ゆらプロジェクトが〈総合地球環境学研究所〉において登録された予備研究プロジェクトとして現在掲げている課題名は、
ユーラシア生活誌を基礎とする歴史環境学の構築
−〈人間−自然〉関係の解明−
です。
この課題名の要旨として、総合地球環境学研究所の『要覧2004』のプロジェクト紹介に次のように載せました。
有史以前より深い関連をもって形成されてきたユーラシア各地域の生活文化のきめ細かな歴史的解析を行い、その生活文化システム形成のコア・ラインである人と人、人と自然諸物との相互作用の具体的様相、動態を解明し、人間と自然との現にあった関係の多元・多様な様態を把捉するとともに、その把捉をもとに将来人間が自然と取り結ぶべき関係のありかを探ります。
キー・ワードは「ユーラシア」「生活」「歴史環境学」「〈人間−自然〉関係」です。
「〈人間−自然〉関係」の「関係」は英語ならば流行の system です。それなら、「関係」と言うよりも「関係系」あるいは「関係体」とした方が丁寧かもしれませんが、これもまた熟した私たちの漢語とは言えないように思いましたので、避けました。
system は現在、日本ではそのまま「システム」と音訳されて流通していますが、私たちの熟した言葉では「具合(ぐあい)」とおさえ得るのではないかと私は考えています。つまり「〈人間−自然〉関係の解明」とは、「人間と自然との付き合いのその具合はかってどうなっていたのか、そして現在どうなっているのか、そこのところをじっくりと見てみよう」ということです。
「歴史環境学」は「〈歴史〉の視座から考察する環境学」という意味で、「文化人類学」「社会人類学」「認知考古学」といった命名法にのっとっての私の造語です。
逆転して「環境歴史学」となれば、「〈環境〉の視座から考察する歴史学」となり、例えば気候、森林、河川、気温、水循環、生物多様性などといった環境項目の時系列変化を究明することが主眼となり、そこから人間の歴史学を撃つ、このような視点がこれまで欠けていたのだ、と。
一方、「歴史環境学」は、歴史研究の現場から環境学を撃つ、歴史的洞察力なくして環境学は成り立つのか、と。
とはいえ、「環境学」など実はどこにもないではないか、そのような「学」はないのだから、「歴史環境学」と言っても空しい命名に過ぎない、という批判も可能です。しかしここで私は、「環境学」を、「総合地球環境学研究所」の英語名 Research Institute for Humanity and Nature(RIHN) にちなんで、人間と自然との関係、その相互作用群が創発する〈具合=system〉をトータルに解明することをめざす、新しく創出されるべき「学」として提案したいと思います。
そしてさらに、そのような「環境学」の様々な可能性の中でも基礎となる方向として、「歴史」を理解の営みの芯に置いてこの〈具合=system〉の解明をめざす「歴史環境学」を、私たちのゆらプロジェクトにおいて端緒につけたいと考えています。
「環境問題」と言うと、「ああ、最近は、環境破壊がひどいですからね」とよく言われます。しかし、環境が本当に破壊されてしまえば、その環境を生存環境としている生命体はもはや生存し得ないはずです。山を削り、川をコンクリートで固め、森を切り払ったとしても、我々人間という生命体にとっての生存環境はそこで厳しく「変化」するにしても、「破壊」されて無に帰するのではないと考えるべきでしょう。つまり「環境問題」とは、人間の生存環境という視点からは、「環境破壊」という問題ではなく、「環境変化」という問題である、ということになります。
では「環境変化」の何が問題なのでしょうか。現代の「環境問題」に即して言えば、それは、自然的環境が人工的環境へと人間自身の手によって強引に改変されるという問題、しかもそれが止まるすべを知らずに快進撃を続けているという問題、別の言葉では、人間のデザインによる人間の生存環境の一方的で大規模な「人工化」という「環境変化」が問題だと言えるのではないでしょうか。
では「人間の生存環境の人工化」とは何なのでしょうか。しかしひるがえって、そもそも私たちがここで言う「自然」とは何なのでしょうか。
私は端的に、「人工」あるいは「人為」と対立する「自然」とは、人間の思い通りにならないもの、それぞれの都合で動いていてこちらの思う通りにならないもの、それらをひっくるめた〈具合=system〉のことだと考えています。
例えば、毎日の天気などはまさに思い通りになりません。遠足に行くので晴れてほしいといくら願っても、切なげに曇り空を仰いで「晴れろ」と叫んでも、降る時には降ります。昔は道もぬかるんだもので、足を汚さなければ歩けませんでした。天気の具合という難物と付き合うことが、人の日々の暮らしの重要な営みでした。その付き合いの具合が、てるてる坊主を軒端につるすという文化、傘を差すという文化、簑を着けるという文化、雨宿りという情緒、などなどを生みだし、人の「生存の現場」をバラエティーに富んだ「生活の現場」へと脚色して来たわけです。
人の思い通りにならないものは無数にあります。あるいは昔はたくさんあって、むしろそれらが基本となって「生存の現場」を作り、それらとの「付き合い」の重畳が「生活の現場」そのものを創り出していました。
人の思い通りにならない、という点では、私たちの「からだ」も自分の思い通りにならない「自然」の側にあると言い得ます。「からだの具合」は畢竟思うようにはなりません。老・病・死ともなれば、人間生存の絶対的限界としてこの「からだ」に引き起こります。
またそもそも人の気持ちというものがこちらの思い通りにはなかなか行かないというのが世の常です。男女の間となれば、なかなか思い通りには行かない。まさに「成り行き」に竿を取りながらの風まかせです。
思い通りにならないものが生存環境の基本であるなら、人はそれらと「付き合う」しかありません。すなわち相手の動き具合をリアルタイムに見計らいながら、常に多少の「あそび(余裕)」を持たせてこちらの掛かり具合を合わせて行く、そのような絡み掛けを人は行って来たわけです。このような物や人、また天候などの自然状況との「付き合い」の重畳が人の日々の暮らしの現場であり、それぞれが一筋縄ではくるめられない「付き合い」であるという意味では、日々の暮らしという生活の現場は、まさに自然諸物、自然状況、からだ、母、父、兄弟そしてあの人、この人、人、人、人たちが多元的に交差しそれらとの多元的な「付き合い」に力動する現場だ、ということになります。
しかも人はただ単にこれら「自然」の「勝手」に振り回されるだけではありません。主体的にその都度、その「自然」の頃合いを測り、探りを入れ、間合いを取り、工夫をして、それらとの付き合いにそれなりの具合を付けながら、日々の生存を切り盛りしています。そのような日々のダイナミックな生存の経験の積み重ねから、おおよそのコツや勘どころ、ワザなどを編み出し、様々に展開し重畳する「付き合い」にもそれぞれに見合ったやりとり、仕付けが育ち、「文化」と呼べるバラエティーに富んだ〈具合=system〉がそこに創発し、逆に当の人たちの「生存の現場」へと作用して、荒削りに、裸形に、推し進む「生存」ならざる「生活」を創発する細やかな「仕掛け」が時をかけ、世代を経て育って来ました。
人間の生存環境の人工化とは、結局のところ、「生存の現場」に交差し「生活の現場」を成り立たせているこれらの人の思い通りにならない自然諸物、自然状況、からだ、人々を、こちらの思い通りになるものに置き換え、作り換えて行く過程だ、ということになります。私たちが「近代化」と呼ぶ過程が、まさに強度にそれであることはすでによく論じられています。
コンクリートがダムを造り、堰をわたし、川を押さえ込んで、人の意志に従わせます。その「人」というもの自身が、学校という施設・組織で現代では作り立てられます。プラスチックとなれば、自在に人の意のままに扱うことが出来ます。木材ならばその一本一本が持っている具合を見ながら、それに見合った扱いをしなければ、つまり付き合わなければなりませんが、現代の化学工業技術は、人のデザイン意欲に自在に従うプラスチックという素材を作ってしまうわけです。町中を屋根様のもので覆えば、天気に関係なく生活に必要な移動は同じ装束で行えます。遠足を電車に乗ってドームに覆われた植物園に行くことにでもすれば、明日晴れるようにと、てるてる坊主を作る必要もありません。したがってあのわくわくするような空を見上げての少年(少女)の不安げな願いという情緒も経験されません。
「生活の現場」を創発していた様々な思い通りにならない物々、情況、具合との主体的な「付き合い」という多元開放的な動揺場の起動が所謂「現代的な」生活ではかなり大幅に不要となり、思い通りになる物々を金によって思い通りに自分の物とし、思い通りに使い棄てる、平板な、それだけに便利でスマートな生存が流れ行く「生活スタイル」への転換が現在急速に、特に「先進諸国」と呼ばれる地域において、推し進められています。
このような人工的にデザインされ、大量に生産される人工物質によって実現され、維持される生活環境の形成は、言うまでもなく莫大なエネルギー消費によって支えられ、そのことが例えば「地球環境問題」と言えば筆頭にあげられる「地球温暖化」などの問題を引き起こしているとされます。改変する意図は直接的にはなかったはずだが、生活環境の人工化の昂進が結果的に招いた問題です。
私自身のバックグラウンドは「中国思想史」「中国古典学」です。過去の文献を読むということが研究の基本とされます。昨年、この〈総合地球環境学研究所〉に転任することが決まった時、そのことを聞いた知人の中には、何百年も前に死んでしまった人の死体をいじくっているようなところから日の当たる最先端のところに飛び移るのですね、という意味の感想をもらす方がいました。朱子(1130-1200)の思想の研究を最近はしていましたから、800年以上前から伝わっている漢字文献に取り組んでいたわけで、そう言われても、あわあわと笑っているしかない、というところです。
ゆらプロジェクトは、その私がリーダーとして形成しようとしているプロジェクトです。その基本姿勢は、私がこれまでの研究生活の中で考え、出会って来た「歴史」とは何か、「歴史」研究はどのようであれば人の役に立つのか、という思いを芯の一つに据えて作られています。
こんなことは当たり前の議論だと思えますので、今さらめきますが、ゆらプロジェクトの趣意を理解いただくためにも、私の考えを以下少しく述べておきます。
「歴史」は、あるいは「歴史研究」は、現に今ここに生きている人間にどのように関わり得るのか、どう役に立つのか。単なる物知り顔のペダントリーとして、あるいは単なる「知的好奇心」のわくわくする実現の営み、ではなく。
先ず捉えるべきは、現に今ここに生きている人間も、実は現在という、過去から来たり、未来へとつながる「歴史の脈絡」のなかに生きているということです。今ここに生きることを、本当に手応えのある、その意味で「真に深く生きる」営みにしようとするなら、人はその時、「現在」という「歴史の脈絡する状況」の中に自らが位置すること、そこでこそ生きていることを自覚せざるを得ないはずだ、と私は考えます。
自身や世界、その状況を「現在」にだけ眠り込んでやり過ごす生き方を、自身や世界、その状況を先ず「現在」の歴史的重層性に受け止め立体化する生き方にひらく時、はじめて「歴史」は物知りの得意げなおしゃべり、試験に受かるために覚え込む「知識」の集積などであることをやめて、現に今ここに生きる「自身」に意味のある「生き方」そのものとなるのではないでしょうか。「歴史ってなんの役に立つの?」と無邪気に問う人は、実は自身が一つの「歴史」として生きていることに無自覚なのだ、ということになります。むろん「好し」「悪し」で対比しているのではありません。私たちが「歴史」を重大な事柄としてこんな風に思索すること自体が、ある特殊な文化に私たちが属するというしるしに過ぎないのかも知れません。
このように考えた上で、私たちの重大視している「歴史」なるものの今ここに生きる人への役の立ち方については、次のような位相があるのではないでしょうか。というより現在私は、次の三つぐらいを考えています。
先ず、「歴史」は、今ここで生きている人間が、今ここの状況を捉え、その中でどう生きて行くべきか、という状況把握、方針策定、そして決断をする際に思い合わせるべき先例、そこからアドバイスを受け取るべき先例の膨大なストックです。例えば「歴史を誇る」地域においては、「賢者」とはおおむねその膨大な歴史的事例の中から適切な事例を選び出して、現に方針を立て、決断しようとしている人にアドバイスを与える存在です。膨大な歴史的事例に通暁していることはもちろん前提ですが、賢者の妙味は、実に適切な含みを持った事例をその中から思いつき、引いて来るところにあります。現代でも「歴史家」にはこの「賢者」の役所(やくどころ)が求められている節があります。
しかし「歴史研究者」に現在求められるのは、現に今ここに生きる人が生きて行く上での切実な要請である、自分たちはどんな状況の中に現在あるのか、現在の状況はどのような「歴史的脈絡」の上に出来上がったものなのか、という問いに適切に答えることでしょう。現在の「歴史研究」はこの方向で強い要請を受け、役に立つことを求められています。
しかし例えば私の、870年ほど前の中国、現在の福建省北部に生まれた「朱熹(普通には朱子と呼ばれる)」という人物についての、特にその思想についての研究は、いったい何の役に立つのか、と問われると、今紹介しました二つの方向で答えることも出来ますが、私自身はまた少し違った方向のことも考えています。
私のその朱熹についての研究は、少なくとも24・5年以上行ったり来たりしながらやって来ました。それ自身がささやかな個人史の一部となっているわけですが、いくつかの節目を数えながら「深化」したと私自身は理解しております。そのような節目を数える中で、私は、この手の研究は、対象とする人物や時代の「生の現場」に到り、その「生の形姿(form)」を把捉するに到らねばならない、と感得しました。歴史的対象の「生の現場」「生の形姿」を見届ける「研究」という道行きは、実は現にここに生きている研究者が自身の「生の現場」「生の形姿」を見届ける道行きであり、互いの表面的な生存、生活の身についた装飾、意匠、デザインを、互いを理解する時に作用し、その理解をゆがめる「フィルター」として自覚化し、相対化して、それぞれの「生の現場」へと脱自して行く道行きである、と思い至りました。「他者理解」という言葉がありますが、歴史的研究あるいは「中国古典研究」をまさに「他者理解」の道行きそのものであると理解したわけです。それは一方で自己理解を深める作業との往還、綯い交ぜに成り立ち行く道行きでもあると。
このような私自身の研究の経緯から、歴史研究が本当に手応えをもって役に立つのは、このような二重の道行きにより自他双方の「生の現場」を把捉することを通じてではないかと現在私は考えています。
今、私は「生の現場」「生の形姿」と言い、つまり「生」という言葉を使用しました。先には「生存の現場」「生活の現場」と言っています。「生」「生存」「生活」と同じ「生」を含む言葉が並びましたので、すこしここで整理しておきます。
「生存」から始めますと、これは人だけではなく生命体であれば広く違和感なく使える漢語です。カマキリの生存条件、キリンの生存条件、人の生存条件、また生存競争などなど。すなわち「生存」という言葉は、生命体全般に共通して看取られる生命維持(の働き)という事態を意味していることになります。
「生活」の方は、人について言われるのが普通の言葉で、日々の暮らしの具体的な内容全般を含み込んでその全体の〈具合=system〉を言う語です。しかもそこには先にも言ったように時を経て育ってきた「仕掛け」による脚色が醸し出すある「安定性」が肉付けされている、と言えます。「生活」は、例えば、カマキリの生活、熊の生活といった言い方もされますが、あくまで変則的な言い方として、人における意味を響かせる意図の下に、つまり隠喩として使用を拡大した言い方だと考えられます。
「生」という言葉は、一般にはあまり使用されない言葉です。最近は新聞などにも見かけることがあります。とはいえ書評欄や文化欄が主ですが。元はヨーロッパの哲学畑から出た言葉の翻訳語だと思われますが、私自身はこの語の意味合いを神話学者のカール・ケレーニーから学びました。いずれにせよ、私は、ある人の具体的な〈生活の具合〉を、もうそれを失えば「人」とは呼べないとその人に思われている、その人の人としての実存の限界となっている〈生き具合〉にまで裸形にした時に見えて来る、ある、根源的な「生きる」という情熱、それをその人の「生」と呼んでいます。重要なことは、この〈生=情熱〉が孤立的な情熱ではないということです。この情熱は本源的に「からだ」と絡み、それを通して具体的な人、人、物、物と絡んで生起し、むしろそのような絡みへとこの「からだ」を掛からせる情熱だと言った方が好いのかも知れません。したがってこの「生」は「からだ」と「人」と「物」とが具体的にどのように絡むのかというそれらの「配置」として実現して行きます。この配置が「生の形姿(form)」です。この配置も孤立的にその「生」が実現するものではなく、多くの人、人、物、物との絡みの中で、協同的に実現されるものであることは言うまでもありません。特にこの「生」は肌を接して自らを生み、はぐくむ、ある別の「生」と本源的に「共生」して自らの「形姿」の基礎を作りますから、むしろ個々の人に目を注ぎながらも、そこに浮かび上がる「生」は非個人的な、その人と同じ生活集団を為している「人、人」に共有される「生きる情熱」としてある、と言えます。
カール・ケレーニーによれば、もちろん私の理解によればですが、古代ギリシア語ではこの意味での「生」をビオス(bios)と呼び、私たちが無限定に様々な生命体に言う「生存」をゾーエー(zoe)と呼んで、区別していたとのことです。(岡田素之訳『ディオニューソス−破壊されざる生の根源像』白水社、「序章」)
「兎のビオス」という言い方も出てくると言いますから、「人のビオス」と同じく、「狐のビオス」「カブトムシのビオス」などなども有意味な言葉として考えられるということになります。いずれにしても、「生存」という無定形、無限定な世界の中に、「生(ビオス)」は具体的な「この」、そして「あの」と指させる〈生き具合〉として実現するわけです。
「生の現場」は「生存の現場」の中に、人の人としての「生きる」を立ち上げる根源的な〈生=情熱〉が働いている現場であり、そしてこの現場が「生活の現場」の、観察者の目にはなかなか入らない基底として、その節目を作り、その意味となっている、とまとめることが出来るでしょう。
朱熹という人物の思想についての研究を私は、現に瞬間瞬間に生きて輻輳していた彼の思考をその生動する現場のままに理解しようとする「思考の生態学」として行いました。そこで逆に気づかされたのは、私のものの見方、理解の仕方が、いかに「機械論(mechanism)」というフィルターに覆われているか、ということでした。さらに言えば、現代に生きる私たちの「生の現場」にこの「機械論的」デザインの構成力が強い影響、見ようによっては「根こそぎ」的な影響を及ぼしている、あるいはそのように浸透しつつある、という私たちの現実を、朱熹と彼が生きていた時代の思考現場に向き合うことによって、ヴィヴィッドに見いだすに到ったわけです。
では「機械論的」デザインの浸透は、私たちの「生の現場」に立ち戻る時、どのような事件なのでしょうか。人の「生の現場」とは思い通りにならない「からだ」「人、人」「物、物」との絡みの重層的輻輳的な絡み合いの現場です。その意味で人の「生の現場」はそれらと人との多元的交渉、交雑として成り立っています。「機械論的」デザインはその人の「生」の多元的であるが故のにぎわい、活気を、むしろ無駄な、猥雑なものとして抑圧し、「生の現場」を思い通りになる「からだ」「人、人」「物、物」に囲い込み、決定論的な操作システムに切り整えるデザインなのではないでしょうか。人の「生の現場」の現代における激変、むしろここにこそ先ほどは留保した「破壊」という言葉を使うべきなのかも知れません。すなわち今進行しつつある事態の核心は私たちの「生の現場」を破壊し、無化して行く事件である、と。これではあまりに深刻すぎる物言いなのかも知れませんが。
「環境問題」とは「生活環境の人工化」の問題であり、それは私たちの「生の現場」の無化、すなわち「生存」という生理学的な代謝維持はしているが、根源的な「生きる情熱」を喪失した「生活」の出現、という問題なのではないでしょうか。
いずれにせよ、ゆらプロジェクトの基本認識はここにあります。ゆらプロジェクトはユーラシアの各地域・各文化に生きる、そして生きた人々の「生活の現場」に立脚し、その「生の現場」を目睹する道行きを歩み、現代に生きる私たちの「生の現場」の状況を明らかにしたいと考えています。
ゆらプロジェクトは〈ユーラシア〉という具体的な「生活現場」のひろがりに立脚して具体的な「生の現場」に至り、その根源的な「生の形姿」において、人間と自然との関わりの〈具合=system〉はどのようであり、またあったのか、を探ります。
〈ユーラシア〉を立脚点に選んだのは、近年、長年にわたる歴史学や考古学、言語学などの研究の蓄積の上に、この〈ユーラシア〉を大きな一つの文化空間、歴史空間として理解し、その理解の上で幅広く詳細な研究を進めようという機運が高まっているからです。そのようなとらえ方がようやく実証的に可能となって来たわけです。
ある一つの具体的な「生活現場」を探求するとして、しかし、多くの場合、その「生活現場」は様々な「生活文化」の輻輳として現れます。例えば、ゆらプロジェクトが解明したいと考えている〈人間−自然〉関係にしぼって考えても、
@環境となっている自然との親和的な対応に創発している生活文化、
A自然を排除して人工的な領域を作ろうとする、端的には「反−自然的」と呼ぶことの出来る生活文化、
Bその地域の自然環境との関係で出現したのではなく、他の地域や文化集団に創発し、交流、相互交通によってここに接受された生活文化、
の三種類が見分けられます。互いに独立なこれらの生活文化が歴史的に重畳、輻輳して、一つの〈具合=system〉を現実の生活現場に展開しているのが、各地域の生活文化のむしろ普通の状態であると、実際の研究の中では認められます。
すなわち各地域の具体的な生活現場につくとしても、その地域だけに視野を限り研究を進めるわけには行かないわけです。国家制度や高度に洗練された技術などなどになると、大域的な視野に立って考察しなければ、そもそも研究が進まないことは言うまでもありません。
ゆらプロジェクトは〈ユーラシア〉という生活文化空間のひろがりを、いわゆる「ユーラシア大陸」だけに限っていません。周辺島嶼部、東南アジア島嶼部なども含めて考えています。サハラ以北のアフリカなども地中海地域の一端として視野に入って来ます。このひろがりは、有史以来、数千年にわたるオーダーで拡散、相互交通を重畳させながら諸地域の歴史・文化が動く中で形成され展開して来たわけですから、下手にこの地域、あるいはあの地域が〈ユーラシア〉の「中心」だなどと考えることは過ちの元です。むしろここでは非−中心化の視点をこそ研究の中で堅持することが必要だと私は考えています。
以上に述べましたゆらプロジェクトのコンセプトは、以下のようなテーマ・チャートに展開できます。
ゆらプロジェクトは、文化的な交流・相互交通が歴史的に展開して来た大空間として〈ユーラシア〉を採り、そのバラエティーに富んだ「生活現場」に視座を置き、様々な「生の現場」として形姿(form)を現す〈人間−自然〉関係の〈具合=system〉を、このようなテーマ・チャートに展開して解明することを目指します。