地球の温暖化
1970年代に認識されてきたいわゆる地球環境問題は、1980年代になると広く一般の人々にも知られるようになってきた。その契機となったのは、地球温暖化問題である。
産業革命以降、急速に伸びてきた化石燃料の消費によって大気中の二酸化炭素に代表される温室効果気体濃度が増加してきたという。化石燃料の大量消費による急激な二酸化炭素などの大気への放出は、今まで、主として北半球に位置する先進工業国による。しかし地球を取り巻く大気は世界中つながっており、大気の大循環を通して、排出された温室効果気体は地域を越えて世界中に拡散する。化石燃料の消費による温室効果気体の放出とはほとんど無縁な南極上空の大気中でも、その濃度は、他の地域とほとんど変りがないスピードで増加してきている。
温室効果気体濃度の増加は、地球上の平均気温の上昇を招いてきた。そして今後も、今まで以上のスピードで増加するであろうという予測されている。その結果として、極域にある氷河や氷床などの陸氷と呼ばれる氷の塊の融解を促進してきたとされる。陸氷の融解水は海へと流れ込み、結果として海水の量を増加させる。世界中の海は海洋の大循環などを通じてつながっており、海水量の増加は、当然ながら、世界中の沿岸部で海水位の上昇を招くという警告であった。
海水位の上昇は、大洋に浮かぶ島嶼に限らず、バングラデッシュに代表されるような標高の低い大陸部の水没につながる。沿岸に立地する世界の大都市の多くが、水没しないまでも、未曾有の被害に見舞われるであろうことは想像に難くない。海水位の上昇は、世界を巻き込む大災害につながる可能性が高いのである。
もっとも上述した温暖化問題の当初の論調は、その後の研究で幾分修正されてはいる。たとえば、融解が促進されて海水位の上昇に貢献するのは、極域の氷床というよりは世界の高山に分布する山岳氷河であること(最近はグリーンランド氷床融解の貢献もかなりあることが指摘されるようになってきた)。また、海水位の上昇の6割程度は海水温の上昇による海水の熱膨張であり、陸氷の融解による海水量の増加は4割程度であること、などである。しかし、化石燃料の放出による温室効果気体濃度の増加に起因する地球上の平均気温の上昇と、そのことによる海水位の上昇というシナリオには大きな違いはない。
つまり、地球温暖化問題は、世界を巻き込む大問題を引き起こす可能性が高いことから地球環境問題として認識されたのである。地球の温暖化は、最近では、海水位の上昇にとどまらず、異常気象現象の頻発にもつながると考えられてきている。しかも、温暖化によって永久凍土の融解が促進され、そのことに起因して温室効果気体の一種であるメタンガスの濃度がますます増加しそうだという。同様に、温暖化による北極の海氷の融解も加速され、海水面が広がることによって太陽エネルギーの吸収が増加、つまり温暖化がますます加速されるとされている。これらはともに、温暖化に正のフィードバックが働くということである。このように、地球温暖化はどんどん加速するであろうと考えられている。
この温暖化によって、世界の?生分布も影響を受けると考えられている。自然?生に限らず、世界各地の農業生産物も従来の生産物を従来のやり方で生産することが困難になる可能性も指摘されている。農業生産物に限らず、海洋資源の生産への影響も懸念されている。このように、地球の温暖化は広範囲にわたるその影響の大きさが次々に指摘され、人類の生存を脅かす脅威として認識されるにいたっているのである。
広がりを見せる地球環境問題
この地球温暖化問題に加えて、乾燥地域における砂漠化の進行や世界各所で問題になってきた海洋汚染、二酸化炭素の吸収機能があるとされる森林が消失しつつあること、さらに生物多様性の消失などもまた、オゾンホールの出現などと並んで、地球環境問題として問題視されてくるようになってきた。
1982年から1983年にかけて初めてオゾンホールの出現が確認されたのは南極である。しかしその原因とされたのは南極ではなく、これまた主として北半球の先進国から大気中に放出されてきたフロンガス(CFCs)であるという。天然には存在しないまさに人間が作り出したフロンガスというものが、温暖化の原因にひとつであるだけではなく、成層圏にあるオゾン層の破壊を招き、そのために人体に有害な太陽からの紫外線強度を増加させて人体に被害をもたらすことが懸念されたのである。これもまた、原因の発生源周辺だけではなく、その結果が広く地球上に拡大する地球環境問題として認識された。
海洋汚染もまた、その汚染の源はある意味では限られた場所であっても、海洋の流れに乗り、その汚染は世界中に広がると考えられる。しかしながら、森林の消失や砂漠化の進行、さらに生物多様性の消失などとなれば、これらは一種の地域的な問題ではないかとも考えられる。にもかかわらず、これらもまた地球環境問題として、最優先して対策を講じる必要があるとされてきた。それはなぜなのだろうか。
グロバリゼーションの波
それは世界中の様々な人間の活動が相互に緊密に依存しあい、影響しあうようになってきたからに他ならない。
古来、人間は自らの地域で自らが採取し生産した食料を摂取することによってその生命をつないできた。まさに地元の食料を地元で消費する、いわば地産地消という行為を行ってきたのである。自給自足ともいえるその生き様では、他の地域への影響もなければ、他の地域から影響を受けることもほとんどなかったはずである。
しかし次第にその活動範囲を拡大するにつれて、人々は、自らは生産することができないものを手に入れ、その恩恵を享受するようになってきた。言い換えれば、自らが必要とするものを生み出してくれる、自らが暮らしている地域とは別の地域に依存するようになってきたのである。
昨今では、網の目のように張り巡らされたグローバル経済の恩恵によって、見たこともなかった果物を口にし、手に取ったこともなかった衣装を身につけ、考えもしなかった音楽を楽しむという日常である。しかも、かつては自らが生産/消費していた食料をも、他の地域で生産してもらうことによって、自らが生産するよりもはるかに安価に入手して消費することができるようになってきたのである。このことは、人間が自らの生存を、自らが暮らす地域だけではなく、これらの生産物の生産地にも強く依存するようになったということもできる。輸送される食料の重さにその輸送距離をかけたフードマイレージは、いまや増加の一途をたどっているといわれる。
食料にとどまらず、エネルギー資源、森林資源などの一次生産物に加えて、各種工業製品などいわゆるモノの移動は、カネの移動を伴いつつ、活発な貿易活動として世界各地が地球規模でネットワーク化されるようになってきている。
しかもことはモノの移動にとどまらない。最近のグローバル化で従来と格段に違うのは情報の流通である。世界各地のニュース映像を居ながらにして瞬時に見ることができるようになった。インターネットを通した情報の発信や交換は、かつては考えられないスピードで情報が世界中を飛び交うようになってきた。 情報のグローバル化に加えて、あるいはそれゆえに、いわば人々の考え方、概念や価値観というものもまた、世界規模で広がりを見せ始めている。たとえば、貨幣経済と呼ばれる一種の現金至上主義のような考え方が、現金の授受が日常生活ではきわめて限られているような地域でも闊歩し始めてきたのである。 これらのことが、一見地域の問題と思える事象が他の地域に拡散し、地球規模の問題へと広がりを見せる根源であると考えることができよう。
砂漠化の例
乾燥・半乾燥地域の多くで、砂漠化が問題になって久しい。当初は、主としてエネルギー源を木材の燃焼に頼る現地住民による森林の伐採が槍玉に挙げられていた。そのためもあって、緑のダムとも呼ばれる森林の回復を目指す人の手によって木の育成活動に焦点が当てられていた。まさに地域環境の問題として捉えられていたのである。しかし砂漠化の進行が上記のような単純な問題ではないことが次第に明らかになるにつれて、地球環境問題のひとつとして認識されるようになってきている。
砂漠化は様々の事象が複雑に組み合わさったものではあるが、あえて単純にいえば、水問題と切っても切れない関係にある。
古来行なわれてきた乾燥・半乾燥地域の天水農業は、気候変動とりわけ降水量の減少によって大きなダメージをこうむる。このため人間は様々な工夫を重ねてきた。そのひとつが灌漑システムの構築である。常に水がある河川や地下水から水を引いてくることによって、降水量の変動に左右されずに安定して食料生産を行なうことができるようになったのである。河川や地下水などの水源が安定していないところでは、人工的な水源としてダムの建設を推進することによって、灌漑システムをさらに安定したものへと変えることに成功した。
しかしながら、こうして人間が水をコントロールできるようになるにつれて、どのようにコントロールすればよいかという問題が新たに出てくる。水の分配という問題が重要になってきたのである。あるところで多量に水を使えば、そこよりも下流域には水がいきわたらなくなる。河川が最下流まで到達しないうちに消えてしまうという現象が頻発してくる。ひところ騒がれた黄河の断流も、多分にこの分配のあり方に起因する。人為的に建設したダムでも同様の問題を避けては通れない。ダムの功罪という言葉にはそういう意味もあろう。つまり水の分配と砂漠化が問題になってきたのである。
さらに水の分配だけではなく、水枯渇に対応するための社会的なあるいは経済的なシステムの欠如もまた問題になってきた。社会システムのレジリアンス(回復あるいは修復をすることができる能力)が問われるようになってきたのである。したがって、従来は自然変動と考えられる降水量の減少によって生じたとされていた旱魃も、上記の捕らえ方をすれば、人と自然の相互作用としての旱魃といえるようになってきた。
砂漠化が急速に進行している中国では、その対策として様々な政策を打ち出している。中国の環境政策のひとつに、悪化する環境を回復・保全するための退耕環林や退耕環草などの政策と並んで、住民を半ば強制的に移住させる生態移民と呼ばれる政策がある。この政策は2000年代初期から実施に移されたが、その結果として、様々な問題を新たに生み出していることが明らかになってきた。そのひとつに、移住した(させられた)人々の転職先の問題がある。とりわけ、彼らが都市に移り住み、一種の都市化問題にも一役買いそうだということが挙げられる。つまりある地域で生じた環境問題への対策としての人の移動が、思いもかけず都市への移動を促進するという、地域を越える現象を引き起こしつつある点である。
そもそも乾燥・半乾燥地域の水分配が引き起こす砂漠化は、食料増産という目的のために、食料生産の中心となる農業に水を重点的に配分したいという意図がその背後にある。しかも、悪化する環境を保全・回復するためにも水を分配しなければならないという、新たに生まれた水需要への対応もしなければいけないという局面に立たされているのである。
増産を目指す農業生産の様相も、昨今の貨幣経済の浸透によって変貌してきている。従来はいわゆる糧食作物を中心として行なわれてきた農業から、いわゆる現金作物(換金作物)への転換が図られてきているのである。具体的には、小麦やトウモロコシの栽培は減少して綿花や野菜などが代替の主要作物になってきたのだ。このため、従来の河川水の灌漑システムの利用よりも灌漑の頻度や水利用量に自由度が大きい地下水灌漑システムへと人々はその依存度を高め、ますます水の枯渇を助長するという結果を招いている。地域の草や木々の回復に用いるための水の分配量を増やすという政策も、トータルとして水が足りないという現象を加速させることに繋がっている。
上記の水問題が典型的に生じている中国では、この問題の根本的解決は、中国が食料を外国から輸入すれば良いともいう。食料生産に水を使う必要がなくなれば、そのぶんの水をすべて環境のために使うことができるからだ。
しかし食料を輸入するということは、その食料を生産するために使われた水を仮想的に輸入することになるという(バーチャルウォーター)。したがって、食料を生産する輸出元の地域で水問題が生じれば、そのことは食料の輸出先である地域の食料問題に直結する。食料の流通が地球規模でネットワーク化されているからこそ、一つの地域の問題が地球規模の問題へと変化するのである。かくして、地域問題と思われる砂漠化も地球環境問題へと拡大していくのである。
そういう意味では、きわめて小さな地域の代表ともいえる島嶼などの場合でもその固有性や脆弱性もまた、広く地球規模の現象と無縁ではなくなるのである。
越境問題と多様性の喪失
砂漠化がもたらすものは水問題に限らない。砂漠化の進行は地表面から巻き上げられた土壌粒子の飛散現象を生み出し、ダストストームの発生と被害という問題とも関わっている。中国などの乾燥地帯から発生した黄砂粒子は、大気中で変質しつつ大気の流れに従って国境を越え、海を越えて、わが国にまで飛来することは衆知の事実である。
大気中を浮遊する多量のダスト粒子は、人の健康に悪影響を与えることに加えて、航空機の離発着への障害となり、また車社会の流通を阻害する交通渋滞に直結する。北京やソウルなどでは、前世紀末から今世紀初頭にかけて頻発したダストストームによって多大な被害が生じたことも記憶に新しい。黄砂現象は春の風物詩とかつてはいわれていたわが国でさえ、最近では人体被害が懸念され始めるようになってきた。このように、ダスト粒子の供給源である乾燥域での環境問題は、ダスト粒子の物理的移動によって、境界を越え、地域を越えてその影響を広げる。
風に乗って越境するのはダスト粒子に限らない。越境大気汚染の生態系影響が懸念されているのは、様々な汚染物質もまた地域を越えて拡散するからである。前節で述べたように種々の温室効果気体やフロンガスも越境するし、NOxと呼ばれる気体も越境する。最近ではPM2.5と呼ばれる微小粒子の人体への影響が強く危惧されている。
古くから越境する代表格は渡り鳥であろう。鳥によっては、2000キロから4000キロを超えて季節移動するものもいる。最近問題になった鳥インフルエンザの流行は、これら渡り鳥によって媒介されたのではないかと考えられている。しかし考えてみれば、渡り鳥の季節移動は、古より続いていたものである。なぜそれが今になって問題視されるようになったのであろうか。単に渡り鳥によるウイルスの運搬だけが問題ではなさそうである。ウイルスの存在に加えて、家禽の飼い方などの変化によって発症しやすくなったのではないかという考え方もある。情報網の発達が世界各地で似たような飼育方法を採用するようになったためである可能性もある。
これらは大気を通して物質が越境する例だが、水を通じた越境もある。たとえば、オホーツク海という豊かな海域の形成には、アムール河からもたらされる錯体の鉄成分が重要な役割を果たしているのではないかと指摘されている。河川の上流部からもたらされるものによって、その河が流れ込む海域の豊かな魚資源が培われているという魚付林の考え方に倣えば、上記のアムール河のケースは鉄循環による巨大な魚付林とでもいうことができよう。
人為的な越境の代表例は貿易活動であろう。先年コイヘルペスウイルスがわが国各地で確認された。再発を防止するための水際活動として、金魚などの輸入時の検査が強化されるという。しかし、渡り鳥のところでも述べたように、ことはウイルスだけの問題だろうか。コイヘルペスウイルス病の発症の原因は他にもあるかもしれない。つまり、同じ問題がウイルスの物理的移動のように因果関係を持って越境する場合もあるが、同じ症状が相互に因果関係を持って繋がっていなくても、世界各地で同時に頻発するケースもありそうである。
コイヘルペスに限らず、ヒトの病気のグローバル化も危惧されている。また、本来は地域の問題であるはずの水の水質問題のグローバル化も問題視されている。これらには、人の自然とのかかわり方、人の生き様のグローバル化が関係していそうである。つまり、人と自然のかかわり方のようなものが越境することによって、地域による多様性が失われてきているためではなかろうか。このことには、情報のグローバル化もまた一役買っている可能性が高いのである。たとえば、農業濁水問題などの問題に対処するために、流域の管理システムとして階層化された流域管理システムというものが提案されている。このような場合でも、つまり、ひとつの流域のガバナンスを考えるときでも、その流域だけに閉じて考えることなく、その流域外とのかかわりをも含めて検討することが重要な時代なのである。環境アセスメントを行なう場合にも、対象とする開発など事業の影響を、対象地域外との関係をも含めて評価することが必用となる。対象となる地域の外の世界との相互作用を注意深く考慮の対象に含める必要があるということである。
人の生き方が国際化したということは、どの地域でも暮らしぶりが似てきたということである。つまり国際化と文化多様性の喪失とが深く繋がっているということに他ならない。この代表例として、危機に瀕している言語多様性という言い方もされる。言語に限らず、環境変動と宗教もまた関連しているともいう。人の心の持ちようにかかわる宗教の多様性が、国際化によってどのように変化しているのかもまた、注視する必要があろう。
はじめに少し触れたように、地球温暖化と生態系との関わり、あるいは生態系レジリアンスと生物多様性との関わりも問題視されている。前述したように、一種の生態系である耕作システムもまた影響を受けるであろう。しかも単に環境変動と耕作システムとの関係だけではなく、世界各地で展開された緑の革命の申し子でもある作物の多様性の喪失は、救荒作物の喪失とも繋がっているのである。
地域と地球
今まで述べてきたように、地球環境問題と呼ばれている現象や状況に関しては、その原因や帰結、もしくは目に見える形で出現して人に上都合をもたらすいわゆる問題は、複雑多岐にわたっている。当然ながら従来分化してきた個々の学問領域のひとつで対処することはできない。人文、社会、自然にかかわるすべてといってもいいほどの事象と関係しているからである。したがって、すべての専門学問分野の総力を挙げて取り組む必要がある。
研究対象あるいは解明しようとしている事柄そのものにしたがって方法論を選び、できることをするのではなく、するべきことをしなければならないのである。このようなアプローチは、近ごろ地域研究といわれる研究の進め方と類似しているように思える。
当時は地域研究と呼ばれていなかっただろうが、地域研究的な取り組みは、しょく民ん地支配が始まった頃にさかのぼれるのではなかろうか。わが国の場合には、中国東北部からモンゴルにかける地域に満州帝国の建国と相前後する第二次世界大戦以前の頃である。
支配しようとする地域の自然や社会システム、民族構成や習慣、宗教など民情に関するまさに多種多様な情報は、その地をどのように統治しようかと考えるときには欠くべからざる情報である。単なる統計値だけではなく、日ごろ何を食べているのか、家族の構成や日常生活などまさに人の生活に根ざした知識も必要となる。当然、その地の人が周囲の自然とどのように付き合っているのか、またそれは歴史的にどのように変化してきたのかなど、動的な情報をも得たい。これらの情報を得るための研究として、当時の満鉄の調査部などによる研究活動のそれは、一種の政策研究としてまさに「地域研究」であったといえなくもなかろう。
第二次大戦後、わが国では海外学術調査が活発に行なわれた。自由に海外渡航ができない時代にあって、登山や探検という機会を捉えて、複数の学問分野に根ざした調査活動を組み合わせた学術調査活動である。対象となる地域の種々の属性を、様々な研究分野の専門家がそれぞれのやり方で調査、解明してきた。しかしそれら複数の学問分野が有機的に結合していたかと問われれば、特に初期は、それほどでもなかったといえなくもない。しかし、従来の政策研究的な匂いの残るアメリカ流のエリア・スタディーとは一線を画していたようだ。しかしながら、ともに、個々の学問領域にとらわれず、地域に根ざしたトータルな、有機的な理解を目指す方向へと時間的に変化したという点では共通しているようである。
地域研究が地球的な広がりを持ってきつつある。その主たる理由は、特定の地域だけを見ていては、その特定の地域さえわからないという反省があると思われる。真にわかったかどうかは別としても、外国に行って初めて日本がわかったという経験を持つ人は多いであろう。比較を通して、対象をより鮮明に認識することができるということである。
地球環境問題といえども個々の問題が生じるのはそれぞれの地域である。したがって、個々の地域での問題を理解することは必要条件となる。そういう意味では地球環境問題への取り組みは一種の地域研究といえるかもしれない。しかし上述してきたように、各地域の現象はその地域に起因するだけではなく、地球上の他の地域から大きく影響されている。同時に、その地域の現象が地球上の他の地域に大きく影響を与えている。それらの総体として現在の地球全体としての環境が存在しているのである。
したがって、地球環境問題において地球を意識する必要性は、地域研究のいう、特定の地域の特徴をより鮮明に理解するためということに加えて、以下に述べる意味合いがあると考える。
人は地域に根ざして暮らしている。朝夕挨拶を交わす近隣の人、日ごろ買い物をする店の主人、生活の糧を得るために接する人々。毎日目にする田や畑、山の木々や草花、付近の小川やそこで泳ぐ小魚など、「ふるさと」の歌に出てくるような情景である。古くは、人々は「ふるさと」に依拠して暮らしていた。周りにあるのは、良く知った人々であり慣れ親しんでいる習慣、見慣れた自然である。その世界で衣食住すべてが済んでいた。
時代とともにその世界が広がる。「ふるさと」自身が拡大するとともに、外の世界との接触によって、見知らぬ人々、驚くような習慣、見たこともない自然とのかかわりが増え、そのことがまた自らの世界を拡大させてきた。精神的にも物理的にも未知のものへの依存度が、時代とともに高まってくる。
身近な世界に何らかの問題が生じたときに、外の世界を利用すれば比較的簡単に解決できるという知恵もついてきた。もちろん自らの世界を見直すという解決手段もあったに違いないが、自らの地にはない異質なモノや異文化の知恵を利用するという武器によって、解決に直結してきたことが多かったのではなかろうか。かくして、われわれの世界は拡大の一途をたどってきた。そしていまや、「ふるさと」は地球と呼ばれる天体全体となったのである。
地球全体にまで広がったわれわれの世界は、もはや外の世界を持たない。もちろん月という衛星や火星や木星、土星といった惑星、さらには他の恒星へと世界を広げる可能性は残ってはいる。しかし、地球環境問題というある程度限られた時間内での解決を迫られている問題に対処するためには、これらの天体の利用は間に合わないと考えてよかろう。
つまり、地球環境問題の解決を目指すには、かかわる世界を拡大することによって解決するという、われわれ人類が今まで成功を収めてきたやり方ではなく、自らの世界の内部を見直すというやり方に限定されているという点が、従来とは大きく異なる。われわれの世界が地球いっぱいに広がった今になってはじめて、地球環境問題が、少なくともわれわれに認識されるようになったことと無縁ではなかろう。グローバル・コモンズとその持続的管理が問題になるゆえんである。
だからこそ、環境容量という概念が生まれるのと相前後して、地球の限界という指摘もされるようになってきた。自らの世界を広げるという手法に頼って問題を解決してきたわれわれではあるが、このことは内部を見直すチャンスだと考えればよいのではないだろうか。そういう意味では、地域を見直そうという昨今の風潮もまたむべなるかな、と思われる。
地域には様々なレベルがある。上で述べた「ふるさと」レベルから、ひとつの地理的なまとまりとしての地域。たとえばあるひとつの谷全体などである。さらに、市、町、村というような行政単位、さらに地域区分として現在最もよく使われる国あるいは国家という単位、さらには東南アジアのような緩やかな区分、ユーラシアというようなさらに広い地域などである。
しかし考えてみれば、確定された国境を持つ国という地域には、いかにも曖昧さがないと考えられがちだが、時代とともにその概念や範囲は変化してきた。地理的に確定できる国境を持たないような国家もあれば、人の集団あるいはその活動範囲としての国という概念が主流であった頃もある。人も「国境」を自由に越えて往来する。そういう意味では、特別な場合を別にすれば、あるレベルの地域といえどもその境は緩やかに考えるほうが良かろう。たとえば「中国」の場合でも、現在の中華人民共和国の国境が確定してからまだ日も浅く(たとえばまだインドとは国境の線引きで合意されていない)、現在の領土を中心とする「あの辺り」という捉え方をしたほうが、より柔軟に物事を考えることができよう。
様々なレベルの地域の中で、より広い地域を概念として、あるいは意思主体としてまとめようとする動きは、人の感性とは別のところにある場合が多い。相容れがたいといっても良いかもしれない。日ごろ接する身近な人や自然は自らと一体感があるが、会ったこともない人や見たこともない場所と一体感を持つのはある意味では困難である。そのために、人の日常的な近く範囲よりも広い地域との一体感をもとめる行為には、いわば理性というフィルターを通るのみならず、一種の強制力を伴いがちである。たとえば日本という国家と一体感を持つために、愛国心の涵養などという働きかけもあれば、より広く、アジアはみな同胞などというキャッチフレーズも作られる。そして、これらの標語などには一種のハイカラな匂いがする。日本を考えるときに、その一部に過ぎない地方の事情を斟酌することには、意図的かどうかは別にして、なにかしら「ださい」という雰囲気がかもしだされる。
地球全体で対処しなくてはならないといわれている地球環境問題に対して、一国の事情を盾にして、協力しないことはありえない、という論理である。われわれみな地球市民というわけである。 江戸時代にわが国が各藩に別れていた頃には、それらをまとめた日本という概念は一種のハイカラな考えのように思えたようである。しかしいまや、地球市民という見方に対して、何々国の国民という意識、いわばナショナリズムは、上述したように、時代の流れに逆行するような印象を与える。しかし、たとえば温室効果気体の排出量の国際調整は、まさに国家間の利害の調整とも取れる。本音と建前とのはざまでゆれている。
同時に、地球環境問題のひとつである多様性の喪失に対する危機感から派生した、文化の多様性を保全したいという願望は、なぜか上記の地球市民という認識と共存しているようにも見受けられる。 地域と地球とは簡単に折り合いがつくとは思えない。地球を一体として認識するときの価値観と、地域としての価値観との接点を、われわれ常に考え続けなければならないだろう。
(地球研ワーキングペーパー(2008)を微修正)