雪や氷の世界



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雪崩災害と雪崩の慣性力 ―経験にどこまで頼れるか―

中尾正義 (NAKAWO, Masayoshi)

新潟県能生町の雪崩  

1986年1月26日の夜、静かな眠りについていた柵口(ませぐち)集落の人々に。突然白魔が襲いかかった。世にいう” 柵口雪崩“である。受けた被害は、死者13人、負傷者9人、壊れた家屋19戸を数えた。  

柵口集落は、新潟県南部、西頸城郡能生町に属し、冬期の積雪深が4メートルにも達する豪雪地帯にある。そのためか、雪崩の発生源となった、集落の南西2キロほどの所にある標高1108メートルの権現岳の山腹では、毎冬何度も雪崩が発生していたという。にもかかわらず、この集落が雪崩に襲われたという記録はなく、言い伝えすらなかったとのことである。  

恒例のように発生していた雪崩のうち、今までひとつとして集落には来なかったにもかかわらず、今回に限りどうして集落を襲ったのだろうか。

慣性力で決まる雪崩の走路  

雪崩とは、いったん斜面に積もった雪が重力によって移動する現象である。雪を動かすのが重力なので、雪崩は高い場所から低い場所へと流下するのが普通である。このことは直感的にもわかりやすく、尾根の上よりも谷の中の方が危険であるという一般的常識はこのことに拠っている。つまり、なだれた雪は最大傾斜方向に下へ下へと流れようとする性質があるのである。  

雪崩の走路がこの斜面方向の重力だけで決まるのなら、走路の推定は極めて簡単である。発生点から等高線に直行するように、最大傾斜方向を連ねた線に沿って流下するはずである。この場合、与えられた地形に対して、雪崩の走路は常に一定となる。  

しかし、いったん動き始めた雪には、自らの慣性のために、そのまま直線運動を続けようという性質がでてくる。雪崩自身のもつ慣性力である。  

この性質があるために、最大傾斜方向からずれて、ときとして小さい尾根を乗り越えたり、台地を駆け登ったりすることがある。つまり、低いところから高いところへという、重力に逆らう走路をとることもあり得るのである。  

では、雪崩の慣性力とはいったいどの程度なのだろうか。最大傾斜方向から走路をどの程度ずらすことがあるのだろうか。どの程度の谷を越えて対岸の尾根を駆け登ってくることができるのだろうか。  

雪崩の走路を推定するということは、発生点から最大傾斜方向を連ねたルートからの慣性力によるずれの見積もりに他ならない。

慣性力の見積もり  

慣性力は、流下する雪の質量と流下スピードが大きければ大きいほど大きくなる。このうち最も影響が大きいのはスピードである。では雪崩のスピードはどのように決まるのか。  

雪崩を動かす力は、先に述べたように、斜面方向の重力と自らの持つ慣性力とであるが、運動している雪崩には、逆にその動きを止めようとする力も働いている。  

動きに抵抗する力としては、まず雪崩の底面に働く摩擦力がある。さらに、空気の粘性による抵抗力、雪崩が流下しつつ破壊する積雪層や立木などから受ける抵抗力、さらに雪粒同士が互いにくっつき合おうとするのを引き離すのに必要な力などがある。  

これらの抵抗力が小さければ、雪崩はどんどん加速されスピードが増し、したがって慣性力も次第に大きくなっていく。しかし、運動する物体のスピードが大きくなればなるほど抵抗力も強くなるのが一般的なので、スピードが無限大になることはない。  

一種の平衡状態として、ある一定の速さに落ち着くのが普通である。しかし、抵抗力はその時の積雪の状態や立木の生え具合、滑り面の有無や積雪の状態など実に多様な要素に左右されるため、これらすべてを総合して、雪崩の速さ、そして慣性力をあらかじめ見積もるのは極めて難しい。  

しかし逆に、発生した雪崩の走路を調べることによって、その雪崩の慣性力がどの程度であったのかを後から見積もることはできる。雪崩の走路は斜面方向の重力と慣性力の両者で決まるのだから、走路が最大傾斜方向を連ねた線からどの程度ずれていたかを調べることによって、慣性力が推定できるのである。

巨大な慣性力の柵口雪崩  

柵口雪崩はその被害が大きかったこともあって、災害発生後に多くの研究機関によって調査された。その結果、この雪崩は大規模な高速雪崩で、その慣性力は非常に大きいものであったと結論された。これに比べて、例年権現岳から頻発していた雪崩の慣性力はごく普通の大きさであり、したがって、発生した雪崩は谷筋をより忠実にたどって流下したために、集落に到達することはなかった。1986年1月26日に発生した雪崩に限り、慣性力が例外的に大きく、いつもの走路から外れて、ついには集落にまで到達したと考えられるのである。  

大被害が生じた1986年の冬は、積雪深や降雪日数、降雪量の合計などに関する限り、そのすべてについて比較的大きい値をとった年ではある。しかし他の年と比べて際立って大きかったというわけではない。この年が際立っていたのは、積雪深に対する降雪量の寄与率が飛び抜けて大きかったという。しかしこのことがまさに雪崩の慣性力を増加させることに?がるのかどうかは、まだわかっていないようである。

中国・梅里雪山の雪崩  

1991年1月、日中友好梅里雪山第2次学術登山隊が梅里雪山山中で遭難。日中隊員合せて17人もの貴い命が奪われた。登山隊員全員が遭難したため確実な情報が少ないが、梅里雪山事故調査委員会の調査や小林尚礼さんをはじめとするその後の遺体・遺品捜索活動の結果から考えて、1月4日未明にキャンプ3での就寝中に雪崩に被災した遭難であったと考えられる。  

キャンプ地は、雪崩発生の可能性が高い梅里雪山東南稜からは谷を隔てた対岸にあったようだ。雪崩の発生点からすれば、キャンプ地は谷の向こう側、小高い台地の上に位置していたことになる。登山隊の判断としては、雪崩発生の可能性の高い東南稜から仮に雪崩が発生したとしても、谷を挟む場所に設営したキャンプ地は安全だと考えたに違いない。事実、遭難の10日ほど前の12月20日に東南稜から発生した雪崩がキャンプ地の方へやってきたが、デブリはキャンプ地の対岸で停止し、谷を越えてキャンプ3へは来なかったという。  

問題の雪崩が、発生点との間に横たわる谷を越えてキャンプ地に到達したとすると、その雪崩の持っていたおおよその慣性力を見積もることができる。梅里雪山事故調査委員会の報告によれば、その慣性力は柵口雪崩のものにほぼ 匹敵するくらいの大きさであったと推論された。

雪崩の慣性力と雪崩災害  

以上述べてきたように、柵口雪崩や梅里雪山の雪崩遭難をひきおこした雪崩は、通常の雪崩よりも遙かに大きい慣性力を持つものであったと考えられる。その慣性力は、大きな災害を引き起こした過去の雪崩のものとほぼ同程度であると推定されている。たとえば1938年の黒部峡志合谷の雪崩、1970年の妙高高原幕ノ沢の雪崩、1984年の三国川黒又沢の雪崩などである。  

これらの雪崩に共通していることは、まさかと思うほど遠距離まで雪崩が到達した、あるいは、(これまでの経験上)考えられないほど谷から離れた場所まで雪崩が乗り上げてきた、ということである。(これまでの経験上)普通には考えられない走路を雪崩がとったからこそ、大きい災害が発生したともいえる。集落を襲った雪崩の場合は、よくおきる”普通の雪崩”が到達するような場所に集落が形成されるはずはない。(集落の歴史で)生じた例のないほど大きな慣性力の雪崩だったからこそ、それまでのあいだ無事だった集落に大規模な災害をもたらしたと考えられるのである。  

最近の異常気象災害  

昨年(2019年)もわが国は多くの気象災害に見舞われた。気象庁による「今まで経験したことのないほどの豪雨、もしくは、今まで経験したことのないほどの強風に襲われる」という、避難を促す警告が何度も出された。主要河川の堤防は次々に決壊し、電柱の倒壊や家屋の屋根の被害などが相次ぎ、多くの、避難の遅れによる人的被害も生じた。被災を避けるための対応が遅れた理由として「今まで大丈夫だったので・・・」「今まで決壊したことはなかったので・・・」などのコメントがテレビやラジオで何度もレポートされた。

上述の柵口雪崩災害も「今まで経験したことのない」所にまで雪崩がきたことによって大きな災害が生じたという例である。従来から蓄積してきた集落の長期間の経験が全く役に立たなかったのだ。もしくはそれ以上に、かつて被災したことがないという経験があることによって、この集落はどんな雪崩に対して安全だという認識(一種の安全神話)が生まれ、発生の可能性のある雪崩災害を避けるもしくは軽減するための注意や努力をおこたるという結果を招いたともいえるのである。長年の経験で得られた知恵が、災害自体をより大きくする原因のひとつとして働いたといえなくもない。  

地球温暖化の進行によって、台風の規模や強度も格段に大きくなってきているという。このことは、半世紀近くも昔、1970年代から研究者達によって警告されてきた。そのことがまさに現実のものとなってきているともいえよう。しかし温室効果ガスの低減に向けた世界規模での真摯な行動はまだ始まっていない。

30年間の平均値で代表される様々な”気候値”が変化してきていることが世界各地で報告されている。このような時代にあっては、異なる気候下で蓄積してきた災害に関する”従来の経験”はあくまで参考程度に考え、災害発生の判断基準としてはかなり割り引いて考えなくてはならないフェイズにさしかかっているのではなかろうか。気象災害もまた、”異常に大きな慣性力”を内包するようになってきているのかもしれない。

(岳人561号を元に加筆修正)

(2020年1月)

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