百聞一見──フィールドからの体験レポート
世界各国のさまざまな地域で調査活動に励む地球研メンバーたち。現地の風や土の匂いをかぎ、人びとの声に耳をかたむける彼らから届くレポートには、フィールド ワークならではの新鮮な驚きと発見が満ちています
精霊の宿る国ブータンの変わりゆく森と人びと
小林 舞 プロジェクト研究員
年々、私たちでも実感できるほど、気候が不安定になっている。それを一因とする山火事のニュースが、世界中で後を絶たない。インドネシア、インド、カナダ、オーストラリア。私が博士論文のための調査で何度か訪れているブータン王国も、例外ではない。乾期にあたる10月から4月にかけて、山火事のニュースが増える。今年も、ブータン北西部の国立公園で記録破りの森林火災がつづいた。
私が調査研究していた2013年から2014年は、例年以上に山火事が多い年であったらしい。ブータン北西部の町ロベサは、ヒマラヤ山脈の麓にありながら、ふだんでも、神々しい峰みねを拝むことのできる時期はかぎられている。それにしても、「最近は空気が霞んでいる」と、みんな話していた。そして、山火事が原因だという人たちが多かった。
ブータンで遭遇した山火事
ブータンの農村では、放牧の場として、あるいは、燃料や肥料、薬や食料を集める場として、日常的に森に出入りする。そうした森を火事で失うことは、一時的にせよ、人びとの生活に大きな影響を与えることだろう。それでも、私自身そうした場に直接出会って、火事に対する危機感を切実に感じたことはなかった。
ところがある日の午後、宿舎から出ると谷間を挟んだ向かいの斜面から煙が上がっていた。避難する必要はないだろうが、ずいぶん近い。周りに人はいないし、どうしようかと迷っているところに電話がかかってきた。数日前にお話をうかがった県の農林省の職員で、私が探していた彼の論文が見つかったかどうか、わざわざ確認の電話をしてくれたのだ。ちょうどよいと、向かいの森から煙が上がっていることを伝えた。彼はまだ知らなかったようで、さっそく担当者に伝えると言って、電話を切った。私はひとまず安心し、午後の作業に戻った。
雨を降らせるお祈りを
その晩、ある大学教員のお別れ会があって、1人1品ずつ食べものを持ち寄るパーティが開かれた。ブータンはお米が主食で、日本からも多くの改良品種が導入されている。基本的に赤米を好み、1食につき1合ほど、山盛りのお米を食べる。日本同様ブータンでも、食事をすることを「ご飯を食べる」と表現する。炊いたお米も食事も「ト」で、「ご飯=食事」なのだ。したがって、持ち寄りパーティに持ってくる品の大半はお米だ。テーブルの半分に白や赤のグラデーションを見せながら炊飯器が並ぶ。
パーティで私が座ったのは、たまたま森林学科の先生の隣だった。それで、その日見た山火事のことを尋ねてみた。先生は誇らしげな顔で、「火はぶじに消されました」と教えてくれた。火事が大きくなれば、大学の先生も森林学科の学生たちも出動しなければならなくなることがあるらしい。さいわい今回は、そんな事態に至らなかったという。
私は、火事を目にしたときたまたまかかってきた電話のことを話した。すると先生は、「それでは県の農林省からラマ(師、高僧)に連絡し、雨を降らせるためのお祈りをしてもらったことでしょう」と、こともなげなようすで言う。「午後に、少し雨が降ったでしょう?」そう念を押しながら、ふだんあまり冗談をいわない先生が、落ち着いた笑顔を浮かべていた。冗談なのだろうと思ってはみるものの、たしかに軽く雨が降った気配があったのを思い出す。先生のほほ笑みは、森の鬼神や精霊たちを畏れ、敬い、人と霊とが共存する文化がたしかに機能していることへの誇りからくるのだろうか。それとも、海外からきた私をからかう楽しみからくるのだろうか。あるいは、その両方だったのか。
おいそれとは理解できない世界
ブータンはいま、劇的な変化の渦中にある。農業のかたちも変化しているし、それにつれて、森とのかかわり方も変わってきている。とうぜん、森に対する人びとの思いも変わっているにちがいない。
開発が進み、農作物の増産がはかられ、性急な焼畑など人為的な理由で起こる山火事も増えているそうだ。道路がつくられ、最近まではなかったトンネルももっと掘られてゆくだろう。そんなとき、どんなふうに土地の鬼神たちのご機嫌をうかがい、どんなふうに精霊たちに承知してもらうのだろう。あるいは、そんな必要性もなくなるのだろうか。
火事の知らせに接し、県の職員はほんとうにラマに連絡したのかどうか、聞いて確かめてみることはできるし、確かめてみたい気もした。しかしいっぽう、そのことを確かめてみたくない自分がいることにも、私は気づいていた。
事実から目を背けるわけではない。しかし、事実とはなんだろう。山火事をとおしてわかる、見えない関係性の網の目もある。森が燃える煙を目にしたその日、私には容易に理解できない見えない世界を当たりまえのように語る人たちとそうして出会っていることを嬉しく思ったし、同時に、ことの真偽を確かめるのにだって、もっと深く幅広い世界観を身につけなければならないことを実感した。

煙が上がっていた斜面近辺の景色。前方には収穫前の水田が拡がっている(ロベサ近辺、2014年10月)

持ち寄りパーティのご飯。College of Natural Resources(CNR)にて
こばやし・まい
環境学と景観生態学を専攻し、環境社会学、農村社会学から多くを学んできた。2016年4月より、研究プロジェクト「持続可能な食の消費と生産を実現するライフワールドの構築:食農体系の転換にむけて」(FEAST)に在籍。