東ユーラシア乾燥域の水循環



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中尾正義

 

はじめに

ユーラシア中央部に広がる乾燥・半乾燥域は、かつては歴史の表舞台であった。様々な遊牧帝国が交錯し、また、農業を主とする中華帝国と抗争や融和を繰り返してきた広大な地域である。誰もが知るシルクロードはこの地域を東西に貫いて伸びており、そこを通って東西の文物、ひいては文化が交流し、そのことによって新たな人間の文化を生み出してきたところである。しかしわずかの降水しかない同地域では、人々にとって水の確保がきわめて重要である。本章では、最近水の枯渇が問題となってきた中国西部を中心に、そこでの水循環の実態を概観する。

1 降水量分布と氷河の役割

中国西部の乾燥・半乾燥域でも、わが国と同様に降水量は標高が高くなればなるほど増加する。図1に示したのは、中国西部にある河西回廊(河西通廊ともいう)付近での降水量の高度分布である。 図1

図1 年間降水量の高度分布。中国西部、祁連山脈から北へ流下する河川沿いに測定した年間降水量の分布(高・楊(1985)を書き直したもの)。

図1に示した河はすべてその源を祁連山脈の山中に発して北流し、シルクロードが通っている河西回廊を横切って沙漠の中に消える典型的な内陸河川である。多くのオアシス都市が点在する河西回廊の平均標高は1000メートル程度で、そこでの年間降水量は100ミリあまり、わが国の十分の一にもみたない量である。しかし標高が増加するに従って降水量はほぼ直線的に増加し、河によって異なるが、標高3000メートルから4000メートルともなると、年間降水量は200ミリから800ミリにも達する。

祁連山脈の峰々は標高6000メートルを超えるものが多く、山頂付近には氷河が発達している。氷河は、降り積もった雪が自らの重さで圧縮された氷で、重力によってゆっくりと低いほうへと流れる。流れ下って標高が低下するにつれて気温が高くなるためゆっくりと融けはじめ、ついには氷が融けてなくなってしまい氷河の末端ができる。図2に、祁連山脈にある7月1日氷河の末端の写真を示す。

図2

図2 7月1日氷河。氷河末端から融解水が流出している様子がわかる。

氷河は気温が上昇する夏季を中心にその融解水を供給する。したがって、山岳地から流れ出る河川水量の変動は、降水量に加えて、氷河から供給される融解水量の変動に依存する。

ではいったい氷河からの融解水は河川流量のうちどの程度を占めているのだろうか。その割合はもちろん河によっても異なるが、同じ河であっても気象条件によって変化するため毎年同じではない。崑崙山脈から北流してタクラマカン沙漠へと流れだす玉龍喀什(ユルンカシュ)河と克里雅(ケリヤ)河における氷河融解水の寄与を35年間にわたって調べた結果を図3に示す(Ujihashi and Kodera, 2000)。

図3

図3 玉龍喀什河(○)と克里雅河(●)の流量に対する氷河融解水の寄与(Ujihashi and Kodera, 2000)。

 

どちらの河でも氷河融解水は平均すれば全河川流量の半分以上にも達していることがわかる。その寄与率は20%から90%までの範囲で年によって非常に大きく変動している。この期間中、降水量が異常に多かったのは1972年と1988年、1989年で、それに対応して、氷河融解水の寄与率が大きく減少している。しかし1981年や1982年の降水量はほぼ平年並みであるにもかかわらず寄与率は上記の3ヵ年の値に近いほど低下しており、これらの年には氷河融解量が少なかったためであろうと思われる。

図4に示したのは、パミール高原の西側にあるゼラブシャン河における河川流量と氷河融解水量の年々変動である。ゼラブシャン河の場合は全河川流量に対する氷河融解水の寄与率は概ね30%程度である。玉龍喀什河や克里雅河の場合の半分程度だが、それでも、ユーラシア中央部の乾燥・半乾燥域においては、水循環における氷河の役割が大きいことがわかる。

図4では全河川流量と氷河融解量の変動データにフィットするように一次回帰直線が引いてある。過去50年余りの期間に、河川流量はほとんど変化していないが、氷河融解量は次第に減少してきているように見える。このことは、最近の温暖化によって氷河面積が縮小してきていることを暗示しているようである。これについては後述する。

図4

図4 ゼラブシャン河の年間流出量と氷河融解水量。単位はt/秒である。Konovalov (1985; 1997)のデータを基にしている。

昔も今も多くの人が暮らしているのは年間降水量が100ミリ前後かそれにも満たないシルクロード沿いのオアシスおよびその周辺である。したがって人々が使っているのはその場所に降る雨というよりは、山岳地への降水あるいは氷河の融け水が河川あるいは地下水として流れて下ってくる水である。

2 オアシス地域での水利用

山岳地から流下してきた水は、人口が集中しているオアシス地域で多量に消費される。本節と次節では、中国西部の青海省と甘粛省および内蒙古自治区にまたがる黒河の流域(図5、面積:約13万平方キロメートル)を例にとって見てみよう。

図5

図5 黒河流域の平面図と降水量分布(Wang and Cheng(1999)を書き直したもの)。等高線は年間降水量である。

黒河は、年間降水量が500ミリを超えている南の祁連山脈を水源として北流し、シルクロード沿いの代表的なオアシスである張掖を通ってさらに北流し、内蒙古自治区の内陸湖に消える典型的な内陸河川である。山岳域からオアシス域への出口である落鶯峡には水文観測所があって河川流量をモニターしている。落鶯峡では、張掖を含む周囲のオアシスでの灌漑農業のために黒河から多量の水を取水している。オアシス域からさらに下流の沙漠域への出口である正義峡にも水文観測所があって河川流量をモニターしている。

過去40年余りの落鶯峡および正義峡での流量観測結果を図6に示す。山岳域からオアシス域への流入量(落鶯峡での測定)は1950年代には年間16億トン程度であったものがいくぶん増加して1990年代には17億トン近くになっている。この値と、オアシス域から沙漠域への流出量(正義峡での測定)との差がオアシス域で消費された水の量ということになる。沙漠域への年間流出量は、1950年代には12億トン程度であったものが、1990年代には8億トン位になっており、40年間で約三分の二程度にまで減少している。つまり、オアシス域での水消費量が1950年代には4億トン/年であったのに対して1990年代にはそのx2以上の9億トン/年へと急増したことになる。言い換えると、最近では、山岳域からオアシス域へ流入する河川水の半分をオアシス域で消費してしまい、残りの半分を下流側へ放流するようになったということである。

図6

図6 山岳域からオアシス域への入り口である落鶯峡(▲)とオアシス域から沙漠域への出口である正義峡(●)で観測した年間流量(億トン/年)の変化(Wang and Cheng, 1999)。実線はそれぞれの観測値に対する一次回帰直線である。

河西回廊で最も規模の大きい張掖オアシスの人口は、1950年頃は60万人位であったものが1990年頃には約x2へと増加した。そのためもあって、1950年頃には800km2であった灌漑農地面積は1990年頃には2500 km2とx3以上に広がった。これにともない、それまで農業用灌漑のためにはほとんど使われてこなかった地下水の揚水量が急増してきた。1980年代には0. 6億トン/年だった楊水量は1999年には3.7億トン/年とわずか20年間でx6に達するまでにもなった。 地下水楊水量の増加は、上に述べたような人口増加にともなう農耕地面積の増加という単純な理由だけではない。黒河流域の水上足を解消するためには山麓域の涵養林を保全することが肝要であると考えられ、そのためには山麓域で森林を構成する木々の芽を食べてしまう家畜の放牧をやめさせようという方針が打ち出された。そこで、主として放牧で生計を立てていた山麓域の牧民をオアシス地域周辺に移住させ、そこで、畜舎内で家畜を飼育する牧畜業へと転換させようという「生態移民」という政策が実施されてきた。この政策に従って放牧から畜舎飼育へと転換した牧民は、家畜の飼料を新たに生産しなければならなくなってきた。しかし河川水の利用に関しては、以前から河川水を利用してきた農民に一種の水利権が設定されているために、新参者としての牧民には割り当てられず、彼らは往々にしてだれでも利用可能な地下水に頼ることになる。このような事情で、灌漑による飼料栽培のための地下水揚水量が急増してきたのである(マイリーサ、2004;中村、2005;中尾、2005)。

張掖オアシスの水利用に関する上記の数字をまとめて整理したのが表1である。

表1 張掖オアシスでの水利用。

取水量(落鶯峡と正義峡での流量の差)に対する農業用水量の割合は1995年の統計データに基づいて97%としている(潘・田:2001)。灌漑水量は水高として示した。

流量の差 農業用水 揚水量 耕地面積 灌漑水量
億トン/年 億トン/年 億トン/年 km2 m/年
1950 4 3.9 0 800 0.48
1990 9 8.7 2 2500 0.43

取水された河川水の大部分は耕地の灌漑用に使われる。取水量 (落鶯峡と正義峡での流量の差)に対する農業用水量の割合は、年によって違うかもしれないが、潘と田(2001)によれば97%とのことである。河川から取水した農業用水量と地下水揚水量との合計を耕地面積で割った値を水高として灌漑水量(灌漑のために耕地に散布された水の量)の欄に示した。1950年と1990年それぞれに0.48メートルおよび0.43メートルという値が得られた。耕地面積の大幅な増加に追いつかない河からの取水量の増加上足を井戸水の揚水で補ったためか、灌漑水量は1950年と比べて1990年でも大きくは減少していない。いくぶん減少しているのは、灌漑水路の改修などにより、地下への浸透量を減らすことによって、水の利用効率を上げた効果と考えられるかもしれない。

上記の簡単な計算は、河から取水した水は一度だけ灌漑に使われるという仮定に基づいている。しかし現実には、用いられた水が地面にしみこみ再び河へ戻るという現象があり、その場合は、下流側で再度その水を取水するという、水の再利用現象が生じる。黒河流域の場合この再利用率とでもいう割合は約1.1くらいであろうと推定されており(Cheng and Wang, 1994)、そうすると、灌漑水量は1950年と1990年それぞれに、0.53メートルおよび0.48メートルとなる。

Tsukamoto et al.(1995)は、張掖オアシスの代表的な作物のひとつである小麦の畑(小麦の収穫後は豆を栽培)で、年間あたりの蒸発散量を1991年から1992年の2年間にわたり鉛直プロファイル法で観測して0.535m/年という結果を得ている。しかし、灌漑水に加えて耕地には降水が降り注いでいる。張掖における年間降水量は、年によっても異なるが、おおよそ0.1メートル〜0.2メートルである。Tsukamoto et al.(1995)が観測した1991年と1992年における張掖のやや上流にある落鶯峡での観測では平均0.175mという年間降水量が得られている。一般的に、めったに雨の降らない乾燥・半乾燥域のオアシス域では、降水のほとんどは地面にしみこまずそのまま蒸発してしまう場合が多いので、年間蒸発散量0.535メートルから降水があるたびに蒸発したと考えられる0.175メートルを差し引いた0.36m/年程度が、耕地へ散布した灌漑水からの蒸発散量だと考えることができる。この値は年間あたりの灌漑水量である0.43メートル〜0.47メートルと比べるとその8割程度ということになり、残りの2割程度が土壌にしみこんで、地下水を涵養しているという勘定になる。もっとも上記の計算はかなり概略の数字を用いているために、正確な値というわけではないが、オアシス地域での水利用の実態は概ね理解できると思う。

灌漑水が地下水を涵養していることに加えて、当然、河川水も地下水を涵養していると考えることができる。たしかに河川周辺の地下水位は高く、河から離れるにつれて地下水位が低下していくことが観測されている(Taniguchi et al., 1995)。

灌漑水や河川水は地表面に存在している間に強い日射によって激しく蒸発するので、その塩分濃度や同位体組成はともに時間とともに増加する傾向がある。しかし、Taniguchi et al.,(1995)は、同位体組成が変化するにもかかわらず電気伝導度がほぼ一定に保たれる地下水のグループを見出し、山岳地で形成された重い同位体の含有比が小さい地下水が混合しているせいではないかと推定している。

深井戸で採取された地下水には、山岳地で現在降っている降水よりも重い同位体がはるかに少ないものがある。このことは、現在の降水がその地下水の起源であるとしては考えにくく、現在よりも寒い時期たとえば小氷期に山岳地で降った降水が起源である可能性がある。そう考えると、深い地下水の形成には少なくとも百年以上、数百年という時間が必要だということになる。

3 沙漠域での水の消失

オアシス地域で消費されなかった残りの水は正義峡を通って下流の沙漠域へと流れていく。黒河の場合、最近では年間あたり9億トンほどである。この水は流れ下るにしたがって河川表面からの蒸発によって失われるとともに、河川周辺の地下水の涵養に使われながら、かつては最終的に東西二つの末端湖に流れ込んで消滅していた。しかし1961年には、西にあったガショーンノール湖は干上がり、ついで東のソゴノール湖も1992年には干上がってしまったという(楊、2002)。

これら湖の消滅は、額済紊(エゼネー)旗オアシスを中心とする黒河最下流部に当たる沙漠域での水上足を強く印象付けた。湖の消滅と連動するように、胡楊や紅柳を中心とする黒河の河畔林も衰退してきた。また、下流域に掘られていた深さ数メートル程度しかない浅井戸ではその水位が低下し、多くの場合水が涸れるという現象が生じてきた。そのため額済紊旗およびその周辺に暮らす人々は10メートル以上の深井戸を新たに掘削せざるを得ない状況になってきたのである。つまり沙漠域からの蒸発散量を、微々たる現地への降水(年間50ミリ以下)や中流からの地下水および河川水の流入だけではまかないきれずに、現地の貯留地下水量が減少してきていると考えることができる。

この地下水位の低下は現地の地下水需要の増加も一役買っている。河畔林の回復を目指して、放牧されている動物たちが河畔林の木々の芽を食べる事を防ぐために、前節で述べた山麓域およびオアシス域の場合と同様に、河畔林周辺での放牧を制限し、牧民たちを河から遠いゴビ地帯へ移住させるという「生態移民」政策が取られている。ゴビ地帯への移住をしない牧民たちは、定住して畜舎飼飼育による牧畜業への転換を図る。その場合はオアシス域の時と同様に、新たに飼料栽培をおこなうことが必要となり、そのための灌漑水を地下水揚水に頼るようになってきたからである(児玉、2005)。

ともあれ、最下流域での湖の消滅と河畔林の衰退は地域の裸地面積を増加させ、このことが、北京周辺の砂塵嵐が最近頻発するようになった原因とされるにいたった。つまりこのあたりが砂塵の供給源として注目されたのである。しかし最近の研究では(Nakano et al., 2004)、北京で最近問題になっている砂塵嵐は額済紊周辺を含む比較的遠方の裸地/沙漠を起源とする砂塵粒子が飛んできているものではなく、北京周辺の砂漠化が原因ではないかと考えられている。

砂塵供給源と考えられる地域の緑地化の重要性を認識した中国政府は、中流オアシス域での野放図な農業開発に歯止めをかけるとともに、山岳域からオアシス域への毎年の河川水流入量に応じて、一定量以上の水をオアシス域から沙漠域へ放流しなければならないという基準を設け、最下流の沙漠域の?生および湖の回復を図ったのである。ソゴノール湖は2003年に再度出現したが、下流域への放流量の確保というこの政策の結果として見ることができるかもしれない。

このことは、オアシス域での灌漑農業による水利用を制限して下流への流出量を増やし、その分の水を最下流部の沙漠域で湖からの蒸発および河畔林の木々や草からの蒸散によって大気へ戻すという、人為的な水循環過程の変更と捉えることもできる。地表面から大気への水蒸気の供給量の地域分布を変更したということである。

中央ユーラシアの乾燥・半乾燥域の降水のもととなる水蒸気は、大西洋やカスピ海など西方の海起源のものとインド洋やアラビア海などから供給されるモンスーン起源のものとがあると考えられている。しかしこれらの海から直接水蒸気として運ばれてくるものは少なく、それ以上に、源となる海洋から供給された水蒸気がいったん凝結して雨を降らせ、降った雨が地表面から再び蒸発するという再蒸発過程を経た地表面起源の水蒸気の割合がきわめて多いと推定されている(Numaguti, 1999)。したがって、上記のような地表面からの水蒸気供給量分布の変更は、降水のパターンや量にも影響を与えそうだが、詳しいことはわかっていない。

以上述べてきたように、空から降ってくる降水を直接利用することが困難な東ユーラシアの乾燥・半乾燥域では、降水量の多い山岳地の水資源に大きく依存している。したがって、山岳地からの河川水、地下水を人間が余すところなく利用しようとしてきた。そのために、この地域の水循環過程を考えるときには、人間活動を抜きにして語ることはできず、このことを含めて議論することが必要である。

4 温暖化とその影響

化石燃料の大量消費による大気中の温暖化気体濃度の増加を原因とする最近の地球温暖化が大きな問題となっている。地球温暖化により、世界各地の気温が上昇することによって、それぞれの地域の生態系の劣化、異常気象の頻発、あるいは極地の陸氷の融解による海面上昇などが取りざたされている(IPCC, 2001)。

ユーラシア中央部の乾燥・半乾燥地域でも1970年代以降気温の上昇傾向が各地で認められている。図7にはその一例として張掖オアシスにおける年平均気温の最近の変化を示す。

図7

図7 張掖における年平均気温の変化。1970年代後半以降の温暖化傾向が認められる。

山岳地には気象観測点が非常に少ないこともあって、観測値としての気温データはあまりない。しかし、気温と非常に相関が高い降水の酸素同位体組成が最近際立って増加してきていることが中低緯度の氷河から採取した雪氷コア解析の結果から世界的に認められる(Thompson, 2004)。本章の対象地域である祁連山脈やチベット高原で採取した氷河コア解析の結果でも最近の温暖化を示唆する結果が得られている(Thompson, et al., 1990; Yao et al., 1995)。つまり、地球温暖化に連動したような温暖化傾向は、人々が暮らす沙漠周辺のオアシス域に限らず、標高の高い山岳地でも生じているらしいということである。

全球規模の大気海洋大循環気候モデルによれば、温暖化によって全球平均の降水量は増加しそうだといわれているが(IPCC, 2001)、降水量の変化は気温変化ほど単純ではなさそうである。現状として比較的降水量が多い地域は温暖化によって降水量は増加するが、その周辺に位置する比較的降水量の少ない地域は、とくに沙漠域周辺にある山岳地域では、逆に降水量が減少する可能性もある(たとえばNakawo et al., 1994)。

チベット高原の北端に近い祁連山脈と南端に近いヒマラヤ山脈とでは、降水量の年々変動の変化パターンが全く逆転しているという報告もあり(Davis and Thompson, 2004)、気温と違って、降水量の変動は地域によって傾向が大きく違うようである。したがって現段階では、乾燥・半乾燥地域の水資源として最も重要な周辺部の山岳地における降水量が、温暖化によってどう変化するか、あるいはどう変化してきたかははっきりわからない。

いっぽう氷河に関しては、温暖化すれば融解が促進されて氷河が縮小することが想定される。事実、図2で示した7月1日氷河は1975年から2003年までのわずか28年間にその体積の1割もが失われたことが観測されている。温暖化によって氷河上に降り積もる雪の量よりも氷河全体の融解量のほうが多くなるために、結果として氷河は次第に小さくなるからである。

氷河が定常状態にあってその大きさが変化しないとすれば、年間河川流量はその流域に降った降水の一年間の合計から蒸発量を引いた値である。その値は流域に氷河があろうがなかろうが関係ない。氷河上に降り積もって氷河に取り込まれる降雪の質量と氷河が融けて流れ出す水量とが等しいからである。しかし全流出量に対する氷河融解水の寄与は、流域に占める氷河の割合が大きければ大きいだけ大きくなる。第1節の図4で、氷河融解量が最近減少してきているのは「最近の温暖化によって氷河面積が縮小してきていることを暗示しているようである」と述べたのはこのことである。

温暖化によって、氷河上に降り積もる雪の総量よりも氷河からの融解量の合計のほうが多くなるということは、氷河が小さくなることによって、流域全体の降水量の合計以上の水を河川に供給することになる。したがって、降水量が年毎に変わらないとすれば、河川流量は以前よりも増えることになる。黒河流域の、とりわけ、平地よりも降水量の多い山岳地における年降水量の変動はよくわからないが、山岳域からオアシス域への河川水流入量(落鶯峡での流量測定値:図6)が最近わずかながら増加してきているのは、温暖化のために同流域の氷河が小さくなることによって降水量の合計以上の水を黒河に供給しているからなのかもしれない。

黒河流域にある氷河は比較的少ない。正確にはわからないが、年間河川流量に占める氷河融解水の寄与は10%程度でしかないようである。しかし、図3で示したタクラマカン沙漠南縁にある玉龍喀什河や克里雅河流域のように氷河の寄与率が平均50%以上もあるような河川の流域では、上にのべた地域の水循環、特に水資源の変動に対する温暖化の影響は非常に大きいものと予想される。

図8に示したのは、タクラマカン沙漠に流入して消える河川と周辺のオアシス都市の分布図である。特に目を引くのは、南側の崑崙山脈から北向きに流れてくる河川沿いにあるオアシス都市の位置が昔と今とで大きく違うということである。昔のオアシス都市の多くは現在の沙漠の中に位置しているのに対して、現在はさらに南側、つまり河川の上流側に位置している。

図8

図8 タクラマカン沙漠周辺の河川分布と昔(●)と今(○)のオアシス都市の位置(Nakawo, 2000)。

オマイルと高村(2000)によれば、沙漠に消える内陸河川のある地点での流量はその場所から河が沙漠の中に消える末端までの河の長さに比例するという。したがって、今は廃墟となって沙漠の中にある昔のオアシス都市が栄えていた頃には、人々の水需要にかなうだけの水量を持った河がその付近まで堂々と流れていたに違いないと想像することができる。つまり、河川の流量は、昔に比べて最近はるかに少なくなってしまったということである。

Hoyanagi(1966)は、崑崙山脈からの河川流出量変化を過去2000年にわたって文書情報を基に復元して、海水位変化データと比較した(図9)。復元には地方の図誌や旅行者の紀行文、たとえば法顕の記録などを用いているが、崑崙山脈付近の情報がない場合にはいちぶ河西回廊付近の文書情報を地域的に拡大して用いている場合もある。したがって定量的に信頼できる図であるとはいいがたいが、現地調査ができない当時の状況において、きわめて野心的な研究であるといえよう。

図9

図9 崑崙山脈からタクラマカン沙漠へと北流する河川の流量変化(A)と海水位の変化(B)(Hoyanagi, 1966)。

図9を見ると、河川流量の変化と海水位の変化とが逆相関関係にあるように見える。最近の温暖化問題でよく言われているように、温暖化すると世界の陸氷の融解が進み世界の海水位は上昇すると考えることができる(IPCC, 2001)ので、図9にある海水位変化は気温変化をあらわしていると見ることもできよう。たしかに図9の海水位変動の様子は、年輪試料や珊瑚試料、雪氷コア試料、文書情報などをコンパイルした北半球における過去1000年の気温変化の復元結果(Jones et al., 1998)とも概略で大きくは違わない。そうすると、図9は河川流量と気温変化とが逆相関にあると読むことができる。つまり、温暖な時期には河川流量が減少し、寒冷な時期には河川流量が増加するということである。

温暖化すれば降水量が減るという現象が、この地域の特に山岳地で生じるとすれば、この逆相関関係はなんとなく紊得できる。しかし温暖化による氷河縮小によって、降水量以上の水を河川に供給するということはこの考えと矛盾する。特に崑崙山脈からタクラマカン沙漠へと北流する河川では氷河融解水の寄与が非常に大きいからである(図3)。

図9自身の定量的信頼性があまりないので、これ以上の議論は避けるが、この地域の河川水の流量、ひいては人々が使うことのできる水資源量というものが、気候変化と密接に関係しているということだけはいえよう。この問題を明らかにするためには、過去の気候変化と河川水量の変化、さらに人々の水利用状況の変化など、上記の各節で述べてきたようなさまざまな要素の変遷に関する信頼性のある定量的な復元データが上可欠である。それらのデータを基にして初めて、気候変化と人間の水利用も含めた水循環との関係が明らかになるものと考える。

おわりに

前節まで東ユーラシア乾燥域の水循環を中国西部の黒河流域を中心にして概観してきたが、わかっていないことが非常に多い。

たとえば同地域への降水の源となる水蒸気のうち、起源となる海洋から蒸発した後に一度どこかで降ってから再蒸発した水蒸気の占める割合が多いとはいわれているが(3節)、特定の領域における再蒸発を経験した水蒸気が降水に占める割合やそこにいたるまでの水の経路などはほとんどわからない。しかしそのことがわからないと、人間による地表面状態の改変によって再蒸発の起き方あるいは起きる場所が変更された場合に、降水の生じ方にどのような変化が生まれるかということを予測することは上可能であり、きわめて重要な課題である。現在、水の安定同位体を指標として上に述べたような水の履歴を調べる研究が始まってはいるが、まだまだ未知の領域だといわざるを得ない。

また1節で述べたように、東ユーラシアの乾燥域ではその水資源の大部分を周辺にある高山地帯に依存している。しかしながら山岳地帯の気象観測点はきわめて貧弱で、最近数十年の降水量変化すら信頼性のあるデータは少ない。このことはわが国でも似たような状況だが、山岳域の水資源への寄与が際立って大きい乾燥域では、わが国以上にその実態の把握がまず必要である。そのためにも人工衛星やレーダーを駆使して、山岳地での降水過程を知ることが上可欠である。このことは上記の水の履歴とも関連して、低平地での土地利用状況の改変が山岳地への降水にどのような影響を与えるかという評価にもつながるはずである。

2節、3節で述べたように東ユーラシアの乾燥域では、山岳地を起源とする水を人間が使い尽くそうと努力してきた地域であり、したがって同地域の水循環は人間活動を抜きにして語ることはできない。しかし水循環の研究に人間活動を含めようとすると、対象地域の社会、制度、政治、経済、さらにはそこに住む人々の心情や習慣など、きわめて広範囲の事象の理解が必要となる。このことが乾燥域の水循環研究を遅らせた一つの原因といえるかもしれない。しかし地球環境問題の顕在化が契機となって、水循環ひとつをとってみても、人の活動をふくめたあらゆる事柄間の相互作用を理解しない限り、問題の解決につながる知見は得られないという理解が進んできている。いわゆる専門の枠にとらわれることなく、必要なことには積極的に取り組む姿勢が求められているといえよう。

かつては歴史の表舞台であった東ユーラシアの乾燥域は、その歴史的帰結として、洋の東西を問わず、我々人類の歴史に多大の影響を与えてきた。乾燥域であるがゆえに、その歴史の中で水循環のありようが果たした役割は大きい。たとえば4節で述べたタクラマカン沙漠南縁のオアシス都市が時代とともに大きくその位置を変えたということはその一例である。今からおよそ1350年余り昔、唐の時代に玄奘三蔵がインドからの帰途立ち寄ったときには、大伽藍が聳え立っていたオアシス都市が、今は砂漠の砂の中に埋もれてしまっているという。

さらに昔にさかのぼれば、スェーデンの探検家スヴェン・ヘディンに発見されたタリム川の末端にあった楼蘭オアシスが豊かな水に支えられて栄えていた時代(4000〜5000年前と考えられている)から、現在は見る影もなくなってしまったという例もある。これもタリム川の水環境の変化が主要因だとしか考えられない。最近ではさらに水資源が減少してきて、黒河流域と同様に、タリム川でも水上足が大きな問題となっており、自然変動だけではなく人間活動の影響をも含めて問題への取り組みが始まったという段階である。

黒河流域の場合もその歴史は遠く漢の時代、2000年前にまでさかのぼる。当時の漠北の雄であった匈奴に対抗するために一種の屯田兵が漢帝国によって黒河の最下流域へ送り込まれ、そのことによって流域の人口は160万人に膨れ上がったという(甘粛省档案館、1997)。現在の人口は約180万人であり(潘・田、 2001)現在とほぼ変わらない数の人々が主として農業を開始したのである。つまり現在とさほど変わらない程度の規模の灌漑農地の開発がおこなわれていたとしても上思議ではない。その後同流域の人口は減少するが、およそ1400年前の隋から唐にかける時期に再び増加したと考えられる(甘粛省档案館、1997)。

およそ900年から800年前の西夏時代には、黒河流域は水上足というよりも洪水の方が問題となっていた可能性があるにもかかわらず、それに続くモンゴル時代には水上足を示唆するこの文書情報が多い。その時代はどちらかといえば寒冷化に向かう時期であり、9.4節で述べた温暖化する最近の時期と好対照となる。つまり寒冷化傾向の中では氷河の拡大にともない河川流量が減少していたとしてもおかしくない。このことが元代にも水が足りていなかった原因かもしれないが、同時に、拡大した灌漑農地による人為起源の水上足の可能性も否定できない。さらに13世紀から14世紀の元末〜明初の頃、黒河の最下流部で流路の変更(それまで水が行っていなかった西の末端胡であるガショーンノール湖へ始めて河の水が導入された)が起きたことを示唆するデータもあり、しかもこの変化が人為的であった可能性も捨てきれない。つまり700〜800年以前でも大規模な水循環の人為改変が行われていたかもしれないのである。そのことにともなってどのように水循環の様相が変わったのだろうか。疑問は増えるばかりである。

文献

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(2007年5月)

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