明末清初期満洲史蹟調査(於中国遼寧省・吉林省)

 シベリア・モンゴリア・中国内地さらには日本列島へと結ばれるマンチュリアは、交易の利を基盤として後金〜大清帝国が興起した揺籃の地であり、その後も山丹交易・収貢頒賞制度などを通じて東北アジアの交易・通交の舞台となってきた。清の国家形成と、その前後を通じてのマンチュリアの社会の実相・変遷を追究している承志と杉山は、2005年7月23日〜8月2日の日程で中国遼寧省・吉林省を訪れ、遼寧省档案館の何栄偉研究員の協力を得て明末清初期(16世紀末〜17世紀中葉)の史蹟・交通路を調査した。

・7月24日〜27日

 明朝から海西女直と呼ばれたフルン四国の本拠地を踏査した。フルン四国とは、16世紀中葉に形成され最終的にヌルハチに攻略・併合されたハダ(Hada, 哈達)・イェへ(Yehe, 葉赫)・ウラ(Ula, 烏喇)・ホイファ(Hoifa, 輝発)の4国をいう。いずれも対明交易の利益を背景に勃興し、それまでのジュシェン社会にみられなかった大規模な城塞を築いて支配・交易の拠点とした。今回はハダ城(遼寧省開原市)・イェへ東城・西城(吉林省四平市)・ウラ城・ブトハ=ウラ総管衙門(同吉林市)・ホイファ城(同通化市)およびその関連史蹟・博物館等を調査した。城址はいずれも1950〜80年代に簡単な調査がなされただけで本格的な発掘・整備は行なわれておらず、今次これらをまとめて踏査できたことは貴重な機会であった。

[写真1]ハダ城址。西側の山城部分の上から東側の平城部分を見下ろす。

[写真2]イェへ西城。急峻な台地を活かした要害であり、平城の東城と対をなす。

[写真3]ウラ城本城址。わが国の天守台に相当する特徴的な台で、広大な平城の中心部にある。

[写真4]ホイファ城内城。平地に屹立しホイファ河に面した岩山に築城した要害。

・7月29日〜31日

 明朝から建州女直と呼ばれたマンジュ五部は、渾河・蘇子河流域のスクスフ・フネヘ・ジェチェン部(新賓満族自治県)と渾江流域のワンギヤ・ドンゴ部(桓仁満族自治県)からなる。今次調査では、ヌルハチの出たスクスフ部を中心に、蘇子河流域の主要史蹟を調査した。最初の居城フェアラ(Fe Ala, 費阿拉)城と後金建国期の居城ヘトゥアラ(Hetu Ala, 赫図阿拉/興京)城、父祖4祖を祀った永陵を訪れただけでなく、さらに蘇子河沿いに撫順・瀋陽へ至る旧街道を踏査し、グレ(Gure, 古勒)城はじめ街道沿いの城砦址・交通路を実見できたことは大きな収穫であった。

[写真5]フェアラ城遠景。山の東北側斜面の台地状の部分に築城している。

[写真6]撫順〜永陵間の御道。

[写真7]グレ城址とされる、下夾河・龍頭山城。蘇子河と支流との合流点に位置する丘陵に築いており、 ヘトゥアラ盆地と西方撫順方面・北方ハダ方面を結ぶ街道の要地である。

・8月1日

 明朝の遼東統治の中心地で、一時後金の首都もおかれた遼陽と、その郊外に造営された新都・東京城と東京陵を訪問した。遼陽博物館では、近年まで長らく放置されたままであった多数の明清期の石碑が、ようやく碑林として整備・公開されていることを確認した。

[写真8]遼陽博物館・碑林

印象的であったのは、フルン四国の領域がおおむね平坦で、馬群の飼養や騎兵の行動になんら支障がないことが実感できたことであった。西方のモンゴルとの関係を考える上で、重要である。かつ、各国の本拠においては、堅固な山城ないし平山城と行政・交易のセンターとみられる平城・城館とを組み合わせた形式が看取された。本プロジェクトが対象とする北海道のチャシ・館、琉球のグスクと対比してみると興味深い。これに対しマンジュ五部の領域は山と川とが入り組んだ地域で、同じジュシェン世界といっても対照的であった。

*参考文献:

細谷良夫編『中国東北部における清朝の史蹟-1986〜1990-』(平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3), 1991.

傅波編『撫順地区清前遺迹考察紀実』瀋陽:遼寧人民出版社, 1994.