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折居(おりい)

中尾正義

大学生生活もまる2年が過ぎようとしていた1967年の春、わたしは山岳部2回生の春山登山の対象として、鳥取県にある大山を選びました。これまで父や姉に連れられて何度か長崎から東京に行ったことはあったのですが、利用した列車はすべて山陽線経由でした。また、受験のための上洛や故郷を離れて学生生活を送るために京都に移り住んだときの列車も山陽線を走るものばかりでした。山陰地方はついぞ訪れたことがなかったのです。この年に生まれて初めてわたしは山陰地方に足を踏み入れました。

天候にも恵まれて、大山登山は比較的短期間で無事に終了しました。リーダーのBCさん他わたし以外のメンバーは京都へと戻っていきました。山陰地方を初めて訪れたわたしとしては、春休みを利用してこの機会に山陰地方を見物しながらのんびり故郷の長崎へ帰郷しようと考えたのでした。米子駅で他のメンバーと別れて、わたしは彼らとは全く逆向きの下関方面へと向かう普通列車に乗り込みました。

しばらく列車に揺られているうちに、初めて見る宍道湖の景色を楽しむこともできました。やがて列車は島根県の中心である松江に着きます。ここで途中下車して松江城を訪れ、駅前の食堂で早めの夕食をとってから、引き続き西へと向かう普通列車に乗り込みました。初めて見る日本海の景色を車窓から眺めているうちにいつの間にか夕闇が迫ってきました。どこかで下車して民宿にでも泊まろうかと考えているうちに「間もなくー、ハマダー、ハマダー」という列車のアナウンスが聞こえました。程なく島根県西部の中核都市、浜田に着くようでした。

その頃山岳部では、山の中でラジオの短波放送で早朝5時頃に流される天気概況の放送を聞いては天気図を描くのが常でした。日本各地の測候所での気温、気圧、風向、風速などの毎日の実測データが速報として放送されていたからです。それらのデータを使って、白紙の地図に天気図を描き、それをもとに当日の天気を予想しては、その日にキャンプ地を発って予定の行程を進むか、キャンプ地に留まって停滞するかなど、当日の行動予定を決めていたのです。短波放送で流されていた気象観測点の中にあった、数少ない高層データ観測点のひとつだった浜田という気象観測地点は強く記憶に残っていました。あの浜田に来たのだと感無量でした。

感慨にふけっているうちに列車は浜田駅を出発していました。もう夜の8時を過ぎていて窓の外はすっかり闇に包まれています。事前の下調べなど全くなしに列車に揺られていたわたしです。どこかで降りようと思ってはいたのですが、どこというあてもありません。

そんな時に「間もなくオリイー、オリイー」という列車のアナウンスが流れました。わたしには「降りい!降りい!」と聞こえたのです。アナウンスの「降りい!」という指示に従って降りるのも一興かもしれないと思い、次の駅で列車を降りました。折居という小さな駅でした。

小屋のような小さな駅舎を出て鉄道に並行して走っている幹線道路とおぼしい道を、宿を探しながら30分ほど歩きました。道沿いにポツンポツンと人家の黒い影は見えますが、どの家にも灯りらしきものは見えず、すっかり寝静まっている感じでした。宿らしい建物など全くなく、そのうちに人家の陰さえなくなりました。今夜をどう過ごそうかと途方に暮れました。駅舎の中なら夜露をしのぐことくらいできるかもしれないと、今来た道を駅まで戻ったのですが、既に駅舎の入り口はしっかりと鍵がかけられていて、中に入ることができません。わたしが降りた列車がこのあたりの最終列車だったのかもしれません。

雪こそ積もっていませんでしたが、春とはいえかなりの寒さです。どこか寝られる場所を探そうと、わたしは幹線道路を離れて海とは反対の方向に伸びる農道とおぼしき脇道に入り込みました。道の両側には田んぼが拡がっています。秋に米を収穫したらしく、田のあちこちにこんもりと積み上げられた稲藁の山がありました。有り難い。1メートル程に積み上げてある稲藁の山の中に頭だけを出して潜り込みました。藁山の中はぽかぽかしていてとても暖かく、いつの間にか眠ってしまいました。

犬の鳴き声で目が覚めました。鳴き声はどんどん近づいてきます。とうとうわたしの頭のすぐ傍にやって来ました。このまま寝ていて頭にかみつかれでもしたら大変です。あわてて藁山から抜け出て立ち上がりました。吠えている柴犬のような小型犬の横に人影がありました。40〜50代の農家の男の人のようです。

「こんなところで何をしてるんだ!」咎めるようにその人は声をかけてきました。「すみません。あまりにも寒くて寝るところがないもんで、藁の中で寝ていました。」と答えると、「ついて来い!」とのこと。

言われたように、その人について一軒の農家に向かいました。(あー有り難い。きっとこの人の家に連れて行ってくれるんだ。なにか食べさせてくれるかもしれない。ひょっとしたら風呂にも入れてもらえるかもしれない)などと思いました。中学生や高校生の時に行った徒歩旅行や無銭旅行の途中で、地元の人たちに頂いた数々のご親切を思い出したのです。地獄で仏に会った心境でした。

その人の家らしい農家の入口を入ると、そこは広い土間になっていました。畳が敷いてある屋内や土間からの上がり框(かまち)に全部で10人ほどの人が集まっていました。(どうしてこんなにたくさんの人が集まっているのだろう?)突然やって来たわたしを歓迎するためとは思えません。

その中の一人が警察の者だと言いました。わたしのなまえ、住所、年齢など、尋問とも思える質問を次々にしてきます。暖かかった藁山を出たばかりのためか、わたしは寒さでぶるぶる震えながら様々な質問に答えました。何となくわかってきたのは、警察の人を含めこんなに人が集まっているのは、先ほどこの家に泥棒が入ったかららしいということでした。外に逃げた泥棒の行方を追っているうちに、田んぼの藁山の中に隠れていた犯人とおぼしきわたしが発見されたのでした。

期待していた晩飯や風呂の饗応どころか、わたしはパトカーに乗せられて浜田の警察署に連行されました。手錠をかけられるということはありませんでしたから被疑者というレベルではなかったのかもしれません。

浜田署に着いて本格的な事情聴取を受けました。もう間もなく夜が明けるという時間なのに、署内には4〜5人の警察官らしい人が残っていました。有り難かったのは、警察署の室内ではストーブが赤々と燃えていてとても暖かく、震えが止らなかったあの農家の土間とは大違いだったことでした。冷え切った身体には、振る舞ってくれた熱いお茶もとても有り難かったです。

様々な警察官の尋問に答える度に、取り調べが次第に穏やかになってきたのが感じられました。とりわけ、わたしの学生証、米子から長崎までの国鉄の乗車券、長崎から京都に戻るために持っていた2万円ほどの所持金等を彼らが確認した時などです。取り調べがそれまでの尋問口調ではなく、親戚の子供との雑談風に変わっていきました。

「宿のあてもないのになんで折居で降りたの?」

「列車のアナウンスが降りい!降りい!と言ったからです。」 この答を彼らがどれだけ信じたかはわかりませんでしたが、わたしへの疑いは完全になくなったようでした。 それから一時間ほどして、朝一番の下関行きの列車の発車時刻に合わせて、彼らはわたしを国鉄浜田駅までパトカーで送ってくれたのでした。

こうしてわたしの初めての山陰地方探検は終わりました。それからしばらくは山陰地方を訪れる機会もありませんでした。40年ほど後に、地球研での新規プロジェクトの立ち上げのために、再び浜田を訪れる機会がありました。浜田警察署に行って1967年3月におきた近隣農家での盗難事件の顛末を聞きたいとも思いましたが、まだ果せずにいます。

(2021年2月)

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