中尾正義
「グローバリゼーション」と南極
「グローバリゼーション」という言い回しを最近よく耳にします。なんとなく分かるような気もする言葉ですが、人によって使い方が違うようにも見えます。地球全体にかかわる環境問題を語るときにも使われるようになってきました。いわゆる地球環境問題です。
わたしたちが地球環境問題を認識しはじめたのは、1980年代の初めの頃です。その頃、地球全体の気温が異常に上昇してきている、そのために極地にある多量の氷が融解して世界の海面が上昇するという話が、マスコミなどに頻繁に取り上げられました。海面の上昇が現実のものとなれば、世界は大変なことになるだろうということは想像に難くありません。太平洋に浮かぶ小さな島はもちろん、世界の大都市の大部分は海面からの高さがわずか数メートルの場所に位置しているからです。つまり地球温暖化と呼ばれる現象がおきれば、海面上昇によって多くの都市や島々は水没の危機にさらされ、その被害は地球全体の問題になるのです。
地球温暖化の原因は、化石燃料と呼ばれる石油や石炭など地下に埋蔵しているエネルギー資源を、われわれ人類が大量に消費したためだといわれています。その結果として二酸化炭素やメタン、亜酸化窒素などの温室効果気体を世界中さまざまの場所から放出して、世界中の大気にあるこれらの気体の濃度を増加させたからだというのです。
つまり問題の原因もその結果も、地域を越え、国境を越えて世界中に広がります。言い換えれば、温暖化を代表とする地球環境問題は、地球上に生を営むわれわれ人類全員が加害者であると同時に被害者でもあるという特徴があることになります。
「グローバリゼーション」という言葉は、地域を越え国境を越える物やお金の流れ、つまり経済活動のことについて使われることが多いようです。あるいは、情報や人の流れが地域や国境を越えて相互に依存しつつ地球規模で広がっている状態にも使われています。
別の見方をすれば、ある地域や特定の場所で、外界との接触を断って自給自足的な生活をしなくなった、あるいはできなくなった、と言い換えることもできるでしょう。好むと好まざるとに関わらず、現代のわれわれは、自分たちが暮らしている地域の外の世界に大きく依存せざるを得なくなってきたということです。地域外の世界に大きく影響されるようになったともいえます。
もちろんその程度は地域によって異なるでしょう。昔の自給自足的な生活に比較的近い暮らしをしているところもまだ残っているようです。そういうところでも、外の世界への依存度あるいは外からの影響の程度は間違いなく増加してきています。
南極大陸は昔から人が住んできた場所ではありませんでした。自然の環境に対する人類の活動の影響がもっとも少ない場所だと考えることもできます。したがって、地球規模の気候変動や環境の自然な変動と、それに対する人間活動の影響を調べるには最適な場所だと考えられます。そのため、多くの国々が観測隊を派遣して調査活動を続けてきました。いま南極で暮らしているのは、限られた数のこれら観測隊の隊員たちです。非常に限られた人間活動ですから、その影響をすべて南極の外へ持ち出せば、南極には環境問題はないことになります。
「グローバリゼーション」という意味で考えると、南極はもっとも極端な場所です。南極で暮らしている人たちにとっては、その暮らしの全てを外の世界に依存しており、生活の全てが外の世界に影響されているともいえるからです。暮らしを支える食糧はすべて南極の外の世界から持ち込んだものです。自給自足からはもっとも遠い暮らしです。生活を支えるエネルギーも、ほとんどすべては船もしくは航空機で持ち込まれます。ほんのわずか現地の風を利用した風力発電も行われていますが、大部分の電気は南極の外から持ち込んだ石油によるディーゼル発電に頼っています。
南極は、人間活動の影響が最も少ない場所であると同時に、「グローバリゼーション」の波を最も強く具現化している場所であると言うこともできるのではないでしょうか。そういう場所で環境問題を考えれば、かえって見えてくるものがあるかもしれません。ここでは、わたしの南極での体験を通して、「ごみ」や「エネルギー」そして「水」について考えてみたいと思います。
日本の南極観測基地
1957年1月29日、わが国の第一次南極地域観測隊(以下では1次隊というように省略します)はリュッオホルム湾にあるオングル島に上陸して、その地に観測基地を開設することに成功しました。「宗谷」という小さな砕氷船による快挙でした。その観測基地が昭和基地です。その後ずっと日本の南極観測の中心基地として活躍しています。
1次隊は11人の隊員を昭和基地に残しました。越冬隊員です。彼らは翌年2次隊が迎えに来るまでの1年間、11人だけで南極の冬を過ごしたのです。次の年、2次隊は無事に冬を過ごした越冬隊員を昭和基地から観測船「宗谷」に収容することができました。しかし悪天候と南極海の氷に阻まれて、引き続いて隊員を越冬させることはできませんでした。しかも、15頭の樺太犬を昭和基地に残したまま帰国せざるを得なかったのでした。15頭の中の2頭、タロとジロとが翌年に3次隊によって発見されたというニュースは、日本中に感動を巻き起こしました。外の世界からの援助が皆無の状態で、2頭は自力で南極の冬を生き抜いていたからです。
昭和基地は1962年に6次隊によっていったん閉鎖されましたが、その4年後の1966年、新たにできた砕氷船「ふじ」の就航によって昭和基地は再開されました。再開時、7次隊の越冬隊員は18人でしたが、その後次第に増加し、9次隊以降しばらくの間は30人前後の隊員が昭和基地で冬を過ごしました。
昭和基地は南極の大陸ではなくオングル島という島にあります。そのために南極の氷のことを調べるには都合がよくありませんでした。氷があるのは南極の大陸そのものだからです。そこで、大陸上に新たに別の拠点を作ることになりました。
1970年、11次隊の旅行隊は、昭和基地から約300キロメートル離れた大陸の上にある地点を選定して、そこに内陸基地を設営することにしました。のちにみずほ基地と呼ばれることになる基地です。基地の設営は、翌1971年に12次隊の旅行隊によって真冬の時期におこなわれました。12次隊に参加していたわたしは、この冬の旅行隊に参加しました。
300キロメートルといえば東京からせいぜいなごやまでの距離です。いまの新幹線なら1時間半あまりの時間で着きます。でも南極の氷雪の上の旅行はさほど簡単ではありません。2トン積みのそりを数台引いた雪上車の時速はせいぜい4〜5キロメートルです。したがって夏の天気が良い時期でも、片道まる2日間くらいかかります。1日中太陽も出ないし天気も悪い冬の旅行では、片道1ヶ月もかかりました。1週間くらい続くブリザード(20メートル以上もの強風をともなう吹雪)に2度も閉じ込められたからです。
100万年前の氷で気候の変化を調べる
そうしてやっとできた内陸基地に、その年の10月から翌年の1月までの約4ヶ月間わたしは他の3人の隊員とともに暮らしました。昭和基地との連絡は、オーロラが出ない電波状態の良い日に細々とつながる無線通信だけが頼りという毎日でした。
内陸基地で暮らしたわたしたちの目的は、基地の下にある大陸の氷を掘削(ボーリング)して、古い時代に降った雪を時代にさかのぼって採取することでした。採取した試料を分析して、昔からいままでの間の気候や環境の変化を復元しようという試みでした。
わたしたち12次隊とそれに引き続く13次隊による2ヶ年の活動では150メートルの深さまでしか掘り進むことができませんでした。そこで、その後1983年と1984年のまる2年をかけて24次隊と25次隊によって再び氷試料の採取がおこなわれました。このときは、目標としていた700メートルに達する深さの試料を採取することができました。過去の年代にしておおよそ1万年前までさかのぼることができる試料です。このとき、わたしは24次隊に参加してほぼ1年間をみずほ基地で過ごしました。
1995年には、さらに南極大陸の奥地、昭和基地から1000キロメートルも離れた大陸の真ん中付近のドーム状に盛り上がった場所に、あらたに観測基地を作ることになりました。後にドーム基地と呼ばれる基地です。ドーム基地では36次から38次までの3年間にわたって8人ほどの隊員が越冬して、過去30万年をカバーする2500メートルの氷の試料を採取しました。その後ドーム基地で隊員が越冬したのは44次隊だけです。しかし主に夏季の活動によって、深さ3030メートルに達する試料の採取に成功しました。それはつい先日、2006年1月のことでした。過去70万年前までさかのぼることができる氷試料です。目下その解析結果に期待がもたれています。
水を使うためには石油がいる
南極の旅行では、初期には犬橇が使われました。冒頭に書いたタロやジロなどの樺太犬は橇を引くためにはるばる南極まで連れて行かれたのです。そのうち犬橇に代わって、雪上車が旅行の主役になるようになりました。でもはじめの頃は、橇を1台か2台しか引けないような小さな雪上車でした。
旅行隊員が分乗した雪上車が橇を引いて出発します。1キロメートルまたは2キロメートルごとに、硬い南極の雪に穴を開けては目印になる旗竿を立てながら進みます。あとはひたすら見渡す限りの白い雪原の上を走るだけです。単調なドライブが続いた後、夜になると走るのを止めます。キャンプ地の設営です。小さい雪上車の旅行では、強風に負けないように設計された三角型のテントを建てます。その中で食事を作り、食事が終われば、寝袋に入って眠ります。
食事に使う水は、テントの外に無尽蔵にある大陸の雪を主に石油を燃料とする携帯用のストーブで融かして作ります。食事が終われば炊事用具や食器を片付けますが、多くの場合、外にある雪でこれらの容器をこすり洗いします。雪はいくらでもありますが、それから水を作るには石油が必要なので、炊事以外には水をまず使わない生活でした。余分の水を作るとそのぶん運ばなければいけない石油の量が増えることになるからです。
昭和基地から南極点までの往復旅行が企てられた9次隊になると、その大旅行のために、新たに大型の雪上車が開発されました。そのなかで、炊事は勿論、ベッドもあって寝ることもできる設備を備えた雪上車でした。この大型雪上車はその後も次々に南極に搬入されて、以後の旅行の主役になりました。
食器は舐めてきれいにする
12次隊の冬の旅行では、2台の小型雪上車に加えて3台の大型雪上車を使いました。ブリザードに閉じ込められたときには、10人の旅行隊員全員が大型雪上車の中で暮らしました。外に出るのは炊事用の雪を取りにでるときと、車に燃料を入れるとき、そして大便をするときだけという生活でした。小便は車内でビーカーに採って車の窓から捨てるという毎日でした。日によっては一歩も歩かない日もあるほどです。わたしの場合、車の助手席に広げた寝袋の中に座りっぱなしで、寝るときは、ただ椅子のリクライニングを倒すだけという暮らしが、数日間続いたこともありました。
そうなると車から降りて食器を雪でこすり洗いするという作業も面倒になるものです。食事後は、自分の舌で食器を舐めて綺麗にしてそのまましまうことがほとんどでした。トイレットペーパーで拭いて食器をきれいにする人もいました。でも拭いた後の紙くずをどこかへ捨てなくてはいけません。ごみ処理という問題がでてくるのです。当時は、ごみを減らそうという気運があったわけではありません。ただ紙くずの処理が面倒だから食器は舐めてきれいにしてしまおうという人が多かったようです。食器を水で洗うのはもってのほかでした。水が、そしてその水を作る燃料がとても貴重だということをみんな認識していたからです。
みずほ基地のトイレ
みずほ基地がまだ内陸基地と呼ばれていた頃です。われわれ12次隊の4人が内陸基地で過ごしていたのは、冷凍庫の中でした。日本での使い方とは逆でした。外はとても寒い南極でも、冷凍庫の中は石油ストーブの暖房で暖かいという使い方でした。ストーブは冷凍庫の部屋の真ん中において部屋全体を暖めるようにしました。その上に直径50センチメートル、高さ40センチメートルほどの大きななべを置き、食事当番の隊員が外の雪をシャベルですくって運んできては、なべの中に放り込んで水を作っていました。夜こそ、燃料の供給量をいくらかは減らしましたが、ストーブは一日中燃え続けています。ですから、その上の鍋に雪を入れて水をつくるということによって、貴重な燃料を浪費しているという感じはありませんでした。どっちみち暖房のために燃料をたいているわけですから。したがって必要なだけの量の水をつくっていました。旅行隊とは異なり、食事後の食器も水で洗いました。その時に4人の隊員のために作った水は1日平均30リットルほどでした。1人1日あたりほぼ8リットルということになります。
トイレはどうしていたでしょうか。雪洞を掘ってその中に木枠をすえつけ、やや大きいビニール袋をセットしてその中に排泄していました。そして袋が一杯になると表の雪面に運び出して捨てていました。トイレの袋交換は食事当番の大事な仕事に一つでした。台所から出る生ごみなどのいわゆる生活ごみも、同様にビニール袋に入れて外の雪原に放置していました。しばらくするとその上に雪が積もって見えなくなります。一面真っ白の雪原に戻るので汚いという感じはなくなるのです。長い時間が経てば上から次々に雪が積もるので、これらのごみは次第に雪面の下に深く潜っていき、そのうちに氷となる雪の中に閉じ込められることになります。そして数千年、数万年の後には南極大陸の氷の流れによって海岸へ運ばれ、最後には海へと流れ出すことになります。
ごみは埋めるか、燃やすか?
ごみを捨ててから海へ出てくるのが数万年先なら、南極は核廃棄物を捨てるのに最適な場所だと考えた人がいました。核廃棄物はそれからでてくる放射線が人体に対して極めて有害ですが、射出される放射線の量は時間とともに次第に減っていきます。数万年も経てばもはや人には無害な物質へと変質するのです。したがって、南極の氷に埋めることによって、その時間を稼げば良いと考えられたのです。
しかしこの考えが実際に試されることは幸いにもありませんでした。核廃棄物からでる放射線が南極の氷にどんな影響を及ぼすかがよく分からないのです。氷の温度を上げて大陸の氷が急激に海に向かって流れ出すかもしれません。もしそんなことが起きれば、最近の温暖化どころか、突然に世界の海面が上昇してしまうかもしれないのです。なにせ南極の氷が全部海に流れだせば、世界の海面が60メートルから70メートルも上昇するだけの氷が南極にはあるのですから。いったんそんなことが起きれば、もうそれを止めるすべをわれわれ人類は持ち合わせてはいないのです。
話をみずほ基地のごみにもどします。雪原に放置されたごみは雪に埋められて見えなくなり、汚くは感じなくなります。しかしごみの量自身が減るわけではなく、見かけ上汚くなくなるだけの話しです。そこで、やはり廃棄するごみの量を減らすべきではないかという話になりました。手っ取り早い解決は、燃えるごみは出来るだけ燃やして、そのぶん雪に埋めこむごみの量を減らそうというわけです。そう主張した隊員は、せっせと雪原の上で燃えるごみを燃やしました。しかしこれが大議論になりました。燃やすということは、すすなどの燃えカスや二酸化炭素など燃焼によって生じる気体を、あたり一面にばら撒いているだけで、かえって南極を汚していることになるのではないかという反論が出たのです。結論は出ず、食事当番によって燃やす人もいれば、燃やさずにそのままビニール袋に入れて雪面に放置する人もいたという状態でした。
南極の環境とごみ処理問題
最近になると、環境の重要性や生態系の保護が世界中で強く叫ばれるようになりました。南極の環境や生態系も例外ではありません。1991年にスペインのマドリードで「環境保護に関する南極条約議定書」というものが南極条約協議国会議で採択されました。この議定書はその後1997年までに南極条約協議国である26の国全員によって批准されたことによって、翌1998年の1月に発効しました。
議定書の発効もあって、わが国の南極地域観測隊は、以前の観測隊のごみも含めて、なるべく日本へ持ち帰るという努力を始めました。1990年代のはじめ頃までは南極から持ち帰るごみの量は毎年40トン程度でしたが、1999年には100トンあまり、2000年以降は毎年200トン程度のごみを持ち帰るようになっています。持ち帰ったごみは、国内で出たごみと同様のごみ処理をしているそうです。
でも全てのごみを持ち帰るというのはほぼ無理です。持ち帰るのは、缶や瓶、バッテリーや廃液、廃油など有害な物質に限られるという現状です。みずほ基地の場合と同様に、燃やせる物は燃やして持ち帰るごみの量を減らしています。
ダイオキシン発生などの問題が生じるため、以前のように、みずほ基地やドーム基地の周りの雪の上で可燃物を燃やすことはなくなりました。その代わり、昭和基地まで持ち帰ってきちんと整備された設備で燃やすようになっています。しかし燃焼によって生じる気体などをあたりに撒き散らしていることは以前と変わりありません。
大便の灰を日本へ持ち帰る
問題になるのは排泄物です。南極観測の開始以来、旅行隊の場合は車の外の雪面の上に適当に排泄していました。みずほ基地の場合には、先に話しましたように雪洞の中でビニール袋の中に排泄し、その袋を定期的に雪面の上に捨てるという処理をしていたわけです。昭和基地でも開設当時にはトイレはなく、戸外の、主に海岸にある海氷の割れ目付近で用を足していた人が多かったそうです。つまり、海に排泄していたということになります。そのうち基地内に水洗トイレが作られましたが、これも一定量のし尿がたまると、海に排出していました。基本的には同じことです。
海は全てのものを飲み込み分解して、いわばごみではなく天然の有機物にしてくれる母なる存在と考えられてきました。しかし、同じ場所に多量のごみが出るとその処理能力を超え、生態系の破壊へとつながることが認識されてきました。そこで最近は、大便はバイオテクノロジーで分解、水分を減らしたあとで焼却し、灰を日本へ持ち帰るという方式がとられています。ドーム基地の場合も、同様の処理をして灰を昭和基地へ持ち帰り、さらに日本へ持ち帰る方式が採用されているようです。
南極で暮らす人々は、その生活に必要なもの全てを南極の外から持ち込みます。ですから、持ち込んだもの全てをその廃棄物も含めてもとあった場所へ戻せば、少なくとも南極自体には人間活動の影響はないことになります。しかしこれは現実的には可能ではありません。人の生活そのものが周囲の環境と複雑に絡み合う以上、生活しないこと以外には環境への影響をゼロにするということはできないのです。
人はどれだけ水が必要か
ロシアの文豪トルストイが書いた「人はどれだけ土地が必要か」という民話調のお話があります。話の骨子は以下のようなものです。
「土地さえあればいくらでも儲けることができる。充分な土地さえ手に入るなら悪魔だって怖くはない」という貧しい農夫の独り言を聞いた悪魔がたくらみます。悪魔のおかげで農夫は土地を手に入れ、その土地で耕し、収穫物を売って儲け、儲けたお金でさらに土地を買い、という具合にどんどん所有する土地の面積を増やします。農夫はさらに、農業というものを知らない牧民のところへ出かけて行って、もっと広い面積の土地を手にいれようとします。牧民は鷹揚でした。朝日が出たときに歩き出し、日が沈むまでに出発した場所に戻って来さえすれば、その間に歩いた道筋で囲まれた土地全てをほんのわずかのお金で農夫のものにしても良いというのです。そのかわり、日が沈むまでに元の場所へ戻ることができなければ、お金は全て没収されます。
農夫は勇んで出発します。まだまだ大丈夫だ、とばかりにできるだけ広い面積の土地を手に入れるために歩き続きます。最後のコーナーを曲がって出発した場所に戻ろうとしたときには、太陽との競争になりました。あまりにも欲張って広い土地を手に入れようとしたために、太陽が沈むまでに元の場所に帰れなくなるほど遠くまで来てしまっていたからです。ともあれ最後は、走って走って走って、息も絶え絶えにやっとのことで出発点に戻ることができます。牧民が言います。「あなたはとても広い面積の土地を手に入れることができた、おめでとう」。でもそのとき、農夫は息が絶えてしまいました。牧民は彼の遺体を埋めるために、その地に穴を掘りました。その大きさは畳1枚ほどで充分でした。というお話です。
水は人が生きていくためには絶対に必要な物質です。水が無ければ人を含む全ての生物は死んでしまいます。降水量が極端に少ない沙漠には草も木もほとんど生えていません。動物もほとんどいないのです。
南極も降水量は少なく、年間数十ミリメートル以下の場所が大部分です。降水量だけ見れば南極は沙漠とほとんど同じなのです。降ってくるのは雨ではなくて雪です。気温が非常に低いので雪は融けることなく積もります。積もった雪は更にその上に積もる雪の重さで圧縮されて次第に氷になります。何千年何万年にもわたって降り積もった雪が圧縮された氷の塊そのものが南極大陸です。その厚さは平均2000メートルにも達しています。
降水量が少なく白い雪で覆われている南極は白い沙漠と呼ばれることもあります。降水量は少なくても、南極には水という物質はふんだんにあります。南極大陸は氷でできた大陸だからです。しかし人間もそうですが、一般に生物は、液体の水を必要とします。つまり南極では氷を融かして液体の水にしてはじめて人間が使うことができるのです。
水という物質は、その融解潜熱が通常の物質よりも極端に大きい特異な物質です。したがって、氷を融かすには莫大なエネルギーが必要になります。外の世界から持ち込んだ、限られたエネルギーしかない観測隊員の人たちは、エネルギーを節約する必要があります。したがって、水を節約する必要もあることになります。観測隊員たちはどのくらい量の水を使っているのでしょうか。
以前に、12次隊のときにみずほ基地で使った水は1人1日あたり約8リットルだったという話をしました。そのとき昭和基地で作っていた水は1日当たり約1トンでした。越冬隊員の数はそのとき29人でしたから1人当たり約30リットルということになります。
昭和基地が開設されたばかりの時の水の使用量については、はっきりした記録が残っていません。しかし4次隊の記録に、水の使用量が1日1人当たり11〜12リットルで、例年に比べて増えている、とあります。つまりそれ以前はそれよりも少ない量、たとえば7リットルとか8リットル程度だったのでしょう。この量は、はからずも初期のみずほ基地の水使用量とほぼ同じということになります。
みずほ基地で水の使用量が増えたのは、風呂の設置と大きく関係しています。8リットルの時代、つまり12次隊でわたしがみずほ基地で暮らした当時は、4ヶ月の滞在中、風呂に入ったのはいちどだけでした。発電機を動かすエンジンの冷却用ラジエーターを入れたドラム缶に雪を放り込んで沸かしたのです。みずほ基地に風呂が整備されたのは、1974年の15次隊からです。でもその頃はまだ風呂を沸かしたのは年に数回という程度でした。しかし、循環式の風呂を導入し、週に2回程度の水交換をするようになった2年後には、1日1人当たり40リットルを超える水を使うようになっていました。その頃、昭和基地の水使用量が1日1人当たり50リットルくらいでしたから、みずほ基地の生活レベルが昭和基地の生活とほぼ同じようになってきたと言えるのかもしれません。わたしがみずほ基地でほぼ1年間を暮らした24次隊当時でも、ほぼ同じくらいの水を使っていました。ドーム基地の場合は、開設当初から風呂が設備されていたこともあって、はじめから1日1人当たり約50リットルという昭和基地と同程度の使用量で推移してきています。
わが国はとても水が豊かな国だといわれています。年間の平均降水量は1700ミリメートルもあり、乾燥地域などとは比べ物にならないくらい水があります。国内で1日1人当たり使う生活用水の量は、ひところは200リットル程度でしたが、最近は300リットルを超えて400リットルに迫ろうとするほどです。つまり南極の基地における初期の使用量x30以上、昭和基地における最近の使用量x8もの水を使っていることになります。にもかかわらず、わが国でも都会を中心に水が充分ではないと叫ばれるようになってきています。いったい人はどれだけ水を必要とするのでしょうか。どれだけ水を使うことができれば満足するのでしょうか。トルストイの悪魔に魅入られているのでしょうか。
暮らすだけで環境に大きな影響がある
はじめに、南極で暮らすために必要なものは全て持ち込まなくてはいけないという話をしました。南極での生活はすべて外の世界に依存しているからです。南極の外から持ち込んだものをその廃棄物を含めてすべてもとあった場所へ戻せば、人間活動は南極の環境に影響を与えないことになります。しかし、し尿の処理や可燃物を燃やすという現状を考えると、全ての影響を取り除いて南極で生活することは可能ではありません。雪を融かして作っただけのきれいな水を雪面に撒くだけでも、付近の雪の温度を上昇させて、一種の熱汚染という現象が生じるのです。
南極は、ほとんど人間活動がない場所です。今までお話してきたように、そういう場所における極端に限られた数の人々の生活でさえ、生活しないこと以外、人間活動の影響を取り除くことはできないのです。ひるがえって、多くの人間が暮らすたとえばわが国を考えて見ましょう。周囲には様々な人々による様々な暮らしがあります。したがって人が暮らすということによって環境が大きく影響されているということが南極ほどわかりやすくはありません。しかし基本的には同じことが生じているはずです。つまりわれわれが暮らすということそのことだけで、環境に大きな影響を与えているのです。
水の消費にしても、南極では水が貴重だという話をしました。しかし同じことがわが国の場合にも言えるのではないでしょうか。都会などでは特に、水の供給にあまりにも多様な人の活動が関わっています。したがってどちらかといえば見えにくいのですが、わが国の場合でさえ、水はとても貴重なはずなのです。水が足りないと文句をいう前に、人はどれだけの水が必要なのかということを、考え続ける必要があるのではないでしょうか。
(『子どもたちに語るこれからの地球』 講談社(2006)を微修正)