第24回地球研市民セミナーが開催されました。


地球研市民セミナー(第24回)は3月14日、地球研講演室で「黄河プロジェクト」リーダーの福嶌義宏教授が進行役となり、木下鉄矢・地球研教授(中国哲学)が「黄河と華北平原の歴史」と題して話しました。

華北平原は黄河が流路を振り分けながら作り上げた大扇状地です。黄河によるこの大扇状地の形成については三つの時間が働いています。一つはヒマラヤ造山運動の中・後期にあたる約340万年前からの新構造運動と呼ばれる地殻変動。これは十万年、百万年を単位とする時間です。次に気温と雨量の大きな変動。気候変動と呼ばれるものですが、これは千年単位の時間です。最後に人間の思惑の世界、行為による変動。これはせいぜい百年に及ぶくらいの時間です。この三つの時間が絡み合って黄河の流路の振り分け、華北平原の盛衰が作られてきました。

紀元前6500年辺りより完新世最温暖期が始まり初期の農耕文化が華北平原の縁辺部に出現します。しかし華北平原の中心部にまではなかなか農地開発は進まなかったようです。開発が急激に進むのは灌木などを切り払い、また板結している黄土を砕くことの出来る鉄製の斧や鍬などが広がる戦国時代の半ばからです。前漢末には開発はピークに達しますが、逆に堤防で押さえ込まれた黄河の氾濫が頻発するようになります。これを解決したのが後漢時代・王景による治水事業でした。この事業の中心は華北平原南半部に発達していた人口水路網を改修・整備すること、それによりこの地域の民生を振興することでした。この事業の一環として築堤による黄河の流路の安定化が行われ、以後800年以上にわたり流路は安定し、洪水がほとんど起こらなかったとされます。

しかし北宋の時代からは黄河は太行山脈に近く北上する流路を取ろうとします。しかし時の政府は北から迫る遼国への軍事的配慮からより東よりの流路を維持しようとして莫大な無駄使いをし、華北平原北半部は衰退し始めます。元に入り、明、清の時代には、やはり軍事的な防衛戦として、また首都・北京の糧食を南から運ぶ京杭運河の維持という政治的配慮から、自然の趨勢に反する黄河の淮河へと合流する流路が無理に維持されました。華北平原南半部はこのため衰退したのでした。

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立本所長による開会挨拶(写真左)、福嶌義宏教授(写真中)、木下鉄矢教授(写真右)


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齋藤清明教授(司会、写真左)、対談の様子(写真中)、議論の様子(写真右)