都市化過程における民族文化と自然環境の変化
―2002年夏・中国内モンゴル自治区オルドス市とアラシャン盟調査報告―

楊海英(静岡大学,jhyang@ipc.shizuoka.ac.jp)

Report on the Oasis Project in Ordos and Alashaan, Inner Mongolia

Yang Haiying

目次
1.はじめに
2.「鄂爾多斯市」が誕生した背景
3.多雨の年の水事情
4.生態旅遊
5.生態移民と牧民新村
6.良い年のナーダム祭
7.おわりに―今後の調査方向

1.はじめに
 2002年8月16日から9月14日にかけて、総合地球環境学研究所の「水資源変動負荷に対するオアシス地域の適応力評価とその歴史的変遷 (略称オアシスプロジェクト。中尾正義教授リーダー)」の一環として、内モンゴル自治区西部鄂爾多斯オルドス市(元伊克昭盟)と阿拉善アラシャン盟において、社会と政治状況に関する人類学的な実地調査を行った。私はまず北京から列車で内モンゴル自治区の首府呼和浩特フフホト市に入り、そこから自動車をチャーターしてオルドス市とアラシャン盟を走行した(調査ルート図参照)。オルドス市においては都市化・工業化にともなう水消費量の増加問題、草原地帯における灌漑事情など、その実態と問題点を近現代史のなかでの大規模な人的移動との関連を中心に聞き取りを実施した。また、アラシャン盟では、主として近現代史に関する資料収集をおこなった。

2.「鄂爾多斯市」が誕生した背景
 黄河の大湾曲地帯に位置する高原をモンゴル人は古くからボル・トハイ(褐色の湾曲地)と呼び、長城以南の漢人農民たちは河套と称してきた。15世紀以降、オルドス・モンゴル部がこの地の主要な住民となり、次第に地域集団化の道を歩み、オルドスは地名ともなった。清朝時代に入ると、オルドス・モンゴル部はイケ・ジョー(伊克昭)盟に改編された。イケ・ジョー盟は7つの旗から構成されていた。中華民国は清朝の行政組織名を踏襲しながらも、内モンゴルを中国内にとどめておくために何回か内地の省県制度を導入しようと試みたが、いずれも反対に会い(Oghonus Chogtu 2001:141-143)、全地域での成功には至らなかった。社会主義時代、イケ・ジョー盟内の7旗は統合されたり、分割されたりはしたが、盟旗制度そのものの廃止はなかった。 
 このように存続してきたイケ・ジョー盟は、2001年9月28日付けで行政組織上、鄂爾多斯オルドス市に改編された。中国の主要新聞やテレビ局はそろってこのニュースを報じた。ここで、政府側が今回の改編をどのように位置付けているかを理解するために、地元内モンゴル自治区の『呼和浩特フフホト晩報』の報道を見てみよう。
 『呼和浩特晩報』は「〈大きい寺院〉から〈多数の宮殿〉へ―イケ・ジョー盟は歴史の彼方へ去り、新生鄂爾多斯市が誕生へ」と題する記事を一面に掲載した(『呼和浩特晩報』 2001)。「大きい寺院」はイケ・ジョーのことで、「多数の宮殿」とはオルドスをそれぞれ指す。いずれもモンゴル語の漢語訳である。いわゆる「大きい寺院」とは、黄河の南岸に立っていた広慧寺(Vang-un ghoul-un juu)の俗名である。オルドス部が清朝の支配下に入った最初のころ、この地で集会を開いていたことから、行政組織名ともなったのである。一方、「多数の宮殿」ことオルドスとは、チンギス・ハーンの祭殿群を指す言葉である。
 『呼和浩特晩報』はさらにつぎのような論評を加えている。「およそ300年間つづいた盟旗制度が幕を閉じ、世界とつながる鄂爾多斯市がスタートした」(『呼和浩特晩報』 2001)。同新聞が伝える新生鄂爾多斯市は面積が8.7平方キロメートルで、総人口は139.5万人にのぼる。そのうち主体たるモンゴル族の人口は約15.8万人である。開発可能な地下鉱物は33種類もあり、そのうち石炭の貯蔵量は中国全国の6分の1を占める。天然ガスの貯蔵量は5000億立方メートルに達し、中国の重要な資源基地である。また、アルブス山のカシミヤは「柔らかい黄金」と呼ばれるほど、重要な畜産品のひとつとなっている。鄂爾多斯市の農民や牧民の年収は2453元(10000円≒670元 2002年8月現在)で、都市住民は一年間に約5502元の現金を生活に使用しているという(『呼和浩特晩報』 2001)。
 このように地元メディアが熱をこめて報道しているのに対して、モンゴル人たちは意外に冷静に見守っている。彼らはイケ・ジョー盟が鄂爾多斯市になったことで、さまざまな危機感を抱いている。それを以下3つにまとめることができよう。
 ひとつは故郷喪失の問題である。これは、内モンゴル自治区全体に共通することでもある。いまの中国政府はかつての中華民国のように強制的に省県制度を押し付けようとはしないだろう。そのかわり、盟旗という名称は古臭くて、市がついた行政名の方が進歩的である、との宣伝が功を奏しているからである。盟旗制度はたしかに清朝がモンゴルに与えたものであり、モンゴルの横の連携を遮断し、弱体化につながった面もある。それでも、300年間もつづいた以上、それなりにモンゴルの社会制度として定着した、とも認識されている。とりわけ、それぞれの部族集団を特定の地域と結びつけて地域集団に改造したのは、ほかでもない盟旗制度である。大規模な移動遊牧こそできなくなったものの、固定させられた「故郷」(notugh)への愛着が生まれた。モンゴル人が定着した地域にはかつての部族名や氏族名がつけられた。オルドスといえば、オルドス・モンゴルの故郷であり、オルドス部という往時の歴史をも彷彿させる。したがって、以前にジョーウダ盟が赤峰市に、ジェリム盟が通遼市に改編されたことは、故郷の喪失につながると理解されている。
 つぎに、古い盟旗から進歩的な市に変わったことで、西部大開発運動にチャンスを求める内モンゴル自治区以外からの漢人が大量に流入してきたことである。1982年に政府が四川省から内モンゴル自治区へ移民させようとしたとき、学生運動が発生したことがある。大規模な移民は民族意識を刺激しかねないことから、現在建設中の三峡ダム周辺の住民を内モンゴル自治区へ移住させるようなことを政府は進めていない。しかし辺境の少数民族地域の活性化を促進するという名目で、人口移動は黙認するだろう。
 盟が市になり、漢人が増加してモンゴル文化が衰退してしまうのではないかという印象を与えてしまった事例がある。それは新生鄂爾多斯市の英文表記の問題である。鄂爾多斯市の英文表記は現在、Erduosiとなっている。これは漢語の「鄂爾多斯」のローマ字表記(ピンイン)であり、モンゴル文字を転写したものでもなければ、モンゴル語口語を忠実に記したものでもない。Erduosiをモンゴル語発音に近いOrdusあるいはUrdusという表記に改めるべきだとの意見はまったく無視されている。
 そもそもイケ・ジョー盟を市に変えた段階で、過去にジョーウダ盟が赤峰に、ジェリム盟が通遼にされたのと同様に漢語の市名にならなかったのは、地元の大企業「鄂爾多斯カシミヤ羊絨集団」を一層宣伝するためである。つまり、今回の改名は、なにもオルドス・モンゴルというモンゴル諸集団のなかで特別な歴史をもつ部族集団の存在を強調するために採用したものではない。あるいはこの地域に存在するチンギス・ハーンの祭殿群としてのオルドスを意識したものでもない。ブランドとしての「鄂爾多斯カシミヤ羊絨」を一層販売するための策略にすぎない。ちなみに「鄂爾多斯カシミヤ羊絨集団」は1970年代後半から日本の援助で開始された企業である。わずか10数年間で中国においてブランドとしての地位を獲得できたのは、1979年から日本の技術を積極的に導入したことと、地元から供給される原料カシミヤが質量とも安定しているからである。
 いまや中国の主要なテレビ・チャンネルで毎日のように「鄂爾多斯カシミヤ羊絨温暖全世界!」(全世界の温もり、カシミヤの〈オルトス〉!)というようなコマーシャルが流れるようになった。「ErdusiをOrdusやUrdusに変えてもいい。ただし、国家工商局で商標登録をしている以上、改名の費用をモンゴル人はもつか」と、地元企業の幹部が言い放ったそうだ。モンゴルの部族名やチンギス・ハーンの祭殿群と無関係の「鄂爾多斯市」の存在に、モンゴル人はしばらく満足しなければならない。地名を含め、少数民族語の固有名詞を「名従主人」の原則で現地音でローマナイズしなければならないことは、中国でも法律上決まっているはずである(全国人大教科文衛委員会教育室教育部語言文字応用管理司 2001:128)。たとえばフフホト市も通常ピンインのHuhehaoteとはせずにHuhhotとして定着しているのは、周知のとおりである。にもかかわらず、OrdusやUrdusを採用しないで、ひたすらErduosiで通そうとするよりかたは、あきらかに違法であるとしかいいようがない。この問題は一鄂爾多斯市にとどまらず、内モンゴル自治区ひいては中国全土に共通する問題でもあろう。

3.多雨の年の水事情
 新しく誕生した鄂爾多斯市の2002年は、雨の多い一年間だった。雨が多くても、鄂爾多斯市の水不足の問題は一向に解決されていない。
 鄂爾多斯市の政府所在地は東勝区(旧東勝市)にある。『東勝市誌』にはつぎのような記述がある。東勝区は標高約1500メートルの高原に位置し、年間降雨量は約400ミリである。東勝の周辺には季節的に水が流れたり、なくなったりする内陸の尻無し河しかない。地下水位は深く、10メートル以上掘らないと水がでない(『東勝市誌』編纂委員会 1997:3-12)。1990年の統計では約14万人の住民を抱えていたが(『東勝市誌』編纂委員会 1997:3-12)、大企業が増加し、人口は以前よりも増えている。
 1980年代初頭に私が東勝市の学校に通っていたころ、夏になると断水の日々がつづいた。学校の食堂は営業が中断され、市販の水を買いにでかけたものだった。その後若干改善されたとは聞いていたが、本質的に改善されたわけではない。政府は黄河の水を東勝へ引く「導黄工程」というプロジェクトを一時計画していたが、標高の落差が大きく、莫大な費用がかかるため、中止されて長くなる。そこで、市政府所在地を現在の東勝区から西へ数十キロ離れたところのカーバクシという地へ移転する計画が進められている。カーバクシには河川があり、地下水も豊富で、立地条件が優れているという。このように、「鄂爾多斯羊絨集団」という大企業を優遇し、工業の発展を目指して盟を市に改編したものの、早くも水不足問題で頓挫しているのが事実である。
 新生鄂爾多斯市の水不足とそれにともなう移転の話を聞いてから、私はさらに西の草原地帯へすすむこととした。
 市西部の草原地帯は例年にない緑に覆われている。老人たちの話では1964年以来のことだそうだ。なかには1950年の共産党政権成立以降、はじめて草が良く成長した年だと表現する人もいる。たしかに至るところで目にする草原の状態は良く、家畜もまるまると肥っていた。
 まずオルドス市ウーシン旗西部にある牧業地域で実態調査をはじめた。西部大開発の政策の一環として、経済的に後れた地域を優遇するため、家畜税を徴収しない見通しだと地元ソム(村)の責任者たちが説明していた。当然その情報は牧民たちにも伝わっており、多額の税金に対する不満な声を今年は聞かれなかった。たとえば2000年夏に、ウーシン旗のある牧民が政府に納付していた税金には牧業税、屠宰税(屠殺税)、特産税、農業税、農業附加税、車船使用税、地方教育附加税など多種多様な税金が含まれていた。税金のほかに、地元のソム(村)政府には管理費、教育附加費、優撫費、民工建勤費、民兵訓練費、計画生育(出産)費などを納入しなければならなかった。家族2人からなる所帯で、ヒツジ160頭を飼育し、数畝の飼料用畑をつくっていた場合、1069.83元にのぼる税金と雑費を払わなければならなかった(楊 2003)。牧民たちは「昔、中華民国の国民党は税金が多かったのに対し共産党は会議が多かった。いまや共産党は税金も会議もどっちも多い」、と表現していた。2001年までの税金政策と比べれば、諸税免除という政策は魅力的である。税金免除というニュースもおそらく牧民たちの心情を快くしたのであろう。そのため、草原も一段と美しく見えているかもしれない。
 また、今年の羊毛の値段は1キロ当たり約14元で、昨年までと違い等級別に売買されず、一律この値段であったという。人々は羊毛値段の高騰をひそかに待っている。
 オルドス地域に羊毛を求めてやってくるのは、内モンゴル自治区の西にある寧夏回族自治区の回族商人たちである。彼らは集団でトラックを運転して牧民の家をまわるが、牧民たちの家に入ろうとはしない。牧民たちから出されたお茶や食事も口にしない。直接井戸から水を汲み、屋外で石を使って簡易五徳を作り、自炊する。それはイスラム教徒である彼らが異教徒のモンゴル人の食べ物をタブー視しているからである。モンゴル人女性たちは回族のこのような行為を好意的に受け取る。中央アジアの遊牧民と同様に、モンゴルには接待文化があり、客が訪れたらお茶や食べ物を出してもてなすのが一般的的である。もてなしは、女性たちにとって、決して楽な仕事ではない。接待をせずにすむから女性たちは喜んでいるが、回族商人たちは商売上手で、羊毛を安く買い取ろうとするため、手ごわい相手でもある。
 もうひとつの調査地は、農業地域のオルドス市ウーシン旗西南部の河南郷である。河南とは黄河の支流無定河の南に位置していることからの名称である。無定河の上流の名は紅柳河で、いくつかの細い流れと合流してから無定河となる。モンゴル人はこの河をシャルウスン・ゴールすなわち「黄色い水の河」と呼ぶ。ここでは灌漑事情について地元のモンゴル人に聞いた。それによると、1978、1979年頃に掘った機井と呼ぶ電気ポンプ式井戸はほとんど使えなくなったという。当時は2〜3メートル掘れば水が出ていたが、灌漑農地の拡大により、現在では地下水位が下がり汲み上げられなくなったためである。いまや地下へ100メートルほど掘る深水井戸を造らない限り、灌漑できなくなっているとの証言を得た。深水井戸は個人の力でできるものではない。井戸を掘るため、農民たちは数戸で連携したり、政府に低利子投資を懇願したりしている。
 農業は漢人がやるもので、農業をはじめたら、モンゴル人はモンゴルらしさを失う、という見方は大勢のモンゴル人たちのあいだに存在する(楊 1990:35-37)。河南郷にはモンゴル人農民が約2000人ほど居住しているが、彼らの子どもたちが通うモンゴル語小学校は数年前に廃校になった。モンゴル人の子弟たちは仕方なく漢語学校に通うようになっている。若いモンゴル人を中心に、母語であるモンゴル語を忘れていく人が増えている。母語を忘れ、その上農業に従事していることから、牧畜地域のモンゴル人たちから「漢化した人たち」とも見られている。

4.生態旅遊
 環境問題への関心が高まるにつれて(写真1)、生態という言葉が中国でも最近良く使われるようになった。ただ、現代漢語の生態という言葉は、日本語のそれとは多少意味が異なり、人間の手が加えられていない手つかずの自然を指すニュアンスが強いようである。こうしたなか、「生態旅遊」という現象が内モンゴルとその周辺でめだってきている。
 生態旅遊とは、名所や遺跡を訪れるのではなく、自然環境の優れた場所へ行くことを意味する。隣接の陜西省や寧夏回族自治区から、内モンゴル自治区西部へ生態旅遊に訪れる観光客が年々増加している。観光客らは生態保護の名目で囲まれた草原を目指す。このような草原を「生態開発区」と呼ぶ。
 「生態開発区」とされる観光地(写真2)は、内モンゴル自治区西部に位置するオルドス市のオトク旗とオトク前旗に数カ所点在する。いわゆる生態開発区と呼ばれる小さな草原は、農耕化された地域に囲まれている。オルドスの草原が開墾され、大面積の農耕地が出現したのは、1950年以降における漢族農民の入植の結果である。漢人農民の手が届かなかった地域にモンゴル人が居住し、細々と牧畜を営んできた。漢人農民の居住地に比べれば、植生も破壊されず緑がたくさん残る。このようなところが生態開発区となり、旅遊という観光資源にもなったのである。
 モンゴル人牧民たちが生活の場としている草原は漢人の目に生態の良い場所として映ったため、開発の対象とされている。政府や大手企業は開発と保護を名目に、草原への進出を進めている。現在、草原を生態開発区として開発しているのはいずれも化学工業集団やカシミヤ工場集団の経営者たちである。
 このような生態旅遊は、世界的に見られるエコ・ツーリズムの本質と通ずる一面がある。橋本は『観光人類学の戦略』のなかで、エコ・ツーリズムの登場についてつぎのように分析している。世界の先進国は自らの手で自然を破壊しながら、自然の大切さを説く。そして自分たちの生活スタイルをなんら変えずに、途上国の自然保護を語る。それには地球の環境危機の議論を先延ばししようというねらいすら見え隠れ、自然保護の名目で新しい開発を企む可能性もある。エコ・ツーリズムは自然保護の美辞を弄したビジネスであると指摘している(橋本 1999:266-289)。オルドス市の現状はまさにそれの中国版であるといっても過言ではなかろう。
 オトク旗とオトク前旗は中国の生態保護重点地域に指定されている。いわば、環境破壊のもっともすすんだ地域と認定されたのである。破壊された環境をもとどおりに復元することを「開発」と表現することからも、中国における独自の生態観の一端を垣間見ることができよう。

5.生態移民と牧民新村
 すでに冒頭で触れたように、内モンゴル自治区オルドス市は歴史上「河套」と呼ばれ、漢族の中原王朝と北方の遊牧民が勢力をはって対峙してきた地域のひとつである。漢人側が強くなったときには河套地域に進出して都城を建設し、屯田を行った。このような屯田地域の跡はほとんど例外なく塩田化がすすみ、その周辺には沙漠が広がっている。これは最近中国の研究者たちにも認められている(景愛 2000:136-176)。
 河套すなわちオルドスは南と北西が長城に囲まれている。長城に沿ってその両側に延々と数百キロにのぼる沙漠の帯がある。早くとも18世紀なかばころから漢人農民に開墾された結果である。このように、漢人農民が活動してきた地域は、すべて環境破壊という結果を招いている。
 一度破壊された自然環境を元通りに回復させようと努力することを中国では「生態建設」という。生態建設の一環として、「生態移民」があることを内モンゴルの新聞『鄂爾多斯日報』は1999年12月8日付けで伝えている(『鄂爾多斯日報』 1999年)。たとえば、オルドス市オトク前旗マンハト・ソム(村)がそのような地域のひとつである。マンハトとは「沙漠のあるところ」との意味である。沙漠化がすすんだため、生計維持が難しくなり、他の地域への移住が政府主導で行われている。このような「生態移民」現象は内モンゴル自治区の各地で行われており、各界の注目を浴びている。たとえば、台湾に拠点をおく蒙蔵委員会編集の『蒙蔵之友』78号は『聯合報』の記事を引用するかたちで、内モンゴル自治区東部エベンキ族の「生態移民」について伝えている(『蒙蔵之友』78 2002:20-21)。また、『朝日新聞』も2002年10月12日付けで「森追われる〈最後の狩人〉―ヤクート族、中国の定住政策で」と題する記事を出している。
 沙漠のマンハト・ソム(村)からの移民たちはオトク前旗政府所在地のオルジャチ鎭周辺などの地域にうつされた。移住費は政府が拠出する。新しい居住地は整然と区画され、「牧民新村」との名称が与えられている。かつて、長城の北側で形成された入植漢族の村落を「社会主義新農村」と呼ばれていた。「社会主義新農村」が沙漠化し捨てられたあと、「牧民新村」として生まれ変わろうとしている。
 政府は牧民新村の住民一戸につき20畝の灌漑農地と乳牛1頭を買いあたえる。こちらは低利子借款で、3-4年かけて返済することになっている。「牧民新村」から生産された牛乳は寧夏回族自治区の首府銀川市などに運ばれる。オルドスは寧夏回族自治区に羊肉、牛乳などを提供する食料基地となりつつある(写真3)。

6.良い年のナーダム祭
 オルドス市から黄河を西へ渡って、寧夏回族自治区に入った。ここで、オルドス市を訪れて羊毛や羊を買う回族商人に話を聞いたあと、賀蘭山をこえてアラシャン盟に入った。アラシャン盟は、西から東へエジナー旗、アラシャン右旗、アラシャン左旗という3つの旗からなる。東西交通の歴史的な視点から見れば、アラシャン地域は「河西走廊」の要所に位置する。南北を軸にすれば、モンゴル高原の遊牧民が南下して中原を脅かすときのルートであり、長城以南の政権がたまに北上して反撃するときの道でもある。そして現代中国においても、アラシャン盟がもつ地政学的な意義は失われていない。
 このようにアラシャン盟の存在が重要であったことから、この地のモンゴル族は、中華民国時代から現在まで、エジナー旗は甘粛省に、アラシャン左右両旗は寧夏省(1950年以降は寧夏回族自治区)に、それぞれ領有されたことがある。最終的にアラシャンは内モンゴル自治区の一盟としての地位を獲得するが、これには複雑な民族関係と民族政策が反映されている。
 一昨年(2000)、アラシャンはひどい干ばつにみまわれた。そのため、家畜が群れ全体として妊娠できないくらい牧民たちの生活に重大な影響をもたらしたことが伝えられている(小長谷 2001:83-84)。今年は往年とまったく違い、見渡す限りの沙漠性草原は緑に覆われていた。
 今年は良い年となったこともあって、アラシャン盟政府所在地のバヤンホトでは、牧民たちの祭典、ナーダム祭が開催されていた。バヤンホトとは「豊かな町」との意である。ナータダム祭に欠かせないモンゴル相撲、ラクダの競争などモンゴルの伝統的なスポーツも披露されていた。漢族や回族の商人たちは、ナーダム祭の会場で商売に励んでいた。定住して町に住むモンゴル人たちも、これを機会に、忘れていた馬の背中に跨って写真に収まっていた(写真4)。
 1940年末から1950年にかけて、この地で西蒙自治運動が展開されていた。そのときの当事者たちで今も健在な人に話を聞きたかったが、ナーダムの宴席から彼らを引きはなすことはできなかった。雨が多く、草の成長も良い年には酒の消費量があがる。良い年の過ごし方だという。
 アラシャン・モンゴルの良い年の快適な暮らしをこれ以上邪魔しないよう、私はアラシャン左旗東部のバヤンジラタイ鎭を目指した。バヤンジラタイにすむイスラム教を信じるモンゴル人たちの実態を調べるための旅である。これらのモンゴル人の歴史と現状については、近いうちに別稿でとりあげる予定である。

7.終わりに―今後の調査方向
 以上、極めて短期間の調査であったが、それでも現在の人々活動から近現代における社会変化の脈拍をよみとることができよう。大量の漢人農民が入植してきた20世紀初頭から、オルドス高原やアラシャン盟は多民族地域と化した。モンゴル人が営んできた遊牧が次第に衰退し、半農耕・半牧畜の生活様式が定着するようになった。1950年代以前、このような変化はまだ緩やかなものであったのに対し、社会主義集団化時代は未曾有の速度ですすんだ。そうしたなか、「水環境」の点でもかつてない問題に直面するようになってきた。中国が国をあげて西部大開発を推進している現在、都市化や工業化の流れは当分つづくであろう。少数民族側も、政府主導の開発政策に協調し、ともに豊かな生活を実現させようと努力している。都市化・工業化=進歩と発展という構図のなかで、民族文化をいかに維持し、自然環境の破壊をどのようにさけるかについて、さまざまな試みが展開されている。
 「イケ・ジョー盟が鄂爾多斯市になったのは、〈鄂爾多斯カシミヤ羊絨集団〉がこの地にあるからだ。〈鄂爾多斯カシミヤ羊絨集団〉が大量のカシミヤを吸い上げて、その製品を日本などへ輸出しているから、ヤギの飼育が増えた。ヤギが増えたから、草原が沙漠化した」。これは、現地オルドス市に住む一部知識人の見方である。このような見方はいまのところ世論の主流になるようなことはなかろう。というのも、大多数の人々は多少環境破壊の代価をはらってもまず経済的に豊かになることを優先したいと考えているからである。市場飽和の情報がゆっくりと現地の牧民に伝わるまで、カシミヤの増産を目指す人は減らないだろう。しかし、人々がすでに視線の矛先を工業先進国日本にも向けるようになった現在、グローバルな立場に立脚した調査研究をすすめなければならないだろう。

注記
 この調査報告書の一部文章は、楊海英「2002年夏 中国内モンゴル自治区オルドス市とアラシャン盟調査報告」(『静岡大学人文学部 人文論集』)と重なっていることを断っておきたい。

参考文献
阿拉善盟地方志編纂委員会弁公室
1988 『阿拉善盟史志資料選編』第三輯,銀川:寧夏社会科学院印刷廠。

『東勝市誌』編纂委員会 
1997 『東勝市誌』,呼和浩特:内蒙古人民出版社。

景愛
2000 『沙漠考古通論』,北京:紫禁城出版社。

橋本和也
1999 『観光人類学の戦略』,京都:世界思想社。

『呼和浩特晩報』2001年9月29日。


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