中尾正義
1 「通へる夢は崑崙の・・・」
1985年7月1日。成田空港から今回の崑崙行の母体である「アジア高山地域の比較氷河研究」の事務局に電話をかけた。出国する旨の連絡をしたところ、研究代表者である樋口敬二教授が直接いいたいことがあるので自分で電話口にでたいといっているという。「ええなあ、初めて崑崙に行けるなんて・・・『紅萌ゆる(注;旧制第三高等学校寮歌のひとつ、しょうようの歌 )』を何遍も歌うてきてくれや!」とのこと。他に用はなかった。
「紅萌ゆる丘の花早緑匂う岸の色・・・通へる夢は崑崙の高嶺の彼方戈壁の原・・・」
学生時代に何度歌ったことだろうか。その夢がもうすぐ実現するのだ。期待に胸がふるえる。と同時に、夢の実現に青春をかけてきた多くの先人をさしおいて、自分なんかが最初に行ってもよいのだろうか、という申し訳ないような気持も強い。身近では、崑崙調査の許可を取るのに努力してきた上田豊氏も、南極越冬中で今回は参加できない。ともかく、多くの先達の執念と夢とが背景にあることを思い、身の引きしまる思いで北京行きの中国民航980便に乗り込んだ。
2 北京、烏魯木斉(ウルムチ)、喀什(カシュガル)
北京空港には、蘭州氷河凍土研究所の謝自楚所長が自ら迎えにきてくれていた。宿泊は、中国科学院関係者の場合はほとんど常にそうだとのことだが、北京北西部にある友誼賓館が既に予約してあった。ロシア人が設計・建設したという代物で、どっしりとした立派な建物が10棟ちかく、広い庭をはさんで立ち並んでいる。うち1棟は中国科学院が常時借り上げているとのことで、その中の1室には、科学院のサービス部門の人が常駐している。日本からでも、この部屋に電話すると、中国民航やホテルの手配、タクシーや観光旅行の準備など何でもやってくれるとのこと。ただし、ほとんどの手続きに結構な額の手数料を取られる。
日本を発つ前にアナカンで送った約200キロの荷物は、成田出発時には北京にあるとの情報を得ていた。宛先は一応烏魯木斉の空港留めにしておいたのだが、代理店側でも通関が北京になるか烏魯木斉になるかわからないとのことであった。結局、北京に着いて調べたところ、既に烏魯木斉に送られたことがわかった。これで北京での仕事がひとつ減った。
ともかく中国国内の中国民航がらみのことはわからないことが多い。われわれの座席の予約もそうである。日本の旅行代理店で航空券を購入したときには、成田→北京→烏魯木斉はOK。しかし、烏魯木斉→喀什の便はどうやっても座席の確認ができないとのことであった。それどころか、コンピュータのディスプレイには“no flight”と出力されてくるとのこと。このことは、成田空港を出るときに中国民航のオフィスに行って、わたし自身、中国人スタッフに確認したが、「コンピュータへの入力がないから何ともいえない」の一点張りであった。代理店は、烏魯木斉以降については、一応openの切符を作っておくが、中国では新たに切符を購入しないと座席予約をしてくれないかもしれないから、その時は購入してくれ、帰国後払い戻すから、という。こうして出国してきたのだが、北京で確認してみると、何とOKだったはずの北京→烏魯木斉の便でさえ、何の予約もされていない。あわてて予約する。このときは、日本で発行した航空券は有効で、新たに購入する必要はなかった。これも、たまたま対応する中国民航のスタッフの質や気分によって異なるようだ。航空券と座席予約という概念とがきちんと分離されていないのがその原因ではなかろうか。予定より1日遅れて中国入りする国立極地研究所の渡辺興亜氏の北京→烏魯木斉の座席予約を変更したときには大いに手間取った。なまじ切符にOKと書いてあったものだから、単に便と座席の変更だけでは済まず、OKの航空券を払い戻し、新たに1日違いの座席予約付きの航空券を購入しなければいけないという。結局、払い戻し、新規購入それぞれに相当額の手数料を取られる羽目になった。
北京から烏魯木斉に向かう前々日に、順調に登頂を終えたナムナニ隊(注:1985年日中合同ナムナニ登山隊)のうち、ラサ経由の隊員が北京到着とのこと。ナムナニ隊の宿舎である西苑飯店を表敬訪問して、西山孝氏と再会することができた。喀什からの道路状況の話などを聞く。わが調査隊も喀什からは新疆・西蔵公路を南下、甜水海まではナムナニ隊と全く同じ道をたどるからである。
3 新疆・西蔵公路(喀什から甜水海)
この道は、ナムナニ隊もほんの3ヶ月ほど前に通ったばかりである。7月12日、朝からトラックへの荷物の積み込み。ナムナニ隊の井上治郎氏に残置を依頼しておいた氷河に旗竿を立てるためのドリルを受け取りに登山局へ行く。渡辺氏が持ってきたビデオカメラのバッテリーチャージャーの調子が悪く、その修理をしたい旨申し出たら、案内されたのはなんと中国国営放送の放送局であった。一般の電器屋では修理ができないのか、それとも科学院と国営放送という中央政府の機関同士ということで相互補助の便宜があるのだろうか。ともかく放送局でちゃんと修理してくれた。
翌朝喀什を出発。ジープ2台、トラック1台の堂々の行軍である。ヤルカンド(莎車)を通ってカルガリーク(叶城)までの250kmが今日の行程だ。ヤルカンドでは昼食を兼ねて休憩し、今後約1ヶ月の調査のための新鮮な野菜や果物、卵などを購入した。よく知られている哈密瓜(ハミウリ)は時期的にやや早いらしく、味は今ひとつだったが、買い食いした甜瓜(いわゆるメロン)の味は格別のものであった。
ヤルカンドを出発してしばらくすると、ヤルカンドダリヤを渡る。「西北チベットと頭部パミールとにまたがる高原に、氷河や融けかかっている雪原から来る水、泉や降雨の水がすべて集まり、これらはその後一つに合して、壮大な開鑿峡谷のなかを流れて、上流の各地でそれぞれゼラフシャン、ラスケム、ヤルカンドダリヤとさまざまのなまえで呼ばれる大河となる。途中で幾つかの支流によって増強されて、この河は東トルキスタン砂漠を1500kmにわたって完全に貫流し、ついにはカラ・コシュン湖に注ぎ込む」と、ヘディンは書いている(ヘディン中央アジア探検紀行全集、『チベットの冒険』、鈴木武樹訳、白水社)。カラ・コシュン湖は、いわゆる「さまよえる湖」ロプノールが、そのほとりに栄えた楼蘭王国から離れて、その西南方に移動していたころ、つまりヘディンの記述のもとになった1900年前後の第2回探検時におけるなまえである。その後30年あまり経ったときには、それが、かつてのロプノールの位置へと再び戻りはじめており、この湖が1600年周期の「さまよえる湖」であるというヘディンの報告で、広く知られるようになった。ヤルカンドダリヤの源は、パミール高原はもちろん、カラコルムのK2峰にも及び、崑崙山系の水の一部をも飲み込んでいる。
学生時代にヘディンの探検記を何度も読み返したものにとって、ヤルカンドダリアはなにか特別の河に見える。渡り終ってから写真を撮りたいと伝えたところ、絶対に橋の写真は撮らないでくれ!と、それも強い口調でいう。確かに、新疆・西蔵公路の政治的、軍事的役割を考えると、公路沿いで最大規模の河であるヤルカンドダリヤを渡る橋は、極端に重要なものであろう。数年前に外国人研究者がこの橋を撮影したことが橋の守備隊に見つかり、本人はもちろん、案内の中国人も処罰されたとのことである。
右手にアルチンターク、正面には崑崙山脈の西端を眺めながら、電話回線用の電柱の立ち並んだ砂漠の中の道をひたすら走って、夕刻にはカルガリークに着いた。
黄砂の襲来
翌7月13日早朝、昨日までと比べるとひどく暗い。嵐でも来ているのかと思いながら外に出てみると、黄色い砂がサラサラと降っている。黄砂だ。10年ほど前に有珠山が爆発したときに、札幌に降った火山灰を思い出した。よく見ると、あたり一面黄砂が5〜10mmほど積もっている。砂といっても非常に細かく、粒の直径が0.1mmよりもはるかに小さい。厳密には、砂と呼ぶとおかしいのかもしれない。その上を歩くと、フワッと黄色い粉状に舞い上がる。ジープもトラックもみなその頭に黄砂を載せている。ちょうど運転手が車から砂を払い落としているところだった。
車に乗って出発してからも視界は数十mしかない。濃い霧の中を走っているかのようだ。ヘッドライトに照らし出されて、前方にパッと浮かびあがるラクダの群れがなんとも幻想的である。車はぐんぐん高度を上げてアカズ峠、セラク峠を越え、崑崙山脈の南面側へと入り込んだ。人民解放軍の駐屯する麻扎(マツァ、3750m)である。一日でいっきょにここまで登ってきて頭が痛い。夜は兵站の兵士による歓迎会があるとか。めんどうだが出席しないわけにはいかない。白酒の乾杯攻めがなかったのが救いであった。
今回の偵察行では、中国側の研究者もまだ足を踏み入れたことがないという、西部崑崙の氷河地域の自然を知ることはもちろんであるが、今後共同して研究を進めることになる中国側研究陣の実力もまた見極めなければならない。この日の行程を含めて、チベット高原への高度順化に関しては、中国側はほとんど注意も払っていないし、また知識もあまりないようだった。もっとも、彼らの多くは毎年のように中国各地で高所を経験しており、しかも今回は彼らのほとんどがK2峰周辺での調査を終えた直後であったという事情もあるのかもしれない。高度のせいで調子の悪いものがでると、ただその場所で泊まりを重ねるだけで、あらかじめ宿泊地より高い高度を積極的に獲得するといった方法は考えたこともない様子である。この点では、同じ中国人でも登山関係の人たちと、いわゆる研究者という人たちとは同じように考えない方がよいのかもしれない。
マツァで、もう一泊した後に黒?(ヘーチャー)峠を越して、康西瓦(カンシーバ)へ。ここにはこの地域で唯一の気象観測所がある。そこの気象データの入手には金がかかる。一文字あたり数元とのこと。えらく高い。もっとも、自分たちが手書きで写すのはかまわないという。身体の調子が悪くここに残ることになった補給長が写してくれることになった。ただし、1984年の気温と降水量の月平均値だけである。
カンシーバの気象台では多数の羊を飼っている。調査期間中の蛋白源として一頭購入した。60元であった。カンシーバで2泊したのち、最後の峠である奇台峠を越してチベット高原に入った。急に広々と広がった高原にポツンと立っている甜水海の兵站に泊まる。このあたりは旧湖底で、風化した湖底堆積物の丘を散見することができる。場所によっては塩が地上に白く結晶しているところもある。
4 崑崙山脈の大草原
甜水海からは新疆・西蔵公路と別れて、崑崙山脈南斜面の山麓を東進して、いよいよ崑崙の核心部に入ることになる。7月19日。朝の気温+4℃。出発準備は整ったが、車のエンジンが始動しない。エンジンの冷却水を湯と入れ替え、キャブレターをバーナーで炙って、やっと出発することができた。気温が下がったからという説明だったが、下がったといっても朝の最低気温でさえマイナスではない。5000m近い高度にきて、空気が薄くなってきた影響もあるのだろうか。
それにしても、中国製の車、特に北京ジープはトラブルが多い。これまでも沿道でかなりてこずったが、今後もずっと悩まされることになる。この日は追い風であったことも手伝って、特に午後になって気温が高くなってきてからは(といっても15℃前後であるが)、ジープのエンジンのオーバーヒートが頻発する。水温が上がってくると、車を風上に向かって止めてエンジンを切り、風でエンジンを冷やす。エンジンが冷えたころ再び始動してしばらく走る。野帳の記録を見ると、走行8分、停車8分、走行10分、停車9分・・・とある。走行と停車の繰り返しで、実働時間の約半分しか走っていないのだ。
甜水海を出て1時間あまりで、阿克賽欽(アクサイチン)湖に着く。塩湖である。その水はなめるとすぐわかるほど塩辛い。採水した水を帰国後分析したところ、塩分濃度、酸素同位体組成ともに海水とほぼ等しいという結果が出た。
これまでのところ、沿道の周りはすべて砂、石、岩ばかりで、いきものの息吹を感じることができない死の世界である。カルガリークとマツァとのほぼ中間にある庫地(クディ)というところで、タクラマカン周辺のオアシスでよく見られる白楊樹(ポプラの一種)と別れてからは、樹木というものを1本も目にすることがなかった。樹木どころか草もほとんど生えていない。マツァやカンシーバ周辺の川沿いに点在する紅柳(タマリスク:茎が赤みがかった地上高が数十cm程度の樹木の一種。地下には太い木の幹のような部分が隠れている。)の茂みに何とか心の安らぎを求めた程度である。甜水海を出てからは、その紅柳も姿を消し、草木を全く見なくなった。動くものといえば、上空を流れる雲と、風に吹かれて舞い上がる砂塵だけである。これが崑崙なのだろうか。「紅萌ゆる・・・」を歌いながら一度は行きたいと恋い焦がれていた崑崙山脈とは、花咲き鳥が歌う楽園でなければならないはずだ。それが、かくも荒涼とした砂嵐の歌しか聴けないところとは・・・。次第にファイトが萎えていくのを感じる。
アクサイチン湖からさらに2時間、小さな峠を越した。するとどうだ、目の前に見渡す限りの大草原が拡がっているではないか。左手に立ち並ぶ崑崙の高峰から右手のチベット高原にかけて一面の黄色のじゅうたんだ。ヘディンも書いている。「北チベットの高原で誰が正真正銘南米の草原にも見まがうものを予想したろう!そして、地平線の果てまで、一面に藁を敷き詰めたように黄色い」(ヘディン中央アジア探検紀行全集、『トランス・ヒマラヤ』、青木秀男訳、白水社)。草原のあちこちには頂上に氷河をいただくヌナタクも散見できる。荘厳な景色にうっとりと見入る。
草原に車を乗り入れてどんどん走る。鼻歌も出てくる。さっきまでの滅入った気持は吹っ飛んでしまった。調子が悪いのは車だけだ。草原に生えていたのは、長さ十数cm程度の日本の茅を短くしたような草である。ヘディンがヤプカクと呼んでいる雑草だろうか。さほど密集しているわけではないが、砂地に一定の間隔をおいて連続的に生えているのだ。遠くから見ると一面に草を敷きつめたように見える。久しぶりに見る草原にすっかり興奮してしまった。風に吹かれてそよそよとなびく様は稲穂をさえ思い起こさせる。
崑崙の大草原(右下に、角を持つチルーが見える)
前方に何か動くものがいるのに気がついた。目を凝らすと、かなり大きな動物のようだ。角が見える。鹿かカモシカの一種だろうか。中国の人達は野生の羊だという。羊にあんな長い角が生えているはずはなかろう。見えだすと次々に見えてくるものだ。あちらに数頭かたまっているかと思えば、こちらにもいる。1頭でポツンとのんびり草を食っているものもいるし、こちらをじっと見ているものもいる。帰国後、動物が専門の友人に写真を見て貰ったところ、チルーと呼ばれる動物で、角があるのが雄、無いのが雌ではないかとのことだった。
何頭かを目印にしてジープからの視認限界の距離を測る。と同時に、ジープの走行距離に対する視認したチルーの数を数えてみた。その結果、なんと19.2km2あたりに29頭もいるという結果になった。0.7 km2あたり1頭という数字だ。この程度の草で体長2m前後もあるチルーをこんなに多数養うことができるのだろうか。しかもチルーだけではない。さらに大型の野生のロバもいることに気がついた。クランまたはキランと呼ばれている動物だろう。こちらの方はやや数が少なく、24 km2あたり(ロバの方が、視認距離が長い)6頭、つまり4 km2あたり1頭という結果が得られた。
まだいた。ウサギのような動物だ。それらしい糞に気づいていたので、きっといるに違いないと思っていたのだが、体型が小さいために実際に目にしたのはしばらく経ってからだった。その後、氷河調査の前後にも何羽も見かけたから、これもまたかなりの数が生息していることだろう。
草原をジープで走りながら、あちらこちらでのんびりと草を食ったり、ブラブラと散歩をしているこれらの動物たちを見ていると、崑崙はやはり地上の楽園だったのだと嬉しくなってくる。少なくとも動物たちにとっては天国のようである。まだ人間に対する恐れを知らないとみえて、数十mの距離まで近づいても逃げようとしない。驚くことにこの大草原は氷河末端のすぐ近くまで続いている。動物たちは氷河のすぐ近くでも遊んでいる。夕陽を受けて紅く輝く氷河を背にして立つロバやチルーのシルエットを見ていると、涙が出るほど美しい。
ネパール・ヒマラヤでは、高く登るにつれて喬木が姿を消し、次いで灌木が現れる。その灌木も姿を消し、岩と砂と雪の世界となり、そして氷河の世界となるのがふつうである。つまり高みに行くにつれて気温が次第に下がり、ついには草木が姿を消してしまうのだ。しかしこの崑崙ではどうだろう。岩と砂の世界から、生命あふれる大草原となり、そしてその草原に取り囲まれて氷河がある。生命の存在が気温ではなく水の存在とのかかわりで定められているからに違いない。氷河がある、つまり水がある崑崙の高みだけが、周囲の乾燥地の中に浮かびあがった一種のオアシスとしてこの大草原が存在しているのであろう。
5 崑崙の氷河
この日は里田河を遡って、崑崙山脈中の最高峰である崑崙峰に最も近い谷の奥に泊まる。中国では1970年代の半ばころ航空測量を行い、70年代の後半にこの地域の地図を完成させた。まだ完成間もない10万分の1の美しい地図である。この中に、崑崙峰は崑崙山脈中唯一の7000m峰で、標高7167mと記してある。崑崙の最高峰は、ひところ、和田(ホータン)に近いところにある莫斯山(ムスターク)ではないかといわれていたこともあったが、この崑崙峰に落ち着いたようだ。
上記の詳細な中国の地図は、見せてはくれるが絶対にやれないとのこと。それどころか、その管理は極めて厳しい。われわれが見たいというとすぐに地図を持ってきてくれるが、必ず二人ペアでやってくる。もちろん、日本人のところへ地図を置き去りにすることはしない。われわれが見終わると、すぐにまた持ち帰ってしまう。写真機でコピーをとられるのを極度に警戒しているようだ。
中国製の地図を見せて貰って驚いたことは、米軍発行のナビゲーションチャート(崑崙山脈周辺は100万分の1しか発行されていない)が、かなり正しいということである。これだけでも収穫だ。大スケールの議論をするには、ナビゲーションチャートで十分だということだ。世界中にこのチャートを公表しているくらいだから、米軍内部には、中国製のものに劣らないくらい詳細な地図があるに違いない。だから、中国の地図の管理もそんなに厳しくやらなくとも、1部や2部くらいくれたって良いではないか、とも思うが仕方がない。中国製の10万分の1の地図には、約2kmごと、格子状に線が引いてあり、経緯度方向それぞれによくわからない記号が書いてある。なんでも、大砲の着弾地点を推定するためのチャートをこの地図が兼ねているらしく、このことが地図を極秘扱いにする理由の一つなのだろう。
崑崙峰の麓には中4日滞在した。周辺の氷河やモレーンを偵察する。ここでの滞在中、おもしろいものに遭遇した。それは河の末端である。ヘディンも書いているように、このあたりでは「高く登れば登るほど河の水量は増す。下流になると、水が、あるいは蒸発し、あるいは地下に浸透して減るのだ」(ヘディン中央アジア探検紀行全集、『トランス・ヒマラヤ』、青木秀男訳、白水社)。このことは、わたし自身も河の流量観測をしているときに気づいたのだが、そのうち、観測している河の流量がどんどん減っていき、ついにその河の末端ができたときには驚いた。しかし考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。上流から流入してくる水の量が蒸発量と地下への浸透量とを下まわれば、そこには末端が形成されるはずである。供給水量と消失水量とのバランスで、形成された河の末端は前進したり後退したりしている。氷河末端の前進や後退と同じ現象なのだろうが、氷河と違って時間スケールが短いぶん、見ている目の前で変化するのが実におもしろい。崑崙山脈から出る多くの河川も、このようにタクラマカン沙漠の中で消えていくのであろう。
現在では、崑崙の玉で知られる白玉河(ユルンカシュ)を主な水源とするコータン・ダリアもタクラマカン沙漠の砂の中に吸い込まれている。しかしごく最近まで、コータン・ダリアはタクラマカン沙漠を南から北へと横断して、タリム河へと合流していた。白玉河は崑崙山脈の北斜面を主水源としているから、このことは、崑崙山脈からの水の供給量が最近は減少してきていることを示唆しているようである。
シルクロードの南路が、崑崙山脈の北縁つまりタクラマカン沙漠の南縁沿いに走っている。沿道には多くのオアシスが点在しているが、おもしろいことにそのほとんどは古の集落よりも100km近くも南側つまり山側に位置している。言い換えると、従来のシルクロードは現在の道路よりもはるかに沙漠の中央よりを走っていたことになる。このことは、これらのオアシスをかつて潤していた崑崙山脈からの河川の水量が時代とともに減少し、集落がより上流寄りに移動せざるを得なかった歴史を物語っているのではなかろうか。
このあたりの渇水期の水は、そのほとんどが崑崙山脈中の氷河の融解水によってまかなわれていることから考えて、これらの氷河に過去大きな変動が生じていたことが十分予想される。この意味でも、崑崙の氷河の現状や変動史の解明には、大いに興味が持たれるところである。
変動史の解明には、最近脚光を浴びている氷コアの解析が最も有効な手段となろう。氷コアとは、氷河を掘削して採取する長い柱状試料のことで、それの時代に形成された氷が時間の流れに従って得られるものである。この試料を解析することによって、各時代におけるその場所の過去の気候状態や氷河高度などを推定しようというわけである。
7月24日、崑崙峰のふもとのキャンプを引き払い、本観測時に予定している氷コア採取に適した氷河を探しにいくことにした。勝利峠を越えて、郭扎(ゴーツァ)湖側へと入る。この湖は、ヘディンにレイク・ライトンと呼ばれた湖である。このあたりも一面の草原である。ヘディンがこの地を訪れた80数年前には、野生のロバやチルーの他に狼も多数生息していたらしいが、われわれは狼だけは全く見かけなかった。既に絶滅してしまったのだろうか。湖の北岸から南側を望むと、その頂上に雪を頂いた峰々が真っ青な湖の上に立ち並び、一幅の絵を見る思いだ。
ゴーツァ湖と氷河群
われわれはゴーツァ湖を後にして進路を北に向け、崑崙主稜側へと登る。高度5500mを越えてジープもトラックも気息奄々である。氷河末端に近づくにつれて石ころの数が増えてくる。トラックのタイヤよりも大きい石がゴロゴロ出てきて、車は右に左に石を避けながらルートを作っていく。草原では時速50キロ近くで走ってきたのだが、ここでは5キロ以下におちる。目指す平頂氷河(山塊全体が氷河で覆われた小型のアイスキャップつまり氷帽と呼ばれる形の氷河を中国ではこう呼ぶ)の末端にある氷河湖の横にテントを張った。この氷帽は崇測(チョンス)平頂氷河と呼ばれている。
崇測平頂氷河
翌日は休養日だったので氷河湖を一周する。ここまで登るとさすがに草は生えていない。しかし湖にはなまえも知らない小鳥がたくさん遊んでいる。スズメとツバメのあいの子のような鳥である。蝶も飛んでいる。あいかわらず生命が満ち満ちていて心楽しい。湖岸にはロウソク氷が多数できていて、目を楽しませてくれる。
次の日の朝は一面の雪景色となった。積雪5〜8cm、降水量にして約5mmである。崑崙峰のふもとのキャンプ地でも一度降雪があったので、一週間の間に2回、合計10mm以上の降水があったことになる。カンシーバの気象観測所の年間降水量は、1984年の場合で23.5mmしかない。7月と8月の合計はわずか3.3mmである。これらの値と比較すると、わずか1週間で10mmというのがいかに多いことか。山によく降るということなのだろう。だからこそ、氷河も形成されるし、そして周囲の乾燥地帯への水源としての役割を果たすことができることになる。山麓にある大草原もうなずける。
。翌7月27日。快々晴。平頂氷河に登って氷河を試掘してみることにする。モレーンの丘をできるだけ登ってから氷河上へ下り立つ。裸氷の表面に数cmの雪をかぶっているので、念のためザイルを出してコンティニュアスで進む。氷河上は傾斜も緩く歩きやすい。この程度の傾斜ならスノーモービルでも十分登高できそうである。そうすれば本調査のときには荷上げがずいぶんと楽になるだろう。
傾斜も緩くコワイところもないが、6000mを超えるとさすがにしんどい。氷帽の頂上は無理としてもその手前にある肩まで行くつもりで出発したのだが、行けども行けども目の前に見えている肩になかなかたどり着かない。夕方4時頃になって、もうここらでよかろうと妥協して登高を中止。途中ではあるが、そこで氷河を掘ることにする。振り返るとゴーツァ湖とその南方の峰々が黄砂の霞の中に幻想的に浮かび上がっていた。
ボーリング器財を運んでくれている人民解放軍の兵士、王君と宋君とがやや遅れている。この両君は甜水海の兵営からわれわれの手伝いのために来てくれた人たちだ。標高4450mの兵営に数年滞在しているだけあってこの二人は強い。ともに20歳代前半という若さもあるのだろうが、高所で最も頼りになったのはこの二人であった。
二人が着くまでの間にピッケルで氷河の表面にピットを掘る。50〜60cm掘ったところで黄砂と思われる明瞭な汚れ層がでてきた。もし汚れ層が年に1回しか形成されないとすれば、氷コアの年代や堆積量の推定が非常に楽になる。両君の到着後採取した2mの氷コアの中にも40〜60cm毎に汚れ層が入っていた。これは可能性がありそうだ。もし年間に数回汚れ層が形成されるのなら、層の間の厚さがもっと変化してもよさそうに思うからだ。本調査のときに再度調べればはっきりするだろう。ともかく、この地点に旗を立てておくことにする。ここ以外にもルート上で4本の旗を立てて雪尺にする。次の日にこれらの旗を測量。本調査時に再測すれば、氷河上の雪の堆積速度や氷河の流動速度などを求めることができる。
崇測平頂氷河の頂上からみた北面の氷河
本調査では、われわれが今回偵察した崑崙の南斜面側が主たる調査対象となるが、北斜面を調査する別働隊も出す予定である。したがって、今回の偵察行の最後に、北斜面と南斜面とを結ぶ峠、古里雅(クリヤ)山口の偵察を行うべきであると中国側に申し入れた。これが大議論になった。中国側は明日にも下山するという。現在のキャンプ地でさえ、中国側のはじめの意図に反してかなり奥に入り込みすぎているらしい。峠の偵察の必要性を力説して基本的には中国側も了解したのだが、彼らの出してきた切り札はどうすることもできなかった。もうガソリンがないという。今回のオペレーションは彼らのやり方を見るということもあって、完全に彼らに任せきりだったのが悔やまれる。ガソリン計算をいったいどうやったんだ、と腹も立つが、今さらいってもないものはどうしようもない。妥協案として、ジープ1台で行けるところまで行く、他のメンバーはジープ1台とトラック1台でゴーツァ湖岸までキャンプを下げるということで合意した。
7月30日、キャンプ地を発って東へと向かう。崇測氷河(崇測平頂氷河の東側に長く延びだしている氷河)の末端付近で側堆石を登って氷舌を見おろす。ザクザクに割れた氷河である。というか、氷舌がアイスピナクルの連峰で構成されているといった方が良いかもしれない。氷舌の側方、下方に融け残ったアイスピナクルがポツン、ポツンと取り残されている。氷河が後退したなごりであろう。側堆石の中に直径20mほどの小さな池があった。その水の酸素の同位体組成は海水よりも質量数が18の酸素の割合が多い。池が形成された後に蒸発によって池の水量が減った結果だろう。
古里雅山口までは行けなかった。その横にある古里雅平頂氷河を望見する。この氷河はわれわれが調べた崇側平頂氷河の7x以上もの規模をもつ氷河で、中国国内では最大の氷帽である。その横に並んでいる氷河の列はさながら氷河の展覧会だ。氷河群を堪能してから、進路を南西へ、皆の待つゴーツァ湖へと引き返した。
6 崑崙をあとにして
こうして、今回の偵察行は終わった。主山塊の東端を越える古里雅山口の偵察ができなかったのは何としても残念である。また、そのすぐ西に位置する中国最大の古里雅平頂氷河も遠望するだけで終わってしまった。しかし、次期の本調査のための予察としては、十分の成果があったと考えている。
中国側の隊員達も、終わってみれば気のよい仲間たちであった。種々のいきちがいはあったものの、考えてみればそのほとんどは意思がうまく伝わらなかったことにその原因があったようだ。ともかく彼らとの会話には苦労した。われわれ日本人は2人とも中国語がわからず、彼らは日本語を解せず、中国側メンバーのうち2〜3人がわずかにカタコトの英語がわかるという程度だったからだ。あとは漢字の筆談に頼らざるを得なかった。われわれの中国語の語彙が増えるにつれて、だんだんコミュニケーションができているということを実感として感じられるようになっていった。
今回の中国側隊員の中では、いわゆる指揮権がはっきりしていないようにも感じられた。いわゆる中国側の隊長(とわれわれは思った)の了解をとっただけでは、ものごとが進まないことが多々あったからだ。そのことに関連する設営関係の隊員、特に車の運転手にあらかじめしっかり話をしておくということが、ことをスムースに運ぶ要点のようである。短期決戦スタイルの登山隊にみられるような人間関係ではなく、より長期的な、たとえば南極越冬隊でしばしば感じられるような、じっくりとした内部の根回しを要する構造なのだろう。そういう意味でも、すべての隊員たちとある程度つきあえるだけの中国語の知識があれば、もっと楽しめたのではないかという気がする。
次期の本調査では、今回偵察した地域が主な対象となる。しかし前述したように、崑崙山脈の北斜面にも別働隊を出すことを予定している。北面側は南面側と違って地形も急峻で、車が南面側ほど威力を発揮しないであろう。輸送の主力には、昔ながらにラクダや馬、ロバなどをあてるという旅行形態をとらざるを得ないだろう。そこには、このあたりでは珍しい火山もあれば、ユルン氷河を代表とする長大な氷河も多数懸かっている。「通へる夢は崑崙の・・・」のその崑崙は、今、われわれの目の前にその扉を開いたばかりなのだ。
(2020年6月)
(AACK時報 No.10(1987)掲載のものを微修正)
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