環境一神教時代



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環境一神教時代

地球環境問題が引き金となって、環境問題に対する人々の意識は急激に高まっている。様々な商品のうたい文句の一つとして「地球にやさしいエコ製品」という言葉は完全に定着した。豊かな環境を取り戻そう、環境を守ろう、という運動も盛んである。このような風潮の中で、環境のために何を行うかという中身が問われるべきだが、目的意識が独り歩きして、何をするかを問題にすることが少ないと危惧するのはわたしだけだろうか。

地球環境問題も含めて、環境問題というものは、いずれにしろ、長い歴史をかけたヒトと自然とのかかわりの帰結である。ヒトの自然への働きかけとしてしばしば問題視されるのは、いわゆる開発である。様々な開発は、ヒトが「欲しいものを手に入れようとして、自然に手をかけた行為」である。その結果、そのものは手に入れたかもしれないが、その行為の副産物として、思いもよらない変化あるいは影響が環境に生じた、ということが問題にされている。その影響の及ぶ範囲は自然環境だけとは限らない。地域に住む住民の経済活動や生活に与えた影響も大きい。さらに、それぞれの地域固有の文化に与えたインパクトも無視できない。自然に対して何らかのアクションを起こせば、きわめて広範囲にその影響が及ぶ。問題は、その多くのことが、開発行為を発意し実施する時に全く想定されていなかったということである。

環境時代ということもあって、いわゆる開発行為への規制は強化されてきている。開発が環境へ与える影響を、開発行為を行う前に評価すべし、という枠組みもはめられるようになってきた。いわゆる環境アセスメントである。

加えて、古き良き時代の環境を取り戻そうと、環境復元のための活動が行われる。次第に悪化する環境を守るためには、環境保全活動が行われる。失われた森林を取り戻すために人工的に木を育てる活動は前者の例だし、特定の場所を囲い込んでヒトの立ち入りを禁止する行為は後者の例である。

しかし、これらの行為もまた、ヒトが自然に手をかける行為に他ならない。その行為そのものが、環境に新たなインパクトを与える。たとえば、育林活動は「環境の回復」という新たな水需要を生み出したとみなすこともできる。水が豊かな地域ではさほど問題にならないが、もともと水の少ない乾燥地域では、何かに使われている現在の水利用にしわ寄せしない限り、「環境のために」という新たな水需要を満たすことはできない。「環境のための新たな水利用」は、広範囲にその影響を広げる。たとえば1997年に新聞紙上をにぎわした黄河の断流現象も、上流域での育林活動がその元凶らしい。そういう意味では、環境回復・保全活動も、より良い環境という「欲しいものを手にいれようとして、自然に手をかける」という点では、広い意味での開発行為に他ならない。

しかし今や環境一神教時代である。「環境のために」という言葉に勝つのは容易なことではない。「環境のために」と行われる行為に疑義をはさんだだけで、「環境のために」という目的意識に反対していると受け取られて非難される。 環境のための活動であろうとも、その行為がどういう結果をもたらすか、どのような影響を与えるかということをあらかじめ評価することが極めて重要になる。しかし環境のための活動は、いわゆる開発とみなされることは少なく、その行為の影響を事前に評価する環境アセスメントが適用されることはほとんどない。

いわゆる環境アセスメントにも問題は多い。たとえば、実際に評価を行うにあたって、誰が評価をするのか、どのように評価するのか、評価結果をどのように利用するのか、などあいまいなことも多い。影響を評価する相手が自然環境に限られるという問題もある。評価の対象であるアクションを実施することを自明のこととして、アリバイ的に評価がなされる例も多い。その場合は「なにもしない」ということは初めから選択肢にないのである。一般の人々の意向を評価にどのように取り入れるのかという点についても、世界的にみてもまだ試行錯誤の段階である。アクションを起こす前にその行為の中止をも含めて評価することや、そもそもある特定の地域でどのようなアクションが許容されるのかをあらかじめ評価するといった、一種の戦略的アセスメントの概念も提示されてはいるが、実際に実施された例は極めて限られている。

これらのことは、狭い意味の開発に限らず、「環境のための」活動にもあてはまる。「環境のため」とはいえ、自然に手をかけるその行為が、どのような結果をもたらすかを事前に評価することが重要なのだ。いわゆる開発行為に対するのと同様に、注意深く吟味する必要がある。評価することは難しくとも、少なくとも想定する必要があるのではなかろうか。「環境のために」行われる行為が環境に悪いはずがない!と傲慢になってはいけない。

しかしわれわれの能力は極めて限られている。行為の影響を評価しようとしても、あるいは想定しようとしてもよくわからないことも多い。仮に想定したとしても、「思いもよらない」想定外の変化が生じてしまうこともある。したがって、思いもよらないことが生じるかどうかを注視し、真摯に認知し、それへの対応を検討して舵を切りなおすという柔軟な姿勢を持つ以外になかろう。要は、どんなに緻密に予測し、検討していても、「想定しないことが生じる」ということを想定しておくということである。謙虚たれ!と言い換えても良い。

環境問題は数多くの要素が複雑に絡み合っている。それら要素間のつながりを解きほぐし、ヒトの行為の影響を予測あるいは想定しようとしても容易なことではない。またその行為を発意するヒトの価値観をも探らねばならない。環境問題の解決に向けて、今後も断えざる研究と、その結果に裏打ちされた洞察とが組み合わされた探究が必要となろう。

(「雪氷」71巻1号(2009)より)

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