水問題から地球を考える



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中尾正義(NAKAWO, Masayoshi)

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要旨

中国の西部に黒河と呼ばれる河がある。黒河は、東西文化の交流路としてよく知られているシルクロードを横切って北流する内陸河川である。また、北のモンゴル高原からチベットを経由してはるか南、雲南に到る南北の主要交易路もまた黒河ぞいにある。つまり、黒河流域は東西、南北の主要交易路の交差点に相当しており、歴史的に見てきわめて重要な位置を占めている。乾燥地にあるこの流域では、歴史的に幾度も繰り返して水が足りないという問題が生じてきた。そして現在もまた、極端な水の枯渇が問題となっている。解決には、国外から仮想的とはいえ水を輸入するしかないという。

水問題が生じるたびに、あるときは灌漑水路を引き、またあるときは地下水路を建設し、あるいは地下水を開発することによって人々は問題を解決してきた。言い換えると、人類は、自らのシステム(自分たちの生活の範囲あるいは影響圏)の範囲を拡大するということによって問題を解消してきたのである。しかし、いまや人々の生活のありようは地球規模にまで拡大している。もはやシステムを拡大する場所がないところまできた。地球という天体の領域は限られているからである。システムを広げることによって問題を解決するという、人類が持っていた手段はもはや使えないところまできた。これが、現在われわれが直面しているいわゆる地球環境問題の持つひとつの側面であると考えられる。

KEYWORDS:

history, water, arid region, Heihe River, glaobalization, global environmental problems

黒河流域の水問題

中国西部の青海省と甘粛省、そして内モンゴル自治区にまたがって流れる黒河(Heihe River)は、氷河を頂く祁連(Qilian)山脈に発し、その山麓域から多数のオアシスが分布するシルクロードを横切って北流し、沙漠域を越えて草原域へと続き、最後に居延沢(Juyanze)と呼ばれる湖に注ぎ込んで消滅する典型的な内陸河川である。最近、特に額済紊(Ejina)オアシスを中心とする下流域では、周辺の地下水位が極端に低下してきた。従来使用されていた井戸も急速に水が涸れてきている。付近の木々や草原も危機に瀕してきている。居延沢も見る影がなくなった。これらのことは特に額済紊地域に住む人たちにとっての大問題になっている。その原因は、基本的には、上流に当たる甘粛省の張掖や酒泉などの中流に位置するオアシスにおける灌漑農業のための取水量の増加である。

そこで、中流域における河川水の取水制限や森林の育成という二つの対策が立てられた。取水制限によって下流への流量は増加したが、取水量を減らされたオアシスの農民は、農地を維持するために、井戸を掘って足りない分を地下水で補うようになってきた。森林の育成のためには、山麓の牧民をオアシス周辺に移住させる「生態移民」政策が取られた。しかし移住した牧民は、動物たちの飼料のために新たな農地開発が必要になったのである。農地には当然のことながら水が必要である。下流域の河畔林を回復するために取られた生態移民政策も同様の結果を招いている。つまり今まで以上にオアシスで水が必要になり、下流域はもとより、中流の張掖周辺でさえ浅い井戸は涸れてはじめてきた。それを補うために、深井戸が盛んに掘られるようになってきたのである。

深い地下水はその涵養に気の遠くなるような時間がかかる。そういう意味では、古い地下水は、石油などと同じように、いちどなくなれば取り戻すことが極めて困難な資源と考えた方が良い。その水を盛んに使い始めたのである。 今の黒河流域の水問題を解決するためには、黒河の上流、中流、下流域を全体として捉えることが求められる。しかも、河川水や湖など目に見える地表水だけを見ていてはいけない。目に見えない地下水をも含めて総体的に捉えることなくして、その解決はありえない。

ともあれ、環境の保全と食糧の増産を両立させようという努力がある種の影を落としている現状であろう。限られた水で両者をうまく両立させる素晴らしい案がある。それは「中国が多量の食糧を輸入すれば良い」というものである、という。限られた水は環境の保全に全て回すことができるからだ。

問題の所在

乾燥地帯は日射が豊かである。水さえあれば、作物の育成にはもってこいの場所だということができる。しかし水の存在が極めて限られているからこそ乾燥地帯なのだ。ユーラシア大陸中央部の乾燥地帯では、はじめは、わずかに存在する河のほとりや湧き水を利用して、人々は作物を作り、生活を支えていたことであろう。そのうち、水さえあればもっと多くの作物を作ることができると考え、河から水を引いて灌漑システムを作り上げてきた。さらに水が欲しいと考えて、地下水道の建設など、より遠くから水を引いて、より広い面積を農地に変えてきた。そしてこの努力はすばらしい成果を挙げてきたといえよう。

しかしこのようなことを繰り返すうちに、下流には河の水が行かなくなるほどたくさんの水を使うようになってしまったのである。

河の水が上足すれば、今度は地下水を使おうと、井戸が掘られるようになってきた。井戸水を使った灌漑システムでは、灌漑頻度やその量を比較的容易にコントロールできる。きわめて便利なためもあって地下からの揚水量は急増した。そして地下水位は低下し、中流域でさえ浅井戸は涸れてきたのである。そこで、まだ水が残る深い地下水を使い始めたという現状なのだ。

最近の温暖化によって、祁連山脈の氷河は急速に縮小している。そのため、氷河の縮小分に相当する過剰の水を黒河に供給している。つまり現在のところ黒河の流量は水源地帯に降る降水量の合計量よりも多い。しかし、このままの状態が続けば氷河は百年もしないうちに消えてしまいそうな勢いである。そうなれば、氷河の縮小に伴う融解水という資源はなくなり、河の流量は急に少なくなる可能性が高い。

逆に寒冷化しても、河の流量は減少する。氷河が大きくなり、そのぶん河に流れ出す水量が減るからである。どちらにしろ、黒河の水は将来少なくなると考えられるのである。これらのことを、いまのうちに考えておかなくてはいけないのではないだろうか。

しかし考えてみると、このような水が足りないという状況は何も今に始まったことではなさそうである。昔も同様の現象が生じていたようである。

このことを明らかにするには、古い時代に同地域に水がどのように供給され、その地域に住んでいた人たちがその水をどのように使っていたかを調べ、そしてその結果として水の枯渇という問題が生じていたのかどうかを明らかにしなくてはならない。

黒河流域の歴史研究

額済紊地域を含む黒河流域では、東西文化の交流路であるシルクロードと、南と北との異なる文化が交流するための重要な南北交易路とが交差する。歴史的にきわめて重要ないわば文化の十字路に位置している。このためもあって、同地域は軍事的な最重要地ともなってきた。同地域、特に下流域からは漢代の居延漢簡とよばれる二千年以上も昔の記録が数多く出土している。また、カラホトの遺跡からは西夏・モンゴル時代に記された多数の文書が出土していることも良く知られている。

同地域の歴史的な変遷を調べるには、これらの膨大な文書群が大きな手がかりを与えてくれるには違いない。しかしそれだけでは、当時どのくらいの雨が降っていたのか、水の供給源である祁連山脈の氷河の融け水はどの程度あったのか、水を地面から蒸発させる森林や草原はどの程度の範囲に広がっていたのかなどは全くわからない。これらのことは、文書の類に記載されていないことが多いからである。

したがって、文書研究に加えて、上記の情報を秘めた天然試料の分析による過去の環境を復元する自然科学的な研究をも含めた総合的なアプローチが必要となる。

そこで総合地球環境学研究所では、中国科学院や中国社会科学院傘下の多くの研究機関や大学と共同で、同地域における、歴史的な人と水とのかかわりを調べ、ひいては過去の環境を復元するという多分野統合的な研究プロジェクトを立ち上げて取り組んできた。プロジェクトのタイトルは「水資源変動負荷に対するオアシス地域の適応力評価とその歴史的変遷(Historical evolution of the adaptability in an oasis region to water resource changes)(略称:オアシスプロジェクト(Oasis Project))」という。

オアシスプロジェクトの取り組み

研究は、歴史文書やプロクシー(雪氷コアや樹木年輪試料、湖底堆積物などの代替記録媒体と呼ばれる天然試料)を解読して人間と自然系との相互作用の歴史を復元する研究と、これらの歴史データを解釈するための水の循環にかかわる素過程を解明する研究とに大別される。

文書にしろ、天然試料にしろ、現在残されているこれらの歴史データは時間的にも空間的にも離散的である。したがって、データの抜けたところを補わなければならない。そのためには、下に述べるような個々の素過程を知る必要がある。素過程がわかれば、モデル計算などの手法を用いて、データとして抜けているところを補完することができるからだ。

素過程研究として、地球規模変動にともなう気温や降水量および氷河からの水の供給量の変動がどのように起きてきたのか、供給された水の河川や地下水による流出の過程、また灌漑農業や遊牧産業に水がどのように使われているのか、さらに、そのことによる蒸発散量の評価など水の循環過程を、現地観測や聞き取り調査などにより明らかにすることを試みた。

プロジェクト研究の結果、以下のようなことがわかってきた。

繰り返される歴史

最近の「西部大開発」政策によって中国西部への投入資金や移住人口が急増してきた。黒河流域の人口は180万人を数えるまでにも成長した。しかし黒河地域における人口の急増は何も今に始まったことではない。じつは遠く2000年も昔の漢代に、匈奴と対峙するために一種の屯田兵が多数送り込まれて農業開発をおこなった地域なのである。当時も100万人を越える人口があったと推定される。その後、同地域の人口は一時減少するが、隋・唐代および西夏から元代にかけての時代それぞれに再び急増している。今は何もない沙漠の中に、往時を偲ばせる多くの城址が残されており、周囲には広大なかつての農地が広がっているのである。さらに、明代を経た後に、清代の大盛期を迎えた。

オアシスプロジェクトでは、たとえばカラホト周辺に広がる農地跡を、コロナとよばれる人工衛星写真を立体視し、現地調査と組み合わせることによって、その地域的広がりを特定した。その結果、カラホトが栄えていた西夏・元代におけるカラホト周辺の農地は、現在のエチナオアシスとほぼ同程度の規模であったことも判明した。

また、祁連山脈で採取した雪氷コアの解析の結果、元末から明初にかけて気温は次第に低下してきていたことが明らかになった。いわゆる小氷期の始め頃と考えられる。この時代は温暖化が起きている現代とは好対照をなしている。つまり寒冷化による氷河の成長にともない、一年間あたりの河川流量は降水量の年間合計量よりも少なくなっていたのである。古文書情報でも、西夏時代には水が足りないというよりは洪水のほうが問題であった可能性が高いのに対して、西夏時代の末から元代にかけては水枯渇を示唆する文書が多数残されている。

さらに、末端湖へと注ぐ黒河の流路がその頃カラホト側から西方へと移動したことも明らかになってきた。以前は黒河の水はカラホトとその周辺の農地を潤したあと、居延沢と呼ばれる巨大な河の末端湖に注ぎ込んでいたのである。それが、次第に西方へとその流路を変えたのである。今は涸れてしまったが、数十年前まで存在していたガションノールと呼ばれている湖に黒河の水が流れ込んでこの湖ができ始めたのは、まさにカラホトが滅び始めた時期と一致している。

甘粛省の張掖オアシスにある灌漑水路の吊前を古文書と対応させることによって、どの水路がいつの時代に作られたものかがわかる。水路によっては同じものが現在も多数使われている。その結果、元代に多くの大規模水路が建設されており、つまるところ大規模な耕地開発が行われていたことが判明した。この農地開発は、現代と同様に、オアシス地域での河川からの取水量を増加させ、そのために下流のカラホト地域が水が足りないという状況に見舞われたに違いない。そしてそのことが、カラホトが放棄され砂に埋もれていったひとつの原因と考えることもできる。

元代の後期から明代の初期にかけて、さしも隆盛を誇ったカラホトが砂に埋もれていったのは、寒冷化による氷河の融解水の減少といういわば自然現象と、オアシス地域での過剰取水という人間活動の両者の相乗効果のためであると考えることができる。清代においても、中流域での過剰取水のために下流域が水危機に瀕しているという報告文が、現地を視察した役人によって残されている。同様の現象が、清代に生じていたと考えられるのである。

上に述べたようにこの地域は、自然変動にくわえて、人為的な人口の急増と、それにともなう農業開発などによる急激な水消費量の伸びという現在と類似の現象を、何度も経験している地域なのだ。そしてそのたびに、下流域では水が枯渇するというという現代とほとんど同じ状況が昔から何度も生じていたことが明らかになったのである。歴史は繰り返されていたということに他ならない。

水利の歴史

問題の所在の節に述べたように、灌漑用水の利用によって、中国西部にある乾燥・半乾燥地は広大な農業生産地へと変貌してきた。そしてそのことは、現地の人々に多大な恩恵をもたらした。

中国の灌漑の歴史は古い。黒河流域の場合、黒河の河川水を導く灌漑水路は、遠く漢代には既に現在の張掖のやや下流部に存在していたということが漢書に記載されている。張掖周辺の聞き取り調査によれば、少なくとも唐代には灌漑水路が作られていたようだ。

最下流部においても、漢代には匈奴に対抗するために送られた多数の屯田兵による農業活動のために、人工的な灌漑水路が建設されたであろうと想像するに難くない。ただし、まだ我々は確実に漢代に作られた水路を現地で特定することはできていない。年代測定を行った古い灌漑水路はすべて西夏時代もしくは元代のものであるという結果しか出ていない。実は漢代に使われていたものを西夏・元時代にそのまま使ったためなのかもしれないし、漢代の水路が西夏・元代の水路の下に埋もれているのかもしれない。あるいは、たまたま我々が漢代の灌漑水路を調査していないためなのかもしれない。なにせ灌漑水路跡は現在のエチナオアシスと同程度の規模で広がっているのだ。

明代になると、中流域の張掖付近でも、たとえば洪水河(Hongsuihe)の西洞(Xidong)や東洞(Dongdong)では、河床からはるかに高い段丘に水を導くために長大な地下水路が建設されたことが古文書に記されている。その跡は、地下から掘り出した土盛の列(カレーズでいうシャフトの列)として、人工衛星写真から確認することもできる。このカレーズにも似た地下水路は、14世紀にはじまり18世紀そして20世紀にも、修復を繰り返しながら幾度となく使われてきた。そして現在も、ほぼ同じルートを通る地下水路として現在も使われている。もっとも、建設技術の進歩によって今は鉄パイプが地下に埋設されており、昔とは幾分異なる形態をとってはいる。

清代にこの地下水路の開鑿に功績のあった童華(Tong Hua)は、建立された碑文にその功績が称えられたとのこと。当時のものではないが、彼の偉業を称える碑文は最近にも再度建立されている。古来中国では、河川水のコントロールに功績があったものはいわば聖人、偉人として賞賛されてきたのである。

地球環境問題の持つひとつの側面

今まで述べてきたように、黒河流域では、人口の増加にともなう食糧増産の必要性に迫られると、黒河の水を灌漑して農地を開きそのニーズに応えてきた。さらに農地を増やす必要がでてくれば、地下水路を建設してさらに遠くから水を引きこみ、より広い農地を確保してきたのである。そして最近では、黒河の河川水だけではもはや充分でなくなるに至って、地下水をくみ上げることによって水問題を解消してきた。

つまり、人々は自分たちがすむ地域(システム)に生じた水問題を、システムの範囲を広げることによって解決してきたのである。黒河の上流から灌漑水を引き込むということは、生活が依存する範囲をより上流域へと広げたことになるからである。

それでも水が足りなければ、地下水路を建設して山向こうの、より上流へとシステムの範囲を広げ、その水を利用することによって問題を解決してきたのである。そして最近は、地表水を使い尽くし、地下の世界をも含むまでにそのシステムの範囲を広げてきたのである。

現在はそれでもまだ水が足りない状況である。そしてその解決は「食糧の輸入」であるという。国外から食糧を輸入すれば、問題が解決できると考える向きもあるのだ。食糧を輸入するということは、昨今言われているように仮想的な(バーチャルな)水の輸入に他ならない。輸入する食糧を生産するのに必要な水を輸入するのと等価なのである。

このことは、生活が依拠するシステムの範囲が地球規模まで広がったということである。システムの範囲を広げるという考え方で問題を解決してきた人類というものが持っていた手段が、行き着くところまで来たと言い換えることもできる。いわゆるグローバリゼーションの意味がここにある。

しかし地球システムは有限である。地球全体をシステムとして利用するグローバリゼーションの時代。問題がおきたときに、解決するためにシステムをさらに広げようとしても、もう広げるところがないのである。月や火星へと広げるのはまだまだ先の話であろう。つまり、われわれのシステムは広がるところまで広がってしまい、システムの範囲を広げることによって問題を解決するという従来の手法が、もはや使えない時代になったといわざるを得ないのである。

このことが、地球環境問題と呼ばれる問題の持つひとつの側面ではなかろうか。われわれは、システムを広げるということによって解決するというやり方ではない、全く別の解決手段を見つけなければならないのだ。そういう時代にわれわれは生きている。

(2006年11月に開催された第1回地球研国際シンポジウムで発表したもの)

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