台湾調査 (2005年8月)
─「牡丹社事件」と番割─

 本年の調査はもともと原住民の集落を調査する予定であったが、台風の影響のため、実施できなかった。その結果、調査対象地を急遽変更し、「牡丹社事件」──日本側では「台湾出兵」と称する──の舞台となった台湾南部の屏東県車城郷・牡丹郷を訪問することになった。

 「牡丹社事件」とは、1871年に台湾原住民が宮古島の漂流民66名中54名を殺害した事件に端を発し、1874年に西郷従道都督が軍隊を率いて台湾原住民の集落=牡丹社へと侵攻したというものである。

 調査者(林)は屏東県車城郷保力社区(保力村=客家村)を訪れ、車城郷民代表会秘書の楊子明氏(車城郷保力村人、村誌編纂委員会総幹事)から聞き取りを行った。保力村は、村レヴェルでは珍しく地方志=『保力村誌』(屏東県車城郷保力社区発展協会編、2001年)を編纂しており、楊氏より恵与された。

 楊氏への聞き取りから、楊氏の先祖である「楊友旺」なる人物が「牡丹社事件」で生き残った宮古島12名を保護したこと、また彼は殺害された54名を「琉球人墳墓」に埋葬し、日本側からの委託を受けて管理していたこと、等を知り得た。

 なお『保力村誌』の記載には「(楊友旺)与?・凌等番刈有買売来往」とあって、「楊友旺」と番割との関わりには大変興味深いものがある。

写真1 『保力村誌』


写真2 楊子明氏


写真3〜5:日軍「討蕃軍本営地」記念碑記源(屏東県車城郷後湾村)1874年の「台湾出兵」の際、西郷従道の軍隊の駐屯地に石碑が立て られたが、日本軍の撤退後、清軍の手によって破壊。日清戦争によって台湾が日本に領有された1914年、記念碑が再び立てられた。「明治七年討蕃軍本営地」等の文字が刻まれた。1945年の日本敗戦後、再び人為的に毀損されたため、他の文字は判読できない。


写真6 琉球蕃民五十四名墓(車城郷)

写真7 琉球人を埋葬した代表者の姓名「楊友旺」の名も見える。

写真8 石門古戦場碑誌(車城郷)かつて日本軍と原住民(牡丹社、高士仏社)が激戦を繰り広げた場所 に立てられている。

写真9 石門古戦場記念碑(車城郷)石碑の原名は「西郷都督遺績紀念碑」。1953年、屏東県政府によって「澄清海宇還我河山」と書き換えられた。日本による支配の事実を台湾人の記憶から抹消しようとしたのである。

写真10 石門古戦場付近の石門峡(牡丹郷)遠方に見えるゲートは牡丹郷への入口。