地球の明日のために



ご質問やご意見はメールをお寄せください。

English

人間は、実は何もわかっていない

中尾正義

科学が宗教になっていないか

子供のころ、「太陽は東から出て西に沈むんだよ」と両親に教えられました。うちの近くでも北を上に書いた地図を見て右にあたる方角から太陽が出ます。たしかに太陽は東から出るようです。お父さんやお母さんが言っていたことは本当なんだと思いました。

そうです。朝、太陽は東から出て、わたしたちの頭の上の方を通って、夕方に西のほうへ沈みます。太陽は、毎日毎日私たちの周りをぐるぐる回っているのです。このような考え方を天動説というということをしばらくしてから学校で教わりました。

ほとんどの人は、わたしと同じようにみんな天動説を信じていたことでしょう。地球上に住むほとんどの人も、昔から天動説を信じていたに違いありません。そのことによって見たままの状況が説明できるからです。

大学院の学生になったころ、南極に行きました。太陽が東から出ないのです。夏の時期には、太陽が出るのはどちらかといえば北の方角からでした。しかも太陽が出るのは朝というよりは夜中です。そして斜めに東のほうへ回りながらゆっくりと高くなっていきます。その後、南の空を通って西のほうへ傾いていきますが、夕方になっても沈みません。真夜中に近いころになって、やっと、西から斜めに北のほうへと次第に低くなっていくのです。季節が進んで春から冬に近づいたころになると、太陽は、特に昼間の半日は、地平線を転がるように動きます。転がる太陽と呼ばれる現象を見ることができます。

天動説では困る事態に直面したのです。このときに、自分の体験として始めて、天体の運行を説明する地動説が本当らしいなあと実感できました。学校で教わった、地球と太陽の関係を思い起こせば、このような現象がともかく説明できるからです。

カトリックという宗教もそうだったのでしょう。太陽が地球の周りを回ると考えていました。これに異を唱えて、イタリアの天文学者、ガリレオ・ガリレイという人が十七世紀のはじめに地動説を主張して宗教裁判にかけられたこと、有罪判決を受けて、「それでも地球は回っている」と言ったということはよく知られています。このことは、その後の宗教と科学の争いの端緒だったといわれています。そして皆さんご存知のように、その後、科学は勝利したと言われています。いまでは、科学やその知識を基にした技術は未曾有の発展を遂げてきています。

宗教は人にとって必要なものだと思います。苦しいとき、つらいとき、悲しいときに、宗教よってたくさんの人が救われてきたからこそ、宗教は力を持ってきたのでしょう。でも、宗教ですべてのことがわかる、すべてのことを解決することができる、と傲慢になってはいけないということを、科学との争いの結果は示しているのではないでしょうか。

ところが、最近は科学が一種の宗教になってきているようです。テレビやラジオのニュースを見たり聴いたりしていると、「何々ということが科学的にわかりました」などという表現がしばしば出てきます。「科学的に」ということで、いかにも本当のことであるということを主張しているのです。客観的事実に裏付けられていないときにも・・・・。でも客観的事実に裏付けられたことだけで、言えることは極端に限られます。にもかかわらず、科学ですべてのことがわかる、すべてのことを解決することができると、傲慢になってきている雰囲気を感じます。客観的事実に裏付けられていることが、世の中にそんなにたくさんあるようには思えません。ほんとうに科学ですべてのことがわかるのでしょうか。

自然も人も思いもよらないリアクションをする

これからの地球のことを考えてみましょう。人は今まで自然にたくさんの働きかけをしてきました。その結果が思いもよらない結果に結びつく、そのような例がたくさんあります。また、その結果をなんとかするために、人がどう行動するかということもまた、科学的にわかることの範囲を超えるものがたくさんあります。

たとえば、温暖化によって変わるのは気温や降水量のような気象的な要素だけではなく、農作物の開花時期の変化によって実りが違ってくるということがあります。作物にかぎらず、家畜にとっても夏期などで餌の摂取量が減少して繁殖能力が低下し,肉や乳の生産量が減少する可能性がありそうです。逆に、冬暖かくなって肉や卵の生産性が高くなることも起きるかもしれないのです。さらに、熱帯地方特有の家畜の病気が、媒介するカやハエ・ダニなどの生息域とともに温帯にも広がるおそれもあります。そして、気候が温暖化したときに人がどのように農業を営むようになるかを科学的に予測できるでしょうか。

また、農業生産をあげるために肥料を農地にたくさんやると、そのために雑草が増えてくる。また肥料のために農作物が弱くなり病気や害虫に犯されやすくなる。そこで除草剤や殺虫剤を撒くと雑草や害虫、病原菌だけでなく虫や大切な微生物までもが死んでしまう、ということがあります。このようなことは、科学的にまったくこれまで予見されてこなかったことです。問題を解決するために開発された新しい技術が、もっと厄介な新しい問題を引き起こしてきたといわざるを得ないのです。

さらに、日本の木材が高くなりすぎたために、材木を採るために育てたスギやヒノキが必要な保護をされなくなり、タケノコを採るために育てたモウソウチクが邪魔者扱いされるようになる、とは誰も考えていませんでした。牧畜に害をなす狼を駆逐した結果シカが増えすぎて、守ろうとする自然保護区の生態系が荒らされていることも、そのことに林業振興のための林道の整備が一役かっていることなどは、思いもよらなかった効果なのです。

ことは陸上に限りません。沿岸都市から出てくる栄養分が増えたためか、海の沿岸に護岸用に作られたテトラポットやコンクリートにクラゲのポリプが付着しやすくなったせいか、イワシやアジを人が取りすぎたためにプランクトンが増えたためか、よくわからないけれども、なぜかクラゲが大発生したこと。エビの大量養殖のために、マングローブの森林が伐採され津波の被害を大きくしてしまったこと。だからということで、マングローブの伐採を禁止すると人々が内陸部に養殖池を作るようになり、そのために地下水の揚水量が急増し、水が足りなくなったこと。さらに、エビの養殖のための薬剤が普通の井戸に入り込んで住民の健康被害が心配されるようになってきたことなどがおきているのです。

井戸水にも問題があります。食糧増産のための農業開発が行われ、そのための多量の河川取水が湖の干上がりや草木の衰退を招いたこと。これら生態系を回復するために取った生態移民と呼ばれる政策が新たな水需要を生み出して、井戸を掘って前以上に水を消費するようになってしまったこと。そのために地下水の低下に拍車がかかり、大切な、深い地下水をも使うようになってしまったこと、などです。

一種の現代版「風が吹けば桶屋が儲かる」のひとつとして、以下のようなこともあります。高価な毛皮のためにラッコの捕獲が進み、ラッコが食べていた貝類が増加し、増えた貝に食べられて海草が激減したということです。このような思いもよらない結果を招いた人の活動の中では、とても皮肉な結果をもたらしたものもあります。有機溶媒を使わず加熱温度を低くする措置を肉骨粉の製造工程を導入するという、コスト削減のためだけではなく、従業員の健康によかれという配慮をしたために、BSEという恐ろしい病気が広がるようになった可能性があるのです。

つまり、人がよりよい生活を求めて行った自然への働きかけが、思いもよらない結果となって跳ね返ってくること、そしてその結果、人は思いもよらないリアクションをすること、そしてそれがまた自然界の思いがけない反応を引き起こすことなどなど、人と自然との相互作用環とも言うべき関係がどうなっているのか、実はわたしたちはよくわからないのです。

さまざまな「神話」を疑ってみる

環境問題が広く認識されて以来、環境を良くしようという人の活動も増えてきています。でもその行動がどういう結果をもたらすかということについて、注意深く観察し、深く考える必要があります。生半可な知識だけによる行動は、かえって環境の悪化に結びつくものもあります。

環境問題への取り組みにもさまざまな「神話」が生まれてきています。そのひとつの例が、「木をうえるのは良いことだ」という「しょくりん神話」です。地球全体の環境を良くするためには木をうえるのは良いことだ、という神話が生まれたのです。どのような状況にあるどんな場所に木をうえたらよいかということを考えずに木をうえると、とんでもないことになることがあるのです。

「井戸神話」はもうひとつの例です。水が足りなくて困っているところには井戸を掘ってあげれば良い、という神話が生まれたのです。貧困対策のための開発援助の代表格として、世界各地で井戸掘りに対する援助が行われています。そしてそれは多くの場合、大成功だったと喧伝されています。でも同時に、世界各地で井戸水のもととなる地下水の枯渇が大問題になっているのも事実です。特に深い地下水は、その涵養に気の遠くなるほどの時間がかかることが多く、そういう意味では、深い地下水は、石油などと同じように、再生することができない資源と考える方が適当かもしれないのです。でも人類は、今を生きるために、失われればそれでおしまいという資源に手をつけているのです。

「人の生き方そのもの」が問題だ

すばらしい環境として「里山」が近ごろ脚光を浴びています。里山を守ることは良いことだという一種の「神話」になりつつあるようです。最近は日本の山でマツタケが取れなくなってきたといいます。昔のようにマツタケの豊かな里山を取り戻そうというわけです。

でも立ち止まって考えてみると、里山とは自然の恵みを人が収奪するシステムと言い換えることもできるのです。昔から人は近くの山に入っては、落ち葉を集めて農地の肥料として利用してきました。その場所に昔から生えていた照葉樹などの木々の再生に使われるはずの落ち葉という栄養分を、人は収奪して自分たちの農作物の養分として利用してきたのです。栄養を取られた木々は育つことができなくなり、次第に衰え、栄養がなくても育つころができる赤松などの樹種に取って代わられました。その結果として赤松林に育つことができるマツタケが取れるようになっていたのです。そういう意味では、マツタケは、人が自然を収奪してきた歴史の象徴といえるかもしれません。

そのマツタケが取れなくなったのは、簡単に言えば、人工肥料の導入などにより、人が農地の肥料として落ち葉などを利用しなくなってきたからです。落ち葉の栄養を以前どおり使えるようになることによって、富栄養な土地に生える照葉樹が戻ってきたと言い換えることもできるのです。たとえば人々が付近の山で芝刈りをして暖房や炊事のための燃料として利用していたころの里山は、簡単にいえば禿山だったのではないでしょうか。

そう考えると、里山を守ることは、必ずしも良いこととは限らないように思えてきます。「木をうえるのは良いことだという神話」と同様に、どのような状況にあるどんな場所なら里山を守る必要があるのか、ということをしっかり考える必要があるようです。というよりも、どのような里山を守るのか、どのような里山は守る必要がないのか、あるいはどのような里山にしようかということを深く考える必要があるのではないでしょうか。つまり、人は自然とどう付き合うかということです。人の生き方そのものといって良いかもしれません。

われわれは暮らしているだけで環境に大きな影響を与えます。その結果として自然はリアクションを起こし、われわれ人間に跳ね返ってきます。自然は思いもよらないリアクションをするのです。どういう形で跳ね返ってくるかを、現代の科学はほとんど予見することができないのです。

生態系に重大な影響を及ぼすカナメの種が何なのかということも、その種が絶滅して初めてわかるのです。問題を引き起こす移入種が何かということも、それが野生化してみるまでは、今の科学ではわからないのです。

知識を蓄積する以外に道はない

こういうと、月や火星にまでロケットを飛ばすことができる科学技術の時代に何を言うのかと叱られそうです。でも月や火星にロケットを飛ばすための知識あるいは法則がわかったのは17世紀です。ニュートン力学、あるいは古典力学と呼ばれる、物体の動きを統一的に説明することができる法則です。それから300年以上もたって、やっと月や火星に実際にロケットを送り込むことができるようになったのに過ぎません。

いま地球環境問題の解決に取り組むために必要な、基本的な知識あるいは法則というものはまだまったくわかっていないのです。そういうものがあるかどうかさえわかりません。したがって、地球環境問題を根本的に解決するためには、何が起きればどうなって、その結果を人はどう受け止めてどう行動し、そのことがその後の変化にどのように繋がるかということを、丁寧に、詳しく調べることがまず必要なのです。

科学はものごとを簡単化し、あることとあることとの特定の関係をシンプルに見ることによって多くの法則を見つけ、発展してきました。複雑なことをそのまま見ていては簡単な法則が見つけられないからです。そのためにさまざまな専門分野が生まれ、多くの成果が生み出されてきました。

科学が大きな成果を挙げた様々な法則はすべて経験則に基づいています。AがこうなるといつもBはこうなった、だからAならばBになるという法則です。

地球環境問題を考えるときでも、われわれが知識を得る手段としては経験則以外にはありません。しかし複雑に絡まる多様な関係を個々のシンプルな関係に細切れにすることなく全体像を見なくてはなりません。今までの経験で、どういうことが起きたらどこにその影響がどのように生じたかという全貌を知るということです。そのような知識を蓄積する以外に道はありません。自然にどのように働きかけたらどのような結果が生じ、それに対して人々はどのように反応し、それがどのような変化につながってきたかという人類の経験を調べるということです。

そう考えると、環境研究は歴史研究にほかなりません。しかし今までの歴史研究は、自然と人の相互作用という観点での成果はほとんど生み出してこなかったといわざるを得ないような気がします。いわゆる歴史学は、人の歴史は人の活動のみによって作られたという視点が強すぎて、自然のリアクションやそれに対する人の反応をほとんど考慮してこなかったからです。今までの人類の歴史を丁寧に見直し、そのなかから、われわれはどのように自然と付き合えばよいかというヒントを得る以外に、地球環境問題の根本的解決につながる道はないという気がします。

子供たちに、どう語るか

科学は極端に簡単な状況においては、あるいはそのような状況を作ることによって膨大な成果を挙げてきました。科学は、宗教と同様に人にとって必要なものだと思います。しかし身近なことであっても、あるひとつの出来事が周囲のほとんどすべての事象に影響を及ぼす、いわゆる環境の問題を解き明かそうとなるとほとんど無力です。個々の事象を解剖することはできても、その全貌を知ることができないからです。全体像の解明を目指してはいるはずですがそれには気の遠くなるほどの時間がかかるでしょう。仮に時間をかけても科学的アプローチだけで実現できるとは思えません。つまり地球環境問題の解決を目指そうとしても、科学だけではどうしようもないといわざるを得ないのではないでしょうか。

「自然は思いもよらないリアクションをする」ということを、最近になってわれわれはやっと気づいてきました。そしてこのことは、今のわれわれにとっての天動説のような気がします。そのように見えるからです。わたしたちが親たちから「太陽は東から出て西に沈むんだよ」と教えられたように、子供達に語っていただけると望外の幸せです。そして、神話を疑うことを語ってください。

そのためには、現状では、われわれは実は何もわかっていないということを認識することがまず必要ではないでしょうか。科学で何でもわかる、なんでも解決できると傲慢になってはいけないと思います。環境に何かの働きかけをするときでも、すべてがわかっているわけではないという謙虚な態度が極めて重要です。そうしてはじめて、神話に惑わされることもなく、さまざまの問題それ自身を自らの目で深く見つめ、そして自らの頭で考えることができるようになるのではないでしょうか。

未来の大人である子供たちが、天動説だけでは飽き足りなくなって、自分の頭で考え、地球環境問題の地動説にあたる知恵を生み出してくれることを願っています。

(『子どもたちに語るこれからの地球』 講談社(2006)を微修正)

ホームに戻る