羊肉をめぐる探検



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中尾正義

わたしが初めて中国の地を踏んだのは1985年7月のことでした。崑崙山脈での氷河調査が許可されたという報を受けて、その予備調査が計画されたからでした。生まれて初めての中国にたった一人で戸惑いながらも、北京から引き続きウルムチ(烏魯木斉)へと向い、そこで渡辺興亜さんと合流しました。

 ウルムチの街は色彩にあふれていました。原色のスカーフをかぶり、まさに西域情緒あふれる衣装を身にまとったウイグル女性が目を引きました。彫りが深い顔立ちにブルーの瞳。出会う女性は、子供も含めて皆いわゆる美人です。人々の多くが人民帽に詰め襟姿という北京とは全く異なる世界でした。 ウイグルの少女

 街中で、もう一つの出会いがありました。それが?羊肉(カオヤンロウ)です。串に刺した羊肉に塩と唐辛子、香辛料とをまぶして炙った、焼き羊ともいうべき食べ物。羊肉串(ヤンロウチュアン)ともいわれるウイグル族が大好きな肉料理です。日本の焼き鳥よろしく、細長い形をした炉に炭火をおこし、肉を刺した串をその上に並べます。その串に、塩と唐辛子の粉、それに香辛料の粉を振りかけながら、串を時々回転させつつ焼きあげます。いわゆる中華料理とは全く異なる味なのです。今まで食べたことのない味と食感にすっかりファンになってしまいました。

 ビールを飲みながら?羊肉を食べればうまいだろうなあと、誰でも思うはずです。残念ながら、ウイグル族はイスラム教徒で、?羊肉を食べさせる店にも屋台にもアルコールの類いは全くありません。当然ビールもありません。注文すれば、ホテルの食堂ならビールは出てきます。値段も安く、街中の雑貨屋でも売っていて容易に手に入ります。しかし問題はその暖かさです。ホテルで提供されるものもすべて、真夏の気温に充分になじんだ生ぬるいビールです。何とか冷やす方法はないものだろうか?と考えました。

買ってきた暖かいビール瓶をタオルですっぽりと包み、水を張った洗面器の中に立てます。そしてなるべく風通しの良い場所に置くのです。すると、さすがに乾燥地です。小一時間もすれば確かにビールは冷えてくれるのです。手始めに行ったこの試みによって、偉大な水の蒸発潜熱に感謝しつつ、渡辺さんと「かくあるべし!」とおいしく飲んだものです。

しかし人間とは贅沢な生き物です。上記の方法では、幾分冷たくなったとはいえ、暖かくないという程度にまで冷えたにすぎません。日本で提供されるような、冷蔵庫で冷やしたほどにまで冷たいビールへの想いはますます募りました。

その気持ちが通じたのか、街を散歩しているときにアイスクリーム屋さんを見つけたのです。その店のあるじに頼み込んで、アイスクリームを作るのに用いる冷媒のブラインで、われわれが買った生ぬるいビールをしっかり冷やして貰うことができました。そのビールの旨かったこと!「虚仮の一念」というべきなのか、あるいは「窮すれば通ず」だったのかもしれません。こうして、冷たいビールが手に入るようになりました。そのビールを抱えては?羊肉の屋台を訪れ、はるかにおいしく感じる?羊肉を賞味したことはいうまでもありません。

その2年後、1987年は崑崙山脈の本調査の年です。この年の調査は東海テレビの協力がありました。当時は、NHKによるシルクロードシリーズの番組放映の影響もあって、シルクロードブームでもありました。東海テレビは、テレビ局開局30周年記念番組として、シルクロードのロマンとわれわれの調査活動とを組み合わせた番組を制作しようと計画したようでした。

そこで、崑崙山脈での氷河調査を行う調査隊本隊よりも先に出発する先遣隊を組織することになりました。先遣隊は、崑崙へ入る前に、タクラマカン沙漠周辺でシルクロードにちなんだ取材・撮影をしようするものです。その後本隊と合流して、一緒に崑崙山脈へと分け入り、研究者による調査活動とその活動の様子の映像撮影を行うという計画になりました。

1987年の本調査の雑用係(中国側のネーミングでは秘書長)であったわたしは、樋口敬二先生や東海テレビのディレクター国分道雄さん、ビデオカメラマンの中島洋さんと伊藤慶男さん、スチールカメラマンの杉村紫世さん達とともに、先遣隊として本隊よりも先に出発しました。中国側の秘書長である韓建康さん以下中国側隊員や運転手を加えて総勢15人がトヨタのランドクルーザー2台とトラック1台に分乗しました。 嘉峪関

中国側共同研究機関の蘭州氷河凍土研究所がある蘭州を出発し、河西回廊を西へとたどります。映像撮影をしながら、明代の長城の西端である嘉峪関を通り、敦煌、陽関遺跡などを訪れました。さらにツァイダム盆地を抜けて、タクラマカン沙漠の南東部にある、昔はチャルクリクと呼ばれていたローチャン(若羌)でタリム盆地に入ります。そこから、タクラマカン沙漠の周囲を取り囲んでいる公路を時計回りに走ります。崑崙山脈の北麓に沿って西へと向かうことになります。

山麓と沙漠との境目には崑崙山脈から流下する河川の水を利用するオアシス都市が点在しています。それらのオアシスをつないでいる現在の公路は、かつてのシルクロード天山南路の南道に相当しています。南道沿いのオアシス都市の中心地、ホータン(和田)を目指しました。途中、泥の海につかって水浴びをするラクダの姿などを目にすることもありました。

沙漠の河 ラクダの水浴び

チェルチェン(且末)を過ぎ、ホータンに着く前に、ミンフォン(民豊)という集落に宿を取ることになりました。ほとんどがウイグル族である街の人達はわれわれを大歓迎してくれました。真偽のほどはわからないのですが、ヘディン探検隊以来初の外国人だということでした。大多数の人は外国人を始めて目にするとのこと。街のすべての家が「自宅でぜひもてなしたい」と言っているとのことでした。

その地に泊まるのは一晩だけの予定です。すべてのお宅を訪問することなどできるわけがありません。申し訳ないがどこかのお宅一軒だけに絞ってもらえないか、とお願いしました。しかし二軒だけはどうしても行ってくれとのこと。街の有力者二軒がお互いに譲らないのだそうです。とはいえ、時間的にも、われわれの胃袋にも限界があります。なんとか調整をお願いしましたが、やはり二軒には行って欲しいとのことでした。その理由は、二軒とも「もう羊を殺してしまった!」ということでした。

 「羊の丸焼」のもてなしでした。日本で食べた羊肉と違い、臭みがありません。後に訪問するもう一軒のお宅のためになるべくセーブするのでしたが、ついつい料理に手が伸びるしまつでした。二時間ほどごちそうになってから案内された次のお宅でも、まったく同じ「羊の丸焼」料理が出ました。やはりうまい。先ほどのお宅で、お腹いっぱいになったはずなのですが・・・。

どちらのお宅で頂いた羊肉も、日本で食べたことのある羊肉とはその味の根本が大きく違うような気がしました。天然の草で育つ羊はこんなにも旨いものなのでしょうか。魚の刺身でも天然物と養殖ものとは味が違う!とよく言われますが、それと同じことなのかもしれません。 羊の丸焼

最近中国では、羊などの放牧で生計を立てている遊牧民の定住化政策が進められてきました。草原を移動しながら暮らしていた遊牧民は、基本的に政府が準備した移民村に住むことを求められます。ひとつには、彼らの飼う家畜達による環境破壊から自然を守るためだともいわれています。自然の生態系を守るために遊牧民を移住させる、いわゆる「生態移民」政策なのです。定住化した彼らが牧業を続けるためには、家畜たちを畜舎の中で育てざるを得ません。しかし遊牧民は、街区に移住することによって家畜の餌を得る天然の牧草地を失っています。家畜たちの飼料は、自ら栽培するか、現金で購入するかして調達する必要があります。

この政策は、それ自身が豊かな天然の草原を失うことに?がるという側面を持っています。新たに必要になる飼料栽培のための農地開発によって草地が減るということに加えて、飼料栽培のために新たな水需要が生まれ、水が足りないという現象を助長して、天然の草原のさらなる劣化を引き起こすからです。  このような環境悪化が問題になって久しい時間がたちました。各地で草原が退化しているといいます。だからでしょう。中国の乾燥地域を訪れると、「天然の草をたっぷり食べて育った美味しい羊!」という宣伝文句を書いた看板によく出会います。手に入る羊肉の多くが、いわば「養殖の羊」になってしまったのかもしれません。天然の草で育った羊が少なくなり、そのおいしい羊肉が貴重なものになったということの裏返しなのでしょう。

われわれ先遣隊はミンフォンで羊肉を堪能してから、ホータンを経て、昔はカルガリークと呼ばれていたイェーチェン(葉城)で上田豊さん以下の調査隊本隊メンバーと予定通り合流することができました。引き続く崑崙山の氷河調査活動が無事に終了したことはご存じの通りです。

その時以来、くだんのミンフォンの街を訪れる機会はまだありません。彼の地の羊たちも、他の地域と同様に、畜舎の中で人工の飼料で育てられる「養殖羊」になってしまっているのでしょうか。

2001年から2008年までの7年間。わたしは京都に創設された地球研(総合地球環境学研究所)に勤めていました。そこで、「水資源変動負荷に対するオアシス地域の適応力評価とその歴史的変遷」というタイトルの研究プロジェクトを中国の乾燥地域を対象として行いました。現地での野外調査や打ち合わせの会議、成果発表会などのために、その頃は年に数回は中国を訪れていました。

中国を訪ねる度に、宿の近くを散歩して?羊肉が食べられる食堂の類を無意識に探していたようです。漢族の人々が主として食べるいわゆる中華料理ではないので、すぐに見つかるというわけではありませでした。それでも、あちこちの街で食することができる場所を見つけては?羊肉を楽しんでいました。北京空港近くのホテルの脇でも見つけることができました。そのホテルに泊まる度に訪れたものです。といいますか、?羊肉を提供していたその薄汚れた食堂に行くために、そのホテルを選んで泊まったと言った方が良いかもしれません。

プロジェクト終了後2008年からの6年間、地球研の親組織である大学共同利用機関法人・人間文化研究機構の、東京にある機構本部に勤務していました。単身赴任をしていたということもあって、谷中や根岸など東京の下街を探検して歩き回る機会が増えました。

神田のガード下で、小さな中華料理屋を見つけました。そこで?羊肉と再会したのです。その店では串に刺した羊肉串スタイルに加えて、羊肉を炒めて?羊肉と同じ味付けにした料理も提供していました。何度も訪れては、注文さえすればすぐに出てくる冷えたビールを片手に羊肉を賞味したものです。矢吹裕伯さんや先日亡くなった門田勤さんなどと一緒に訪れたこともあります。今でも東京に出張の機会があると、かつての中国を思い出しつつ、懐かしい?羊肉を楽しんでいます。

2014年に人間文化研究機構を退職して、家族がいるなごやに戻ってきました。現在はフリーターです。 1993年から地球研に移る2001年までの8年間、なごや大学の大気水圏科学研究所に勤めていました。しかし当時はなごやを探検して歩き回る時間もあまりなく、なごやにはほとんど土地勘がありませんでした。 そこで東京から引き上げてきた2014年からは、竹中修平さんなどと一緒に、せっせとなごや周辺の山へのハイキングに行ったりしています。さらに、なごや鉄道やJR、なごや市などが主催するウォーキングイベントなどに参加しては、なごや市およびその周辺の探検に励んでいます。土地勘もだいぶついてきました。

そして、なごやでもついにあの?羊肉と出会ったのです。やや小汚くはありますが、看板に羊肉串という看板が出ている中華料理店を見つけたのです。しっかりと冷えたビールもあります。その店は基幹バス通りに面していて、千種区内です。興味のある方は声をかけてください。ご一緒して、ウイグル美人を偲びつつ、西域のロマンを食しようではありませんか。

(敬雪時代(2017)より)

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