総合地球環境学研究所 中尾正義
七月一日氷河
「あと30分くらいで着くよ。頑張って」と、上から降りてきたおばさんが声をかけてきた。年齢は40歳くらいだろうか。ほとんど荷物は持たず、片手にミネラルウォーターが半分くらい残っているプラスチックボトルを持っている。黄色っぽい帽子こそかぶっているが、あとは市場の八百屋の前で見かけるような地味な普段着といった格好だ。履いている靴もごく普通のズック靴である。
「氷河まで行ったの?」
「ああ、氷に触ってきたよ。冷たくて気持ちよかったさ」 人ふたりがやっとすれ違えるくらいの狭い登山道で立ち話をした。
「どこから来たんだい?」
「日本からだよ。日本には氷河がないから」(注:本稿執筆当時は、わが国の北アルプスの氷河はまだその存在が確定されていなかった)
「遠いところからきたんだねえ。私は蘭州から。娘が氷河を見せてくれるって言うんでねえ」
話しているうちに、娘さんらしい若い女性がふたり山道を降りてきた。孝行娘らしい彼女達は、母親とは違い、原色に近いきれいな色のブラウス姿で、やや着飾っている。若い女性特有の華やかな雰囲気が近づいてきた。ハンドバックを肩にかけ、なんとハイヒールをはいている。彼女たちも氷河の氷に触れるところまで行ってきたのだろうか。
わたしが登っているのは、祁連山脈の中にある七月一日氷河と呼ばれる氷河へと向かう登山道である。万里の長城の西端、嘉峪関から車で3〜4時間かけて峠を二つ越えれば氷河のある谷間に入ることができる。車を降りて山道をたどり2時間もすれば氷河に到着する。 七月一日氷河は、中国で最も簡単に近づくことができる氷河のひとつで、観光客が多い。朝早く嘉峪関を発てば昼前には登山道の入り口に着く。そこから歩いて四時間ほどかけて氷河を往復すれば、夕方には嘉峪関に戻ることができる。日帰りの氷河見物コースである。
ここは中国における氷河学発祥の地である。1958年夏の初め、地理学やその周辺分野のたくさんの中国人研究者がこの氷河に集まった。当時のソ連の氷河学者を招いて、氷河を目の当たりにしながら、氷河とは何か、どんな性質を持っているか、どのようにして調べるのか、などの講義をしてもらったとのこと。この、一種の氷河学校の卒業生が、その後の中国の氷河学を支えることになる。中国の氷河研究の中心である蘭州氷河凍土研究所(現在はリフォームされて寒区旱区環境与工程研究所となった)の歴代の所長は、ほとんどがこのときの卒業生らしい。
その氷河学校が終わりに近づいたある日、この氷河の最も上流までさかのぼるという、当時としての一大事業が挙行された。そしてこの初登頂は成功した。この快挙は急ぎ北京まで伝えられたという。 「われ、登頂に成功せり」登頂が敢行されたのは、狙い通りその年の七月一日であった。実はその日は、1921年7月1日に生まれた中国共産党の37回目の誕生日だったのだ。このことを記念してこの氷河を七月一日氷河と呼ぶこととなったのである。
天の山、祁連山脈
七月一日氷河がある祁連山とは、匈奴の言葉で「天の山」という意味だという。確かにシルクロードが貫くオアシス都市、張掖(西夏や元の時代には甘州と呼ばれていた)や酒泉(同じく粛州)から見ると、天に向かって突き上げるようにそそり立っている。その標高は4000メートルから7000メートル近くにも達する。
この山並みは、200キロメートルにもわたって東西に屏風を立てたように立ち並んでいる。北に目を転ずれば、広大なゴビの沙漠がこれまた東西に長く横たわっている。武威(涼州)から張掖、酒泉、そして敦煌(沙州)へとつながるシルクロードは、南方を扼する山脈と北の沙漠とにはさまれた、東西に細長い平地に沿って伸びている。標高約1000メートルあまりのこの台地は、黄河の西にある細長い廊下のような土地ということで、河西回廊(河西通廊ともいう)と呼ばれている。
河西回廊では、降水量が年間あたり100ミリメートル程度しかない。大部分は草木のないゴビ地帯だ。例外は点在するオアシスだけである。オアシスでは、祁連山脈から流れてくる河の水を引き込んで、農作物や街路樹を灌漑で育てている。そのために、そこだけが緑の島のように沙漠の中に浮かび上がって存在しているのだ。
河西回廊から南方に道をとり、祁連山脈に向かって登っていくと、降水量は次第に増えてくる。標高4000メートル付近までくると、年間400ミリメートルから800ミリメートルにも達するようになる。高みに登るにつれて緑が次第に濃くなってくる。標高が高くなるにつれて、恵みの雨が増えることを実感することができるのだ。土色一色の沙漠地帯からやってきた旅人にとって、高原には、林と草原とが入り混じったほっとする光景が広がっている。
ウイグルの末裔
祁連山脈の山麓部では、豊かな草原を利用して羊やヤギ、ヤクなどを放牧するチベット族や裕固(ユーグ)族の人々の、のどかな姿を見ることができる。 いちど裕固族の人たちに昼食に招かれたことがある。招き入れられて席に着くと、テーブルの上にはひまわりの種やスイカの種などのナッツ類が置いてあった。一種の前菜であろう。つまんでいると、民族衣装に着飾った十代なかばくらいの少女が、お盆をささげ持って入り口から入ってきた。そのままわたしの前まで進んで来ると、お盆をささげたまま、とつぜん大きな声で歌を歌い始めたのである。
お盆の上には、日本の猪口くらいの大きさの盃が六個載っている。もちろん盃にはアルコールと思われる液体がいっぱいに満たされている。招いてくれた主人に言わせると、彼女の歌が終わるまでに、六杯の酒をすべて飲まなくてはいけないとか。遠来の客をもてなす裕固族の習慣だという。
裕固族は、8世紀から9世紀にかけて北ユーラシアを押さえ、北方から唐王朝をしばしば侵しては悩ませたウイグル族の末裔ではないかといわれている誇り高き民族である。いま中国の新疆省を中心に生活しているウイグルと呼称している人々は、歴史上の北の雄ウイグルと呼ぶことによって、彼らの団結あるいはアイデンティティーを確立したのであって、いわゆるウイグルの末裔ではないらしい。裕固族こそがその末裔だという人も多い。
ともあれ、誇り高き裕固族の人たちを怒らせては大変だ。だけど、どういう飲み方をすれば彼らのご機嫌をそこなわないですむのかよくわからない。とりあえず、基本的に大きくは違わないだろうと、蒙古族の人たちがやるしぐさを真似て、「天」と「地」と、そして「人」に感謝をささげる儀式をしてから、はじめの盃を乾した。
盃の中に入っていたのは、中国の一般的なアルコール飲料である白酒であった。白酒は透明な蒸留酒で、アルコール分は強く、50パーセント以上もある。
いつ歌が終わるのかわからないので、ある意味では急いで六杯の盃を乾した。歌が終わってまだ盃が残っていたら彼らの気持ちを傷つけるかもしれない、と思ったからだ。しかしナッツをわずかにつまんだだけのすきっ腹に六杯の白酒はこたえる。盃がいくら小さいといっても、コップ一杯いっきに飲んだのと同じである。
わたしがすべて飲み乾しても、まだ彼女は歌っていた。よかった、間に合った。と思ったのもつかの間、 「歌がちょうど終わるのにあわせて最後の盃を乾さなくてはいけない。あなたは歌が終わるより前に飲んでしまったから、さらにもう六杯!」 と、やっと空にしたばかりの盃六個に、再びなみなみと白酒が満たされた。
こんな楽しいいたずらをする裕固族の人たちが困っている。動物たちを放牧していた豊かな草原に恵まれた山麓部を降りて、オアシスの近くに移れといわれているのだ。話はこうである。彼らが飼っている動物たちが山麓に生えている木々の若芽を食べるために木が育たない。森林がダメージを受ければ、祁連山脈から低平地へと流れ出る河川が涸れて、オアシス地帯で水が足りない現状が深刻化する。だから山を降りろという。生態系を守るために牧民を移動させるという「生態移民」と呼ばれる政策が実行されようとしているのだった。
黒河に沿った交通路
祁連山脈から流れ下りてくる水流は、集まって黒河と呼ばれる大河になる。この河が北に流れて、西夏時代や元時代に栄えた黒城(カラホト)をも潤していた。黒河という河はかつてエツィンゴルとも呼ばれていた流れで、西夏語をもとにして黒い水とも呼ばれる。「黒い」とは強いという意味もあるし、混濁物質が少なく水からの散乱がないという意味では透明なという意味にもなる。
黒河は、豊かな水をたたえていても、それは決して洪水が頻発するような奔流ではない。人や動物がその水を利用しやすい小さい分流や支流がそこここに見られる、 河西回廊の北には、東西に細長くベルト状にゴビ沙漠が横たわっている。黒河は、このゴビ沙漠を東と西とに分けるかのように切り裂く、南北の一条の水の流れである。水や草が容易に得られる黒河の岸沿いならば、往時の軍団も容易にゴビ沙漠を南北に横切って進むことができる。河西回廊から北方を目指すには、この黒河の流れに沿って往くしかない。
黒河は祁連山脈から北に向かって流れ、末端の湖に流れ込んで消える。その湖を越えてそのまま北へ進めば、遊牧民族の故郷、モンゴル高原はすぐ目と鼻の先である。モンゴル高原を根拠地とする遊牧民が南方に進出して河西回廊を目指すにも、黒河沿いに南下するのである。そのまま南下を続ければチベット高原を越えて遠く雲南にも達する。つまり黒河は、東西に伸びるシルクロードと直交する、南北の主要幹線交通路に相当している。
2000年の昔、漢の武帝の寵を受けたカク(雨冠に隹)去病将軍も祁連山中の匈奴の軍を討つために黒河の流れに逆行して南方へと軍を進めた。中島敦の歴史小説「李陵」の主人公、李陵将軍は、5000人の歩兵を率いて張掖から黒河沿いに北上し、末端湖の近くにあった居延城(現在のエチナもしくはエゼネと呼ばれるオアシス)で兵を休ませた後に、そこから北へと出撃したのである。
黒河のまわりの軍事基地
黒河の流れに沿う土地、とりわけ居延と呼ばれる河の末端湖周辺は、今も昔も交通の要地であるとともに軍事上の要地である。
2003年10月15日、中国は、初の有人宇宙船「神舟(しんしゅう)五号」を中国西部から打ち上げ、周回軌道に乗せることに成功したと報じた。発射したのは内モンゴル自治区にある酒泉衛星発射センターである。この発射基地は、張掖や酒泉などのオアシス群がある黒河の中流域と、黒城遺跡を含む多数の遺跡群がある下流域とのちょうど中間辺りにある。もちろん黒河の河岸にある。基地周辺には多数の軍隊が駐留していて、外国人は立ち入りを許されない。現在も中国人民解放軍の最重要軍事拠点のひとつなのである。
わたしたちが酒泉オアシスから黒河の最下流域、黒城(カラホト)遺跡に最も近いエチナオアシスをめざした時のことである。わたしたち外国人は、軍事基地が多数存在する黒河沿いの道を行くことは許されない。酒泉のやや北にある金塔オアシスからは、黒河の流れから離れて、河から10キロメートル以上も西に離れたゴビの中に作られた、軍事基地を迂回する道路をただひたすらに走る。
金塔オアシスを出たところで、「みなさん、カメラやビデオはしまってください」とガイドが言う。「金塔からエチナまでの間は、写真撮影は禁止だし、車を止めてもいけないと解放軍に言われているのです」とのこと。
2001年8月のことであった。わたしたちは何も目にしなかったが、どうも解放軍によるミサイル発射テストのようなものが予定されていたらしい。その後なんどか同じ道をたどって酒泉とエチナとの間を往復したが、写真撮影禁止と言われたのはその時だけであった。しかし、外国人が軍事基地周辺に立ち入って拘束されたという話は、何度か耳にする。軍隊を妙に刺激しないにしくはない。
黒河沿いには、遠く2000年の昔、漢の時代にもたくさんの軍事拠点が築かれていた。多くの遺跡が残っている。軍事拠点の外側には、帯状の広い面積にわたって小石を取り除いた砂を撒き、きれいに掃き清めた天田と呼ばれるものがあったという。掃き清めた砂の乱れ(闖入者やその乗馬の足跡)を見て、敵の接近を知るためのしかけである。軍事拠点への異邦人の接近は、今も昔もトラブルの元である。
黒城(カラホト)を支えた黒い水の恵み
黒城が隆盛を極めた西夏から元の時代には、黒城を取り囲むように黒河が流れていたことを示す絵地図が多数残されている。また、その周辺に多数の灌漑水路が張り巡らされていたことを示唆する文書も、黒城から多数発見されている。いわゆる黒城出土文書である。黒城文書には、水を節約しつつ行う乾燥地農法のガイドもあるし、またその普及に熱心だった中央政府の姿勢をも垣間見ることができる文書も含まれている。
黒城の遺跡の南東に緑城と呼ばれる遺跡がある。そこには長く伸びた灌漑水路の跡をはっきりと見ることができる。その周りには耕作地の跡が広がっている。水路跡の年代測定をしてみると、西夏と元の二つの時代に作られたものだという結果が出た。つまりこれらの時代には、黒河の水を引き込む多数の水路を作り、灌漑農業が盛んに行われていたことを物語っている。
この地域は、漢の時代にも、匈奴に対抗するために多くの屯田兵が送り込まれていた。スウェーデンの考古学者フォルケ・ベルイマンが1930年に発見した居延漢簡(居延で発見された漢字の書かれた木簡)などの解読によってわかったのだ。したがって、このあたりには黒河の水を利用して開発した漢代の耕作地跡もあるはずなのだが、まだわれわれは特定するにはいたっていない。年代決定をした緑城付近の農地や灌漑水路は、たまたま西夏・元時代に新たに開発された所なのかもしれない。あるいは、漢代の水路や農地は、わたしたちが目にしている西夏・元時代の農地跡や水路跡の下に埋もれているのかもしれない。
ともあれ、黒城の隆盛は天の山からの黒い水によって支えられていたということだけは間違いない。
涸れゆく黒河の流れ
この事情は今も変わらない。豊かな黒河の流れは、数々のオアシスを育くみ、河岸の草木を育てつつ、最後は河の末端にある湖を潤していた。20世紀はじめには、ソゴ・ノールおよびガション・ノールと呼ばれる東西二つの湖に流れ込んでいたのである。湖には魚があふれていたという。 しかし1961年には、西にあったガションノール湖がまず干上がり、ついで東のソゴノール湖も1992年には干上がってしまったという。
これら湖の消滅は、エチナオアシスを中心とする黒河最下流部に当たる沙漠域での水が枯渇してきたを示唆している。湖に流れ込む前に、黒河の流れが途絶えてしまったということである。湖の消滅と連動するように、河辺に繁茂していた胡楊の林もめだって衰えてきたという。
1927年秋、スエーデンの地理学者スヴェン・ヘディンが組織した大探検隊がエチナ地域を訪れた。次第に寒くなってくる秋の季節は、氷河の融解も治まる時期であり、雨が降る季節でもない。このため、祁連山脈からの河の流量は通常次第に減ってくる。それでもヘディン隊の測定では、黒河の流れは毎秒20トンもあったらしい。彼らが黒河を渡るのにひどく苦労した様子が、記録映画に残されている。それが今では、黒河が河の様相を見せるのは上流から水を放流する冬の一時だけで、その他の時期は、干上がった河床に遊ぶらくだの姿を見かけるだけとなってしまった。
へディン探検隊の記録映画には、黒河の両岸にジャングルかと見まがうばかりに木々が繁茂している様子が写し出されている。現在エチナオアシスに暮らす古老の話を聞くと、彼らが子供のころは、らくだの姿を隠すくらいの背丈の葦が繁茂していたという。ちょうどヘディン探検隊が訪れた時と同じころである。いまは胡楊の林が細々と残り、河畔の葦の茂みは見る影もない。
最近では地下水にも問題が起きている。エチナ地域にあった深さが数メートル程度しかない浅い井戸はその水位が低下し、多くの場合水が涸れるという現象がおきてきた。そのためエチナオアシスおよびその周辺に暮らす人々は、新たに10メートル以上の深井戸を掘らないと、生活に必要な水が手に入らなくなってきたのである。この状態が続けば、エチナは遠からず滅びてしまうだろう。かつての黒城(カラホト)が滅亡して砂に埋もれてしまったように・・・
気候変化と人の営み
黒城が最も栄えていた西夏時代。黒河の流れはとても豊かだった様子が黒城出土文書に垣間見られる。ところが元時代になると、「この地は水が少なく・・・」という記録が増えてくる。どうして水が少なくなってきたのだろうか。その原因に関しては、京都にある地球研(総合地球環境学研究所)のオアシスプロジェクトの研究によって、以下のようなことが次第にわかってきた。
氷河の上流部では、降ってくる雪は融けることなく氷河の上に降り積もる。表面にある今年降った雪の下には、昔降った雪が順次積もっている。深くなるほど古い時代の雪が眠っていることになるのだ。積もっている雪や氷を柱状にボーリングして採取・分析すれば、時代の流れに従って、昔の様子を知ることができる。特に、雪や氷を構成している水分子の中に含まれている酸素や水素の安定同位体の濃度は、雪が降った時代の気温が低いほどその量か多くなるという性質がある。この性質を利用して、祁連山脈の氷河から採取した試料を分析した結果、西夏から元にかける時代、この地域はどうも気候が次第に寒くなってきたらしいということがわかってきた。
寒くなってくれば、祁連山脈の氷河はどんどん大きくなっていく。降ってきた雪の大半が氷河を大きくするのに使われるからである。そのぶん、河への水の供給は次第に減少してきたと考えられる。つまり地球規模の気候変動によって、黒河の河の流れがゆっくりと減少してきたということである。黒河の最も下流部にあたる黒城では、次第に必要な水を確保するのが難しくなってきたに違いない。 しかし当時も、黒河のより上流にあたる張掖や酒泉のオアシスでは活発に灌漑農業が行われていた。上流側で水をたくさん消費すれば、下流へ流れる水の量がそのぶん減少するのは当然である。オアシス地域での水の消費が、下流の黒河の水を涸らして黒城周辺の水上足を助長していたことは想像に難くない。つまり寒冷化による氷河の成長が、祁連山脈からの水の供給を減らすことに加えて、灌漑農業の拡大が、下流部の黒河の干上がりをもたらしていたことになる。
このことに加えて、黒城(カラホト)の滅亡には、黒城へと流れていた黒河が、東から西へとその流れを変えたことが大きな引き金になった可能性が高い。最近の調査では、黒河の西の末端湖であるガション・ノールができたのは、13世紀以降だと考えられる。ちょうど西夏が滅びた時期、もしくは明の馮勝(フォン・ション)将軍の攻撃の前に元の黒城が落城した時期に重なる。
この流路の変更が何によってもたらされたのかについては諸説ある。 地元の言い伝えでは、攻撃軍が黒城の水の手を切るために、堤防を築いて黒城に水が行かないように黒河の流れを変えたとのこと。そのときに黒城を守っていたのがカラ・バートル(黒英雄)と呼ばれる伝説上の人物である。水の手を切られた彼は、黒城の城内に井戸を掘るが水は出ない。彼は、水を求めて最後の決戦に挑む。愛する二人の妻と、そして息子と娘とを殺したうえで出撃するが、戦いに敗れて死んだと伝えられている。 もう一説には、たまたまおきた洪水によって押し出された土砂が自然に堤防を作り、黒城へと流れていた黒河がより西へと流れるようになったのではないかという。どちらにしても、寒冷化によって氷河の融解水が減り、黒河の水が次第に減っていた時代だったからこそなのかもしれない。
水枯渇の解消を目指す中国政府
最近の、水資源量が充分でないという現象の解消、ひいては流域の豊かな生態系を回復するために、中国政府は二つの政策を実施している。ひとつは、中流域(多くのオアシスがあるシルクロード-地帯)での黒河からの取水量を制限して、一定量の水を下流のエチナオアシスへ流すようにという規制を設けたということである。もうひとつは、先に述べた生態移民政策である。
生態移民政策は、祁連山脈の水源涵養林保護のための上流地域に限らず、オアシス地域やエチナ地域にも及んでいる。木や草にダメージを与える牧民の放牧を禁止し、農業への転業、もしくは家畜を畜舎で飼育させようというものである。動物の放牧をやめれば、豊かな草原が回復するだろうという考え方に基づいている。畜舎で飼われる家畜には、とうもろこしやアルファルファなどの飼料を与えることになる。
生業転換をした牧民たちは、農業生産に携わる場合にも、畜舎の動物たちのための飼料生産のためにしろ、あらたな農地開発が必要になる。しかし、黒河からの取水制限のもとでは、新たな農地のための水をどこから持ってくればいいのか。河からの取水が制限されたために、もともとの農民たちでさえ新たな水を求める必要性に迫られているのだ。ましてや生態移民で新たな農地を必要とするかつての牧民たちはどこから水を持ってくればいいのか。つまるところもとの農民たちにしろ移民たちにしろ、彼らは地下水に頼ることになる。したがって、地下水のくみ上げ量が激増してきているのだ。このことが、河川水の減少による地下水位の低下に追い討ちをかける結果となっている。
地下水は、その水が蓄えられるのに少なくとも数百年という時間がかかる。地下水の安定同位体分析の結果である。長い時間をかけて蓄えられた地下水が、いま急激に失われつつある。 2003年、中流域での取水制限によって、消えていたソゴ・ノール湖に水が戻ってきた。湖岸に葦の繁茂する美しい景観が戻ったともいえる。
しかしその水はどこから来たのだろうか。基本的には、地下水として蓄えられていた水を多量に使うことによって、つまり地下水を減らすことによってその景観は成り立っているのである。
もういちど蓄えるためには気の遠くなるほどの時間がかかる地下水という資源を、子孫に残すことなく、今の水が足りないという事態を解消するために使い続けていいものだろうか。
繰り返される歴史
砂の中に静かに眠る黒城。カラホトは水が涸れることによって滅んだことは間違いない。 伝説のカラ・バートルは、失われた水を得るために、愛する妻を殺し、そして息子と娘という自分たちの未来を殺し、水を求める戦いに挑んだ。そして敗れた。 水を求める戦いは、この地で幾度となく繰り返されてきたことだろう。われわれ人類はその戦いに勝ったことがあるのだろうか。
天からの降水が少ない乾燥地域では、ともあれ水が必要である。しかし、ただ水を求めるだけで良いのだろうか。水を得るために何もかも犠牲にして良いのだろうか。カラ・バートルのように、水を得るために、愛するものたちや未来を犠牲にしても良いのだろうか。
今またオアシスは涸れようとしている。
(新シルクロードの旅 3 講談社(2005)を微修正)