◆De Waal, Frans, 2009, The Age of Empathy: Nature's Lessons for a Kinder Society, Harmony Books.
(=2010,柴田裕之訳『共感の時代――動物行動学が教えてくれること』紀伊國屋書店.)

 ■目次

 はじめに

第1章 右も左も生物学

第2章 もう一つのダーウィン主義

第3章 体に語る体

第4章 他者の身になる

第5章 部屋の中のゾウ

第6章 公平にやろう

第7章 歪んだ材木

謝辞
解説 西田利貞

参考文献

■内容 *( )数字は引用頁、〔 〕は引用者による補足を示す。原文の強調などは略。「利己的な諸原理に基づく社会を正当化するために、たいてい生物学的な特質が担ぎ出されることは確かだが、  その同じ特質がさまざまな共同体をまとめる接着剤を生み出してきたことも、決して忘れてはならない。 この接着剤は、私たち人間以外の多くの動物の間にも見られる。他者と調和し、活動を連携させ、 困っている人を気遣という行為は、私たちの種に限ったものではない。人間の共感には、長い進化の歴史という裏付けがある。」(8)

「ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、人間の親切心にはほとんど何の価値も見出さなかった。……カントは、思いやりは「美しい」としながらも、有徳の生活には無関係だと述べた。義務がすべてであるならば、優しい気持ちなど、誰が必要とするだろう?/今私たちが生きているのは知性が称えられる時代で、感情は感傷的でどろどろとしたものと見なされる。……現代の哲学者たちは、……人間の情念とは距離を置き、
かわりに論理と分別に注目しようとする。だが……どんな哲学者も、(彼らにとってはあいにく)現に血と肉でできている人間という種の、 基本的な欲求や願望や執着は避けて通れない。「純粋理性」などという概念は、純粋なフィクションなのだ。」(18-19)

「もし道徳が抽象的な原理から引き出されるのなら、判断が即座に下されることが多いのはどうしたことか? 私たちは、ほとんど考える必要もない。それどころか、心理学者のジョナサン・ハイトによれば、私たちは直観的に判断しているという。……/明らかに、私たちは本能に従って瞬間的に道徳上の判断をすることが多い。情動が判断を下してくれて、それから推論の能力が情報捜査官として後追いし、もっともらしい言い分をでっち上げるのだ。このように、人間の論理が優越するという見方には欠陥があるため、道徳に対するカント以前のアプローチが復活してきている。そうしたアプローチでは、道徳がいわゆる「情緒」に根ざしている。この見方は、進化論や現代の神経科学や霊長類の仲間たちの行動と、うまく合致する。」(19)

「安全こそが、社会生活の第一にして最大の理由だ。それが、起源にまつわる第二の偽りの神話につながる。 すなわち、人間社会は独立した人間が自発的に生み出したものである、という神話だ。 ……この起源の物語は、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーによって「社会契約」というかたちで提唱され、これにおおいに触発されたアメリカの建国の父たちは、「自由なる者の国」を創り出した。……/たしかに、人間どうしの関係を対等な当事者間の合意から生まれたものと見なすと、得るところが大きい。……とはいえ、このような捉え方はダーウィン以前の時代の遺物で、人類に関する、完全に誤ったイメージに基づいている……。多くの哺乳動物がそうであるように、どんな人間のライフサイクルにも、他人に頼る段階(幼いときや、歳をとってから、あるいは病気のとき)や、他人に頼られる段階(幼い子供や老人や病人の世話をしているとき)がある。私たちは他人に頼ることなしには生きていけないといっても過言ではない。」〈36-37)

「現代の心理学と神経科学では、……私たちは手を差し伸べるように、あらかじめプログラムされている。共感は自動化された反応で、制御しようにも限界がある。共感を押さえ込んだり、心の中でブロックしたり、それに基づいて行動しなかったりすることは可能でも、精神病室者と呼ばれるごく一部の人を除いては、私たちはみな、他者の境遇に感情的な影響を受けずにはいられない。根本的であるにもかかわらず、めったに投げかけることのない疑問がある。それは、自然淘汰はなぜ、私たちが仲間たちと調和し、仲間が苦しみや悲しみを感じれば自分も苦しみや悲しみを感じ、彼らが喜びを感じれば自分も喜びを感じるように人間の脳をデザインしたのかという疑問だ。他者を利用できさえすればいいのなら、進化は共感などというものには、ぜったい手を染めなかっただろう。」(67-68)

「共感や思いやりの起源は……より高度な想像力の領域でもなければ、もし自分が相手の立場だったらどのように感じるかを意識的思い起こす能力でもない。共感や思いやりは、……他者があくびをすれば自分もあくびをするといった、身体的同調とともに、じつは単純なかたちで始まった。」(74)

「私たちは綱渡りを見ているとき、はらはらする。それは、曲芸師の体の中に自分が入り込んだような気分になり、そうすることで、彼の経験しているものを共有するからだ……とテオドール・リップス(1851〜1941)は言っている。ドイツ語には、このプロセスを一語で見事に捉える単語がある。それは「Einf▲u▲hlung」という名詞で、「感情移入すること」という意味だ。 のちにリップスは、ギリシア語でそれに相当する「empatheia」という語を提示した。これは、強い感情あるいは情念を意味する。イギリスとアメリカの心理学者は後者を取り入れ、「empathy(共感、感情移入)」とした。/……私たちは、自分の外で起きることは何も感じられないが、無意識のうちに自己と他者を同化させることで、他者の経験が私たちの中でこだまする。私たちは、他者の経験をわが事のように経験する。このような同一化は、学習や連想、推論といった他のどんな能力にも還元できないとリップスは主張した。共感は「他者の自己」に直結する経路を提供してくれる。/……リップスは、心理学者や哲学者が好むことの多いトップダウンの説明ではなく、基本から始めるボトムアップの説明をしている。トップダウンの説明に従うと、共感は、自分なら同じような状況でどう感じるかに照らして他者の気持ちを判断する認知的プロセスとなる。だがこれで、私たちが即座に反応することの説明がつくだろうか?」(96-98)

「進化によって得た能力には必ず利点があるはずだ。もし情動伝染が、本格的な共感へと続く道の第一歩だとすれば、それがどのように生存と生殖を促したかが問題となる。共感は援助行為を生み出すというのが通常の答えだが、これは情動伝染には通用しない。情動伝染だけでは、援助行為につながらないからだ。他の子供が泣いているのを耳にした人間の幼児の典型的な反応を考えるといい。その子は目が涙でいっぱいになり、親のもとに駆け寄って、抱き上げて慰めてもらう。そうすることで、じつはその子は自分の不快の源に背を向けている。このように、他者志向性が欠けているので、心理学者は「個人的苦痛」ということを言う。この反応は自己中心的なので、利他主義にとって最善の基盤とはならない。/だからといって、情動伝染が無用になるわけでもない。……他者の健康や安全に強い関心がなくても、たんに情動に刺激されて、それに即して反応するだけで、動物は危険を避けたり子供の世話をしたりできる。これ以上の適応があるだろうか。/子供たちが直面している問題を処理することで、彼らが嫌悪感を表現する騒音を止める母親は、 自己中心的な理由から他者指向の行動を見せている。私はこれを「自己防衛的利他行動」と呼ぶことにする。これは、他者を助けることで自己を嫌な情動から守るという意味だ。そうした行動は他者のためになるが、真の他者志向性は欠いている。他者への気遣いは、そこから進化したのだろうか? ……共感を完全に「利己的」と呼ぶことはできない。なぜなら、完璧に利己的な態度は他者の情動をあっさり無視するだけだからだ。とはいえ、動作を促すのが自分の情動的な状態なら、共感を「非利己的」と呼ぶのも適切とは思えない。利己的と非利己的の区別は、脱線のもとかもしれない。 自己と他者の同化が私たちの協力的な特質の裏にある秘密だとすれば、なぜ他者から自己を、あるいは自己から他者を抜き取ろうなどとするのか?」(109-111)

「相手が目に見えない場合でもなお、他者がどう感じるかを私たちに本当に理解させるのは、想像力頼みの共感でないことは明らかだ ……他者の立場を想像するのは冷めた行為で、飛行機がどうして飛ぶかを理解するときと似ていなくもない。共感は、何よりまず、情動的な関与を必要とする。……他者の情動を目にすると、自分の情動もかき立てられ、そこから私たちは、他者の境遇について、より高度な理解を構築していく。」(107)

「盛んに起きる共感に抵抗するにあたっては、応答を制御し、抑制する能力だけが、私たちの武器ではない。選択的に注意を払ったり同一化したりすることによって、共感をまさにその根源で統制することもできる。視覚によって影響を受けたくなければ、見なければいいだけの話だそれに、私たちは他者と簡単に同一化してしまうとはいえ、自動的にそうしているわけではない。たとえば、異質に見える人や別の集団に属している人と同一化するのは難しい。文化的背景や民族的特徴、年齢、性別、職種などが同じ、自分と似た人たちとのほうが同一化しやすいし、配偶者や子供や友人など、近しい間柄の人であればなおさらだ。同一化は共感の基本的前提条件であり、マウスでさえ同じケージで飼われている仲間に対してしか痛みの伝染を見せない。」(117)

「同情は行動につながる点で共感とは異なる。共感とは、他者についての情報を集めるプロセスだ。対照的に、同情とは、他者に対する気遣いと、他者の境遇を改善したいという願望を反映している。 アメリカの心理学者ローレンス・ウィスペは次のような定義を提案している。同情の定義は、二つの部分から成る。まず、他者の感情に関する認識の高まり、そして次は、何であろうと必要な行動をとり、他者の苦境を緩和したいという衝動である。」(128-129)

「「前関心」とは他者の苦しみによって心を動かされたときに、その相手に引かれることをいう。「前関心」は、相手の立場になることを必要としない。それどころか、動揺している家族に引き寄せられる一歳児のように、 その能力がまったく備わっていない場合もある。……/「前関心」が確率すると、学習と知性がそこに幾重にも複雑さを加え、状況にいっそう明敏に反応できるようになり、ついには完全な同情が開花する。」(139)

「……相手の福利が自分の利益にならない場合、人間の共感はひどく醜いものに変わりうる。私たちの反応は、けっして見境のないものではない。人間の心理が、集団内の協力を促進するために進化を遂げてきたのだとすれば、これはまさに予想どおりのことだろう。私たちはポジティブな関係を持っている相手や、そういう関係を持つことができる相手を偏重する傾向 がある。それは無意識の傾向で、援助の行為の裏にあるとされることの多い打算に取って代わる。打算が働かないということではない。仕事上の取引でのように、たんに見返りを期待して他者を助けることもあるが、 ほとんどの場合、人間の利他的行為は他の霊長類の利他的行為と同じで、感情によって引き起こされるのだ。 ……/だが、これは利他的行為だろうか? 支援することが私たちの気持ちや犠牲者とのつながりの深さに基づくとしたら、これは突き詰めると自分自身を助けていることにならないだろうか? 私たちが困っている人に救いの手を差し伸べることで、「温情効果」という快い感情を覚えるのだとすれば、 私たちの支援はじつは利己的なものとはならないだろうか?  問題は、もし私たちがこれを「利己的」と呼べば、事実上、何もかもが利己的になってしまい、この言葉が意味を失う点にある。 ほんとうに利己的な人は、困っている他人を平気で見捨てるだろう。誰かが溺れていれば、溺れさせておく。泣いていれば、泣かせておく。 ……こうした反応が私の言う利己的な反応であり、共感に基づく関与とは対極にあるものだ。共感すれば嫌でも他者の立場になる。たしかに、私たちは他者を助けることで喜びを得るが、この喜びは他者を介して得られるもの、他者を介してのみ得られるものだから、正真正銘、他者志向のものなのだ。」(167-169)

「……共感する人間はいつでも共感するというわけではない。世の中のあらゆるかたちの苦しみを分かち合っていたら、 私たちの人生はどうなってしまうのか? 共感には、何に反応するかを私たちに選ばせるようなフィルターと、オフにするスイッチの両方が必要だ。どの感情的反応とも同じで、共感には「入口」、つまり、たいてい共感を引き起こしたり、私たちが共感を引き起こすのを許したりする状況がある。共感の最大の入り口は同一化だ。私たちは自分が同一化した相手の気持ちなら、分かち合う気になる。だから、内輪の人間とは心を通い合わせやすい。 ……輪の外に対しては選択的になる。影響を受ける余裕があるか、あるいは、影響を受けたいと思うかにかかってくる。通りで物乞いに気づいたら、そちらを見遣ることもできる。あるいは、目をそらすこともできる。 通りの反対側に渡り、顔を合わせるのを避けることすらできる。 私たちはさまざまなかたちでこの入口を開けたり閉じたりできるのだ。」(300)

「私たちは目に入らないものよりも直接目にするものを気にかける。耳にしたり、読んだり、考えたりした相手を思いやることもたしかにできるが、想像だけに基づく気遣いは力強さや切迫感に欠ける。……/孟子の言葉を読むと、共感がどこから来たか、それが身体的つながりにどれだけ頼っているかを、否応なく考えさせられる。身体的なつながりを思えば、部外者に共感するのが難しい理由もわかる。共感は、近さや類似性や馴染み深さの上に成り立っており、 それは共感が内輪の協力を促すために進化したことを考えれば、完全に筋が通っている。私たちは社会的な協調に関心があり、協調には資源の公平な分配が求められる。この社会的協調と共感が相まって、人間という種は平等と団結を重視する小規模な社会へ向かう道を歩み始めた。今日、私たちははるかに大きな社会に暮らしているため、平等と団結を維持するのが難しくなったが、
  平等と団結が得られたときに最も心地良く感じる心理を、今なお持ち合わせている。」(310-311)


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