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第12回地球研市民セミナーが開催されました。

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   2006年4月14日、第12回地球研市民セミナーが移転後の新研究所で開催されました。
 セミナー開始前には新施設の図書室や中庭、研究室、食堂などの施設見学会も行われ(下にその写真があります)予想を超える大勢の参加者が来られたため、急遽、会場設営も広くするまど、大変な盛況ぶりでした。
 講演では、DNA考古学の第一人者、佐藤洋一郎教授が、中国新疆ウイグル自治区の小河墓遺跡から出た小麦の種の分析で3500〜4000年前の中央アジアの気候を復元する研究などを解説しました。
以下はその要旨です。

「モンスーンアジアからシルクロードヘ」
−ユーラシア環境史事始−

佐藤洋一郎

 水田稲作は環境にやさしく、1万年もの間(日本では5000年ほど)稲作が続いたにもかかわらず大きな環境破壊はおきなかった、という説がある。たしかにムギ農耕は西アジアでは1万年ほどの歴史を持つがコムギ農耕地帯の多くは、砂漠化が進みもはや農業を続けることができなくなっている。では、イネの農耕(稲作)は麦の農耕より環境にやさしい」のだろうか。この25年ほど、私はイネの起源や進化の研究をしてきたが、「環境」という目で見直してみると、稲作の環境は今までに語られていたものとはずいぶん違っている。
 1万年におよぶ歴史を通じて、稲作地帯でも人口激減、杜会崩壊を伴う大きな危機がいくどもあった。最近ではその原因を気候変動など地球環境問題に求める説が有カだが、よく調べてみると問題はそんなに簡単ではない。研究が進んでいる日本を例に調べてみると、水田稲作がはじまってからの2500年ほどの間、単位面積あたりの収量は最近の150年を別とすればほとんど伸びはない。この間、大幅な人口滅や社会崩壊を伴う大飢饉は、冷害より旱ばつによるケースの方ががずっと多い。西日本では、うんか(害虫)による被害が深刻であった。冷害の年の多くは病気が発生している。さらに、大きな危機はいろいろな要素が複雑に絡み合った結果生じている。いずれの場合も、それまでの多様な農業のスタイルを水田稲作という単一のスタイルに転じたことが被害を大きくしている。つまり、多様性をなくしたこと、ことに作物やその品種の多様性である遺伝的多様性をなくしたことが最大の原因である。
 ムギ農耕がおきた西アジアなどでは農業と環境の関係はどう変化してきたのだろう。そこで私のプロジェクトではモンスーンアジアの外側、たとえばアジアの大乾燥地帯を走るシルクロードー帯の農業と環境のかかわりを調べてみることにした。タクラマカン砂漠東部の小河墓遺跡(3000年〜4000年前)付近では、現在年間降水量が20ミリに満たないが、驚いたことに、遺跡からはコムギ種子、ウシの頭骨などを伴い、胡楊(ポプラ)の巨樹の棺に納められたミイラが多数出土した。遺跡の4キロほど西の川のあとでみつけたたくさんの貝殻の1つは5000年前のものであった。シルクロードは3000年〜5000年前には今よりはるかに湿潤な士地だったのである。私は「緑のシルクロード」という名前をつけた。おそらく当時中央アジアー帯は緑豊かなムギ農耕の里であり、今のような砂漠の環境にはなかった。
 ところが2000年前から1500年前ころに砂漠化がすすみ、17000人もの人がいた楼蘭(小何墓遺跡の100キロ東)も紀元400年ころには姿を消した。耕作のやりすぎで土地が痩せたり、さらに灌概のやりすぎで地下に溜まった塩分が地上に噴出したためらしい。同じようなことはメソポタミアでも起きたというから、塩害がムギ農耕地域の環境問題として重要なのかもしれない。しかしこれも、単に塩の問題と考えたのでは問題の本質を見たことにはならない。人間のおこないを含むいろいろな現象が複雑に絡み合った結果として塩害をとらえなけれぱ、緑のシルクロードの復活はないであろう。
 いずれにしても、私たちは環境の歴史、とくに農業と環境のかかわりの歴史について、大きな誤解をしていたり、またいろいろなことを知らなかったことに気がつく。私のプロジェクトの究極の目標は、将来の農業のあり方を、イネのゾーンとムギのゾーンなどにわけて考えるための資料を出すことにあるが、今はそのために、それぞれのゾーンにおける農業と環境の関係史を詳しく明らかにしたいと思っている。
小河墓遺跡

小河墓遺跡。2005年4月撮影。北緯40度22.1分,東経88度403分のタクラマカン砂漠中にある。

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