寒中見舞を出しました
中尾正義
このところ毎年のように、青春時代を分かち合ったほぼ同世代のガクユウ(岳友もしくは学友)たちが次々に彼岸へと旅立っています。
昨年春には、長崎の幼稚園から小学校、中学校、そして高校とずっと同期だったMM君が亡くなりました。彼も参加したわれわれの古希を祝う中学校の同窓同期会を開催した折に、次回は喜寿になる年にやろうという話が出ていました。しかし丁度その年には新型コロナ禍の真っ最中で、喜寿を祝う同窓同期会は延期され、コロナ禍がひと段落した昨年秋にいよいよ実施が予定されていたのです。彼は待ちきれなかったのでしょうか?その数か月前に旅立ってしまったのでした。
幼いころから、運動だけではなく勉強も得意という文武両道を兼ね備えたMM君は、クラスの女子の人気も高く嫉妬を感じるほどの友人でした。我々の中では比較的早くに奥さんを亡くされ、一人暮らしをしておられたようでしたが、やっと奥様と泉下で再会することがかなったのかもしれません。
夏には、わたしが南極へ向かう直前に、赤道祭での優勝を目指してフラダンスを教えていただいた、わたしよりも一歳年上でしかない豊田恵美子先生(映画「フラガール」で蒼井優さん演じる谷川紀美子のモデルとなった方)が亡くなられました。ずっと常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)でずっとハワイアンダンスを指導してこられた方でした。
秋には、山岳部で一期先輩のOYさんの訃報がもたらされました。OYさんで思い出されるのは、1968年12月の末から1969年の正月にかけておきた剱岳大量遭難事件のことです。その時にたまたま剱岳山頂に滞在していたOYさんのパーティーもこの遭難事件に巻き込まれたのでした。OYパーティーは最終下山日までまだ数日を残しており、食料も十分持っていたにもかかわらず、突然の豪雪に見舞われた剱岳山頂にいた別パーティーが遭難寸前ともいえる状況に陥った影響で、遭難救助の対象となったのでした。
山岳部の諸先輩では、わたしが大学に入学したての一回生の時に部に在籍していた近しい先輩諸氏の訃報が近年増えていたのですが、一期上の先輩であるOYさんの訃報は、順番がわれわれに近づいてきたなあと思わざるを得ませんでした。
昨年の暮れも押し迫った12月には、北大低温科学研究所の大学院生時代からずっとお世話になったKSさんが亡くなられたというニュースが飛び込んできました。KSさんは知り合った当時低温研の助手でしたが、その後新潟大学に移られて、わたしが新潟県長岡市にあった科学技術庁の研究所に勤務していた時代にも引き続き大変お世話になった方だったのです。
昨年届いた訃報の中の極め付きは、暮れに来た一通の欠礼状でした。甥の最愛の娘が突然亡くなったことを知りました。まだ二十歳そこそこの歳です。大学を卒業してまさにこれから豊かな人生の旅に船出しようという時だったのです。思いもかけず癌を発症し、若いだけにあっという間に旅立ってしまったということでした。甥夫婦の悲しみはいかばかりだろうかと、想像することもできません。
以上述べてきたのは、昨年中に特に衝撃を受けた訃報の一部ですが、冒頭に書きましたように、最近は特に、毎年のようにお世話になった多くの方々や友人、知人が彼岸へと旅立ったという報に接します。ご逝去された方々の中でも、わたしよりも年長の方の場合には順番だよなあと思って納得することもできますが、若い人の場合にはことのほか無常を感じます。
こうなってくると、年末にはほぼ毎年のように欠礼のご連絡をせざるを得なくなりそうです。そこで本年以降、賀状を差し控えることにしようと思い至り、上述の事情を簡単にしたためた寒中見舞を出した次第です。
寒中見舞の締めくくりには、「とはいえ、生ある限り、何らかの役割はあるはずだと気を取り直して、天災や人災が多発するわが国の現状と今後も向き合っていく所存です これまでのご厚情に感謝しつつ、引き続くお付き合いを祈念してご挨拶とさせていただきます」としたためました。
(2024年1月)