われわれの過去に学ぼう



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下に挙げる3冊の本の紹介記事です。

〈ロナルド・トビ『日本の歴史第九巻「鎖国」という外交』(小学館、2008)〉

〈杉山正明『遊牧民から見た世界史―民族も国境もこえて』(日本経済新聞社、1997)〉

〈白石典之編『チンギス・カンの戒め―モンゴル草原と地球環境問題』(同成社、2010)〉

過去を知ることの重要性  

われわれは自らの体験に基づいて様々な事柄に対応してきました。火に手をかざして熱いということを体感することによって、火は危険なものだと知るとともに、それを利用して食べ物を調理する道などを拓いてきました。また、褒められてうれしかったという自分の体験を通して、他人を褒めれば喜ばれるということに気付き、たがいに支えあう社会の構築に利用したりしてきたのです。何かを判断する、作り上げる、日々の営みをより快適なものにする、などのわれわれの思索や行動は、すべて経験に基づいて行われているといっても過言ではないでしょう。  

物事に対応するための過去の経験は、自らの経験だけのこともありますが、他人の経験を知ることによって、その幅と深みが増えます。いわば人類の経験を集大成し、それらを基礎として、自らの考えを醸成して行動を発意し、対応を求められる問題に対処するということです。

過去の経験を集積するのが歴史学と呼ばれる研究分野だと考えられています。しかし過去の人類の経験を単に寄せ集めるだけでは、今の問題を深く吟味して問題の所在を明らかにし、最適の対処方針を考える源にするには充分とはいえないでしょう。個々の事象の集合体を咀嚼して、過去のわれわれの経験を俯瞰し、歴史的認識の基準となる考え方を持つことができれば、今の問題への方策の検討に大きく貢献すると思われるからです。いわゆる歴史観を持つことが極めて大切だと思います。

しかし種々の歴史観は、時代の流れとともに様々に変化してきました。新たに見つかった過去の事象を取り込み、たゆみなく再構築していく必要があるでしょう。

歴史認識の変革  

はじめに取り上げたロナルド・トビさんの著書は、われわれの従来の歴史観に変革をもたらした書籍のひとつです。  

徳川時代には日本は諸外国との外交を絶って「鎖国」していた、とわたしは学校の歴史の時間に教わりました。対外的に閉ざされていた日本にあって、オランダや中国との窓口として、例外的に長崎だけを開いていたというのです。  

この「常識」に対してトビさんは、長崎に加えて、主として朝鮮を対象とする対馬、琉球王国に対する薩摩、ロシアを中心とする北方に対する松前という、いわゆる"四つの口"を、交易や情報収集のための窓口として、当時でも日本は"閉ざされていなかった"と主張します。「日本の政治や経済は東アジアと無縁ではいられなかった"というのです。つまりこの四か所に限定した対外交渉のあり方は、決して「鎖国」ではなく、徳川幕府が対外折衝を主体的に掌握するために戦略的に選択した外交政策であるという主張です。  

この考え方は、2008年に公開された千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館の新展示にも生かされています。また、2011年の1月に久しぶりに訪れたロンドンの大英博物館の日本展示室でも、この考え方のもとに展示が一新されていました。「江戸時代は必ずしも鎖国の時代といえない」という見解が歴史研究者の間では主流になっているとのことです。しかしながら、まだ一般にはその見解が浸透していないと思われます。  

最後にトビさんは、『古事記』や『日本書記』に由来する神功皇后の「三韓征伐」神話などに影響されたと思われる明治時代の「征韓論」に言及して、日本と朝鮮との関係についても語っています。お隣の韓国や北朝鮮の人々とわれわれはどう付き合えば良いのか、という現代の問題を考えるためにも欠かすことのできない書籍ではないでしょうか。

西欧的歴史観からの脱却  

日本は海に囲まれた島国なので、「国境」は確定しているという印象があります。しかしその日本の領域も、認識の主体者によって、そして時代とともに変化してきた、とトビさんの本に述べられています。ましてや、海岸線というわかりやすい境界を持たないユーラシア大陸の内陸部に暮らす人々にとっては、自分たちの領域を規定するのがさらに難しいようです。二番目に取り上げた杉山さんの著書の副題に、「民族も国境もこえて」とあるのがそのことを暗示させます。  

「遊牧民」とは、文字通り、「ヒツジやヤギ、ウシ、ウマ、ラクダなどの家畜群を管理し飼育しながら、(天然の)草を追って一年を移動のなかですごす」遊牧という生活様式、いわば文化を生みだして生きてきた人々です。  

遊牧民は移動を旨とします。たとえば、たまたま劣悪な気候のためにある場所の草原がダメージを受けても、被害を受けていない草原へ移動して動物を養えば良いのです。移動という手段が、一種の災害対策という側面も持つことになります。そういう意味では、一か所に住処を固定するという定住生活は、遊牧という文化に最もそぐわない生活様式だということになります。  

しかし杉山さんによれば、その生活様式は「極端な余剰生産をもたらさない」し、「日用の生活必需品から、農業生産物、さらに各種の戦具まで、完全に自給自足することはできない。それだけでは、存立できない経済生活である」とのこと。もっとも、後述するモンゴル帝国の遺跡を調査した白石さんの著書によれば、限定的にしろ、モンゴル帝国時代のモンゴル高原でも農業がおこなわれていたようです。ともあれ、完全な自給ができないために、「遊牧民は、都市や集落を必要とする」ことになります。自給できない物資を手に入れるためです。  

著書の中で杉山さんは、わたしたちが学校で習ったいわゆる世界史は、西欧的ないわば定住民中心の世界史だと指摘します。そしてその歴史観は、「近代西欧の価値観、国家観、文明観が無上のものとされた」なごりではないかと考えます。その中で、遊牧という生活形態は、いわゆる「文明圏」から見れば遅れた文化だと考えられがちだったとのこと。しかし「これまでの(西欧的な)歴史像・文明像のゆがみをあぶりだそうとする時、おそらくは中央ユーラシア遊牧民の歴史は、有力なひとつの視座となるかもしれない。近代世界においては、最も「国家」というものに背馳するマージナルな存在とされた遊牧民が、じつはかつて人類史をささえ、「国家」というものについても最大のにない手であったというきわめて挑戦的な野心作です。  

「過去に学ぶ」とは  

先に、「過去の経験を集積するのが歴史学と呼ばれる研究分野だと考えられています」と書きました。しかし多くの場合、残されている過去の歴史文書の情報だけをもとにする、いわゆる文献史学と呼ばれる分野を歴史学と混同しているのではないでしょうか。過去の歴史は文字に書き遺されているとは限らないのです。  

歴史学とは本来、今までたどってきた人間の歴史を明らかにすることであるはずです。明らかにするための手段の一つが、歴史文書に眠っている情報を利用するという特定のやり方であるに過ぎません。得られるそれ以外の情報を総動員して総合化することによって、最も確からしいわれわれの歴史を復元するべきなのです。つまり歴史学とはもともと総合学問であって、古の文字を解読し、その意味を理解するというひとつの技術を持った文書読みが独占する分野ではないでしょう。  

まして、現代の最も喫緊の課題である環境問題の解決を目指して過去を学ぶためには、人類と自然との相互作用の歴史を知る必要がでてきます。しかし、環境との相互作用が書かれている歴史文書は極めて限定的です。したがって、問題の原因を考え、その解決に向けた道筋を描くには、人間の活動にかかわる学問群と環境変化にかかわる学問群とが協働して相互作用の歴史を知ることが肝要なのです。  

三番目に挙げた白石さんの本で述べられているのは、モンゴルにおける最近の環境問題を、自然科学を中心とした狭い意味の環境研究に限らず、人間の活動をも考慮して総合的に理解しようとした調査研究の成果です。カバーする学問領域は、気候学や水文学、生態学、地理学、人類学、考古学を含み、広い意味の歴史研究としての視点を持っています。

しかし、多種多様な研究者が集まって、それぞれの学問分野に応じた取り組みをするだけでは環境問題の解決に向けた道筋を描くことは難しいでしょう。ではどうすればよいのでしょうか。編者である白石さんは「温故知新の環境問題」だといいます。つまり、歴史的に生じた類似の時代を明らかにすることによって、今われわれはどうすればよいかというヒントを得よう、というのです。  

解決に向けて白石さんが主張しているのは、草原が本来備えているはずのパワーである「草原力」の持つ可能性を信じ、長い歴史的な時間をかけて培われた遊牧民の知恵が結実した「遊牧知」を生かそうではないか、ということです。タイトルにあるチンギス・カンの戒めとは、「草原を荒らすな」「川や湖の水を汚すな」という「一見何の変哲もない言葉にすぎない」とのこと。しかし時代がさがった清代に書かれたという「ト・ワンの教え」によって、そのチンギス・カンの戒めである「遊牧知」の心を慮ることができるかもしれません。ト・ワンとは、19世紀初めから中ごろにかけて活躍したモンゴル王族のひとりです。  

「ト・ワンの教え」でわたしが注目したいのは、狭い意味での遊牧知、つまり遊牧のノウハウが語られているだけではないということです。白石さんの本では遊牧生活の知恵を中心に紹介されていますが、父母への孝行や礼儀を尽くせ、あるいは年長者を立てよ、和を尊っとべ、などといった教えや、倹約・節約の勧めなどが力を込めて記されています。倹約の勧めなどは、環境対策のひとつとして「もったいない」という日本語が世界的ブームになりはじめていることと相通じるものがあります。「吾唯足るを知る」の精神ともいえるでしょう。

つくばい

「吾唯足るを知る」 京都、竜安寺のつくばい

こう考えると、まだ新たな歴史観の構築への道のりは遠いとはいえ、この本は倫理や宗教の世界をも巻き込んで、まさに総合的な学問の体系創りの第一歩を踏み出した書であるといえるかもしれないのです。

(『アジアの〈教養〉を考える』 勉誠出版(2012年)より)  

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