沖縄離島資料調査(2005.12.)

  2005年12月5日夕方から、12月8日の午前にかけて、八重山諸島の石垣島及び竹富島の主要な史跡・資料館の巡検を行った。八重山諸島が本格的に琉球王国の支配を受けることとなったのは16世紀初頭の「オヤケアカハチの乱」に対する征討以後と考えられているが、その後も沖縄本島とは異なる独自の歴史を育んできた地域である。そのことは、実際に石垣島の地を踏みしめた時の沖縄本島との距離感からも再確認させられる。
 5日の夜に石垣島に入り、6日には竹富町史編集室を訪問して通事孝作氏に石垣島・竹富島の史跡等について御教示を受けた後、竹富島の巡検を行った。港近くにある「ゆがふ館」館長の阿佐伊孫良氏に御案内いただき、竹富島外周の史跡―新里村遺跡・「坊主墓」・安里屋ユンタで有名な安里屋クヤマの墓・安里屋筑登之の墓・コンドイ浜・蔵元跡等を視察する。午後は竹富島中心部の集落を中心に、喜宝院蒐集館の民俗資料、西塘御嶽(ニシトーオン)・17世紀に火番所・烽火台としてつくられた小城盛(クスクモリ)、及びその周辺に点在する御嶽(オン)等を視察した。16世紀当時、この小さな島に琉球王国の八重山統治の中心である蔵元が置かれていた。なお現在、竹富島は国の指定を受けて景観保護がなされている。
 翌6日は八重山博物館の考古・民俗関連の展示を見学した。近年再検討されつつある考古資料の編年によると、土器文化を持つ下田原期の後、土器を用いない無土器期が12世紀を下限として存在していたとのことで、非常に興味深い。その後、大浜小の裏手にある崎浜公園・オヤケアカハチの像・記念碑などを見る。2000年に新しく作られたオヤケアカハチの像には、石垣島の歴史のシンボルにしようという地元の人々の意志が感じられた。その他、白保地区・唐人墓などを視察する。
 8日は石垣市街地の宮良殿内・桃林寺を訪れる。また、石垣市史編集室の得能寿美氏と会う。文献資料については、明和の大津波のため18世紀中期以前のものはほとんど残っていないとのことであった。時間の関係で十分なお話は伺えなかったが、琉球史の中での八重山の重要性を再確認する機会となった。


オヤケアカハチの像


竹富島の集落


竹富島・小城盛