「いままででいちばん感動した展覧会は?」と聞かれたら、まよわず、2006年に東京国立博物館で開催された「プライス・コレクション展」と答えるろう。若冲をはじめとする江戸絵画コレクションが日本に里帰りした展覧会だったのだが、所蔵者であるジョー・プライス氏の意向により、同展の展示スタイルにはこれまでにない独特の趣向が盛り込まれていた。ポイントは二つ。一つはガラスケースをなくすこと。もう一つは、できるだけ自然にちかい光の調整を試みること。ガラス越しに終日変わらぬ蛍光灯のもとでいくら目を凝らして見てみたところで、江戸絵画の本質はわからない。二つのポイントは、つまるところ、かつて江戸の代の人たちが鑑賞した状況下でこそ江戸絵画の魅力は最良の形で経験することができる、ということにきわまる。俗に「光の展示」とよばれた特別のブースが、そうした経験の場を創出すべく設けられた。
そのときはじめて、絵が「動く」という経験をした。ゆっくりと変化する光のなかで、絵はその表情を刻々とかえてゆく。現代の平面的な通常の照明ではほとんど気がつかないほどかすかに描かれた、金地の上の胡粉の雪も、鮮明に見えてくる。たんに見えてくるだけではない。雪は、いままさにふりそめたかのように、画中の人物の上にさらさらとふりかかってゆく。プライス・コレクション展「光の展示」の冒頭、酒井抱一の「佐野渡図屏風」で目の当たりにしたその光景はいまもはっきりと覚えている。ガラスケースが排され、作品をまぢかに見ることができたことはもとより、自然の光のうつろいのままに実にたくみに操作された光の効果が絶大だった。
それは所詮光のたわむれだったのかもしれない。操作された照明のもとで人為的に作り出されたかりそめの姿だったのかもしれない。作品「そのもの」はそうした仮の姿以前のところにある。そういう見方もたしかにあるだろう。しかし、あえていうなら、絵を前にしたわれわれは絵そのもののもとにあるのではなく、時々刻々のかりそめの姿、仮象のもとにあるのではないだろうか。絵だけではない。相手がものであれ人であれ、人間の経験とはそういうものなのだ。経験なんて所詮仮象にしかすぎない。しかし、だからこそ見えてくるすばらしさがある。そのことをプライス・コレクション展はあらためて深く実感させてくれた。
所蔵者プライス氏の意向をうけて、この展覧会の展示デザインを担当したのが木下史青氏である。作品そのものではなく、むしろその受けとめ方を日々あらたに提案しつづけている。人と環境、人間と自然との相互作用という言葉はもはや人口に膾炙したきらいもあるが、その相互作用をいかにわれわれが日常的に感受しているのかはほとんど明らかにされていないように思われる。今回は、展示空間の構想をはじめ環境デザインに取り組んでこられた木下氏とともに、そのつど変化する環境の中での経験の本質とはいかなるものか考えていきたいと思います。