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水資源変動負荷に対するオアシス地域の適応力評価とその歴史的変遷

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プロジェクトリーダー

中尾正義 人間文化研究機構(総合地球環境学研究所 2008年3月迄)

研究プロジェクトについて

中国西部の乾燥地域にある黒河流域は、東西文化の交流路であるシルクロードと、南北の異なる文化が交流する主要な交易路とが交差する歴史的に最も重要ないわば文化の十字路に位置します。本プロジェクトでは、この流域を対象として、過去2000年間にわたる歴史を、人間と自然系との相互作用という視点で見直しました。

 

研究内容

研究は、歴史文書やプロクシー(雪氷コアや樹木年輪試料、湖底堆積物などの代替記録媒体)を解読して歴史を復元する研究と、歴史データを解釈するための水の循環にかかわる素過程を解明する研究とに大別されます。素過程研究としては、地球規模変動にともなう気温や降水量および氷河からの水の供給量の変動や、供給された河川水や地下水の流出過程、また灌漑農業や遊牧産業に水がどのように使われているのか、さらに、そのことによる蒸発散量の評価など水の循環過程を、現地観測や聞き取り調査などにより明らかにしてきました。

 

研究結果概要

ユーラシア大陸のほぼ中央に、居延沢とよばれる巨大な湖がありました。およそ2300年前その面積は琵琶湖の3倍にも達していました。当時匈奴に長く押さえつけられていた漢は、その地やその上流域に多数の屯田兵を送り、匈奴のくびきからの脱却を図ります。しかしその頃から居延沢の面積は次第に減少してきました。

この地が再び脚光を浴びるのは西夏・モンゴルの治世となってからです。この地にカラホトを築き、周囲には灌漑水路をめぐらして広大な耕地で作物を作りました。その面積は現在の額済納オアシスの2倍にも達するほどです。しかし気候の寒冷化にともない、氷河の融け水は細り、黒河の水は次第に減少してきました。しかし同時に、黒河の中流地帯にあるオアシスでも活発な灌漑農地の開発を行いました。その結果、黒河の水量はますます減少し、末端付近では、河の水がしばしば断流しました。

写真:黒河の河床に遊ぶラクダたち(撮影:2002年)

20世紀のはじめには毎秒20トンもの水量を誇っていた黒河の流れは涸れ果て、その河床にはたまり水が残るだけとなってしまった。

明代に引き続き清代に入ると、中流での農業生産はますます活発化してきました。黒河の河床からはるかに高い場所をも農地にするために地下水道を建設し、より広い面積を農地に変え、黒河からの取水量は増えてきました。  

20世紀に入って、祁連山脈から流れ出てくる水は次第に増えてきました。しかし、黒河末端部では再び断流の頻発が問題となってきたのです。そして河畔の植生は衰退し、地下水位は低下してきました。

そこで中国政府は、「生態移民」政策と中流地帯での取水制限を実施しました。その結果、下流地帯への河の水量はある程度増加しました。しかし中流地帯は水不足に陥りました。生態移民で移住した牧民による新たな水需要と取水制限による従来の農民の水需要が急増したからです。その結果、彼らは不足分の水を地下水に頼るようになり、地下水の揚水量は最近20年間で6倍にも急増しました。現在は、地下水資源の枯渇が問題です。

対象地域での水利用の歴史を見ると、人の活動の活発化による水不足を、自らの生活範囲を超えて水を持ち込むという手法によって解決してきました。土木技術等の発達がそれを可能にしてきたのです。言い換えれば、システムを拡大するという手法によって問題を解決してきました。しかし、グローバル化が顕在化した現在、我々のシステムは地球という閉じた範囲に広がりきっています。従来成功してきた、システムを広げるという手法による解決が難しい時代になってきているのです。つまり我々は、システムを広げるという手法によらない解決手段を見つけなければいけない時代に生きているのです。

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