん、ちょっと出ていってください」とかね。(笑)
日本は、どのコンクールで入賞したとか、どの大学を出たとか、そんなことばかり。私がヨーロッパでオーケストラの入団試験を受けたとき、「桐朋学園を出ました」って言ったら、「それ、なんですか」で終わり。「とにかく弾いてごらんなさい」です。威張っても、委縮してもいけない。自身が正直に、自分がどう真剣に音楽に向かっているかという姿を見せれば、楽団にも引き受けてもらえるはずです。「賞をとった、勝った」の気持ちでいると、「うちにはいりません」。
阿部●でも、コンクールに優勝しないと。
森●でも、よくよく観察するとコンクールに出てくる国は決まっている。日本、中国、韓国、ロシア、ポーランド。ときどきアメリカ人が出てくるけれど、ドイツ人はまず出てこないし、フランス人もイギリス人も出てこない。指導者は急いで結果を出そうとしない、ゆっくり育てるからですね。
阿部●日本は急いで答えを出す。
森●急ぎすぎです。
阿部●地球研は、環境問題の解決を目的にできた研究所ですが、人間がこれだけの時間をかけて悪くしたものをたった数年で元には戻せない。それに急いで出した答えが正しいかどうかもわからないですからね。
対向する二つを調和させる知恵
森●ヴァイオリンの音にはことばはないが、音楽にはことばはあるんですよ。フランス語のドレミから楽譜ができたことで、日本人も音楽語で話すことになった。では、音楽語とはなにか、逆に心に浮かんでくる音楽語を音にすることだと最近は思うようになりました。でも、私たちが苦労するのは、印刷された楽譜を読み取って、そこから拡げて音を考える。その過程では、楽譜がなにを言いたいのか、どういう音をどのように出せば楽譜に近づけるのか、そんなことばかり考えているのですよ。
阿部●音楽語というのは、森さんの先生の齋藤秀雄氏の教えなのですか。
森●齋藤先生はそこまで心のことは言わなかったけれど、「右手が重要だ」とおっしゃった。私たちは、左手で弦を押さえて右手で弓を動かす。でも、弦を押さえて音程はつくれても、弓をもつ右手をきちんと教えられる人は、日本には一人もいない。
阿部●右手がそれほど重要なのですか……。
森●当時の私は若くてわかっていなかったのですが、齋藤先生には、「きみはフランスに行くんだから、右手のことを勉強して、教えられるようになって帰ってきてよ」って言われました。でも、わかりはじめたのはつい最近。(笑)でも、右の腕がなかったら、音 色はないのです。
阿部●研究、学問でも、ぼくらは左手のことばかり教えられてきたし、教えていますね。
森●それが理論です。
阿部●そう。では、研究で右手にあたるものはなにかな。たぶんそれは……。
森●感性。でも、感性ってなんですか。
阿部●ひとことでごまかしている。
森●ことばできちんと説明できないのですよね。
阿部●ぼくらも、専門分野の研究だけでは、めざす環境学は構築できないだろうなと。なにかが足りない。それが右手の動きかも……。
森●間感。音と音との隙間。
阿部●「間」を「感じる」力ですか。
森●それがないと間延びしてしまう。タタタタ・タンはスッと止まる。そうでないと、タタタタタッと急に止まってしまう。
「カエルの目だま」で終わった演奏と映像
森●あれ、なにが鳴いているのですか。
阿部●ヒヨドリかな。
森●うちの母が、メジロがかわいくて庭に餌を置く台をつくったんですよ。そしたら、ヒヨドリやムクドリがやってきて、うちの庭が大戦場になった。(笑)
阿部●中庭の池にはサギがきます。前の畑では、キジがよく鳴いていますよ。秋深くなるとサルも出てきます。シカもいますよ。
森●サルは人を怖がりますか。
阿部●怖がっていない。でも、ぼくを見ると逃げます。好かれていない。(笑)クマもいて、日髙先生が所長のころは受付に鈴を置いていて、その鈴を鳴らしてクマを追い払ってから帰られた。
森●日髙先生は父の友だちでした。父のほうが年上だったと思うけど、日髙先生は父のことをすごく尊敬していらした。
阿部●それで、地球研の第1回国際シンポジウム(2006年)で演奏していただいた。
森●そう。そのときに、「ふつうは映像が前に出て、演奏は後ろ。だれが弾いているかわからない。それを逆にしたらどう」って提案したんです。背景のスクリーンに悪化した地球環境を映像で見せて、最後はキョロっとしたカエルの目に花火が映る。演奏も、カエルの目だまで終わった。
阿部●日髙先生が亡くなられてから、お若いときに書かれた文章を絵本にして出版しました。そのタイトルが『カエルの目だま』。
森●それは知らなかった。
阿部●その本は日髙先生が子どもむけに書かれた唯一の文章です。生きものへの愛にあふれています。
根本はやはり愛ではないでしょうか
森●アマチュアの語源が「愛」、というのはご存じですか。アモーレからきている。だから、音楽を愛する人たちの団体がアマチュア。仕事をしながらでも音楽をしていたい、大好きだという人たちがアマチュア。
阿部●そうすると、プロというのは……。
森●「それで生活をたてている人」。弾いて生活をたてている人も、弾けない人を教えたりアマチュアをじょうずにしようとがんばる人たちもプロフェッショナル。でも皆さん、いまはお金儲けのうまい人、コンピュータを開発する人、そういう人たちを育てる方向にばかり進んでいるでしょう。世界じゅうがそう。
阿部●文化をつくるのはどちらでしょうか。
森●でも、文化ってなんでしょう、アートってなんでしょうね。
フランスにマクロンという大統領が現れて、「フランスの文化を守ってゆきたい」と話すスピーチを聞いたけど、彼のいう文化というのは、ちょっとちがうのですよ。たとえば馬のしっぽの毛でできているヴァイオリンの弓は、滑り止めに松脂を塗らないと音は出ないのですよ。私がつかう松脂はフランス製です。世界各地に松はあるのに、ベルナルデルという古い会社のものでしか私の求める音楽はできないのです。
葦もそうです。管楽器のクラリネット、サクソフォーン、オーボエのリードは、南仏のイエールで採れる葦でしか、よい音は出ないそうです。
阿部●科学的に分析してもわからない?
森●それが摩訶不思議なところ。
阿部●最近、ヴァナキュラーということばをつかいますが、地に足をつけた営み、地域の力。それが文化を育むのではないかと考えるのですよ。
森●土から生まれているのですよ。
阿部●ところが、グローバリゼーションは、世界を均質にしようとしている。
森●経済のことだけを考えたり、理屈だけで考えたりするとおかしくなります。私、それがわかってきた。学問もおかしくなってきているのでないですか。
阿部●専門性をないがしろにせず、感性をとりいれ、社会ときちっと切り結んだ学問が必要です。それが地球研のめざす環境学です。感性を大切にしながら、愛をもって研究に励んでゆきたいと思います。(笑)
きょうは、ありがとうございました。
(2017年6月20日 地球研にて)
* もり・あきら 1915-76年。教育哲学者。大阪大学文学部教授在任中に日本で最初の人間科学部を大阪大学に創設。大阪大学人間科学部教授として人間形成論を講じる。教育哲学会理事、日本教育学会理事、関西教育学会副会長を歴任。著書は『教育人間学』ほか。

森さんとの対談は、阿部さんたっての希望で、こもれびあふれる地球研の中庭で実現した。鳥のさえずりをBGMに、二人が織りなす時間は絶妙の間感でゆったりと流れてゆく

長岡京室内アンサンブルの練習のようす。ステージ上の演奏者たちはそれぞれ思い思いの場所に立ち、互いの音色に耳と心を澄ませて呼吸をあわせる

第1回地球研国際シンポジウムは、「水と人間生活」をテーマに2006年11月6-7日に国立京都国際会館で開催された。長岡京室内アンサンブルは、オープニングでボッケリーニの「チェロ協奏曲」を、初日のさいごにヴィヴァルディの「四季」を演奏。そのようすは地球研ニューズレター6号でも紹介した

日髙敏隆初代所長が子ども向けに書いた歌ものがたり『カエルの目だま』(福音館、2011年)。

もり・ゆうこ

あべ・けんいち
もり・ゆうこ
教育哲学者・森昭の次女。桐朋学園大学で齋藤秀雄教授に師事したのち、旧チェコスロバキア、フランスに留学し、パイヤール室内管弦楽団やフランス国立新放送管弦楽団などで活躍。帰国後、フランスの音楽教育のシステムを日本の古都で伝えるべく、1990年に京都フランス音楽アカデミーを設立。1997年に「若い音楽家の育成と実践の場」として長岡京室内アンサンブルを設立し、指揮に頼らず互いの音を聴く独自のスタイルで高い評価を受けるいっぽう、後進の教育にも力をそそぐ。フランスの芸術文化勲章「オフィシェ章」を授与されたほか受賞多数。著書に『ヴァイオリニスト――空に飛びたくて』(春秋社)がある。
あべ・けんいち
専門は環境人間学、相関地域学。地球研研究基盤国際センターコミュニケーション部門部門長・教授。2008年から地球研に在籍。