黒河上流域調査報告

尾崎孝宏(鹿児島大学)

目次
◆ はじめに
◆ 調査活動の概要
◆ 明らかになった点
◆ 今後の展望
◆ 付録:収集資料一覧

◆ はじめに:調査の位置付けなど
本調査は、総合地球環境学研究所が推進している研究プロジェクト「水資源変動負荷に対するオアシス地域の適応力評価とその歴史的変遷」における、黒河上流部における初の現地調査である。参加者は日本側より尾崎孝宏(鹿児島大学)、中国側より鐘進文(中央民族大学)が参加し、蘭州以遠の調査地においてはこの2名が運転手1名を雇い、中国製ジープ1台に搭乗して各地を巡った。調査期間は後で詳述するように、2002年8月の約1ヶ月間である。
今回の調査地は甘粛省粛南ユーグ族自治県とその周辺地域であり、酒泉市・張掖市・青海省祁連県の領域を含む。宿泊地は、調査開始以前にはテント泊も想定していたが、予想以上にルート近辺の人口が多かったことと寒冷であったことにより、結果的に全て固定建築物(ホテルもしくはインフォーマント宅)への宿泊となった。なお、調査に使用した言語は主として漢語であり、筆者の都合で現地方言から標準漢語への通訳が必要な際には随時、鐘が行った。唯一、平山湖モンゴル族郷では筆者がモンゴル語による聞き取りを行った。
調査者は2名とも、民族学(文化人類学)を専門とするため、調査内容は主に当該分野の専門に関わる領域であった。ただし、今回の調査地域については、昨年度の予備調査において踏査されなかった地域であるため、多分にジェネラルサーベイという性格の強いものであった。その中でも、今回の調査は、特に以下のような調査項目を特に重点的に調査した。
1.黒河流域と梨園河流域の広域的観察
2.牧畜で森林が破壊されたと認識されている地域と、森林が比較的良好に保護されている地域の比較観察
3.現地で行われている生業、特に牧畜に関する聞き取り調査
4.住民の移住に関する聞き取り調査
5.統計など文献資料の収集
以上のような調査項目を選定するに至った経緯は以下のとおりである。まず、黒河上流域は既存の調査報告等が存在せず、現地に関する情報が乏しいことから、できる限り調査状況の全般的な状況に関する把握ができるようなデータ収集に努力した。これに対応するのが上記の1.および5.である。なお、梨園河は黒河の支流であり、張掖から粛南ユーグ族自治県の県中心地(紅湾寺鎮)へ至る国道沿いに流れているため、県中心地からのアプローチが比較的容易な地域である。一方、粛南ユーグ族自治県内の黒河はアプローチが困難であり、調査を予定していた寺大隆林場は土砂崩れにより結局到達不可能であった。こうした事態は事前の地図の分析からある程度予測される事態であり、今回の調査における黒河本流は青海省内を主に対象とした。
ついで3.についてであるが、これは『中国少数民族』『社会歴史調査』などの資料の記述と粛南ユーグ族自治県での現地調査経験を有する鐘からの事前情報より、ユーグ族の生業は牧畜が中心であるとの予断に基づいている。さらに2.は、森林破壊の原因として牧畜、とくに過放牧が指摘されることの多い一般状況を受け、果たして牧畜が森林破壊を引き起こしているという具体的証拠が存在するのか、という小長谷有紀氏(水需給過程グループコアメンバー)の疑問に答えるための実証的データを収集する目的で行われた。
4.については、ユーグ族は1950年代末に青海省より現住地域へ移住させられた事実があるとともに、現在は牧民を農業地区へ移住させる政策が行われているという鐘の指摘を受け、政策的な移住が住民配置を決定する大きな要素となっていることが予想されるため、調査項目に加えた。

u 調査活動の概要
本調査の調査期間と調査活動の概要を、時系列に沿って以下に示す。
1. 張掖までの移動
8/3:北京到着(尾崎)。
8/4:蘭州到着(尾崎)、鐘と合流。蘭州泊。
8/5:ジープの調達。蘭州泊。
8/6:張掖へ移動。道中、収穫作業用と思われる小型コンバインの隊列が移動するのを頻繁に見かける。
2. 粛南ユーグ族自治県中心地(紅湾寺)ベースの調査
8/7:地元の運転手に交代し、紅湾寺へ移動。この時期、黒河には水がないという運転手の事前情報だったが、途中、張掖南郊の黒河大橋では河水が存在した。
8/8:紅湾寺鎮近辺を視察。水力発電所(N38°49′55.5″、E99°36′58.6″)、紅西路軍記念塔(N38°49′55.5″、E99°36′58.6″)民族商場など。
8/9:康楽区青龍郷で調査。天然林(N38°47′06.1″、E99°43′15.8″、2796m)の視察、孔剛木護林站(N38°47′18.8″、E99°44′15.3″、2739m)での聞き取りと同地の「封山育林区」(植林地を有刺鉄線で囲った一角)の視察、ユーグ族牧民秋営地(N38°47′24.3″、E99°45′20.5″、2830m)での聞き取り、上游村「村部」(定住地区:N38°49′30.3″、E99°45′35.5″、2750m)の視察などを行う。
8/10:天候不良のため、紅湾寺鎮にて文献資料収集を行う。
8/11:大河区水関郷で調査。水関郷政府での聞き取り・文献資料閲覧、郷中心部の「農戸」での聞き取り、長溝寺(N38°58′03.4″、E99°26′05.1″、2639m)の視察などを行う。
8/12:康楽区楊ク迢ス、大河区雪泉郷(旧国営大岔牧場)で調査。ユーグ族牧民夏営地2地点(N38°37′05.7″、E99°33′31.1″、3691m)(N38°35′18.4″、E99°35′11.7″、3628m)での聞き取り、楊ク迢ス中心地(N38°32′32.4″、E99°44′59.6″、2873m)の視察などを行う。
3. 黒河最上流部の移動調査
8/13:旧国営大岔牧場の南の峠(N38°36′31.3″、E99°28′25.6″、4042m)を越え、青海省祁連県へ移動。県中心地(八宝鎮)の西にある、黒河本流と八宝河との合流地点(青海省と甘粛省の省境:N38°13′13.0″、E100°10′52.5″、2630m)および黄蔵寺(元はユーグ族の仏教寺院、現在は回族のモスク:N38°13′03.1″、E100°11′36.3″、2677m)の視察、宝瓶河牧場(正式名称は中国農墾総公司甘粛省総公司張掖分公司宝瓶河牧場)「場部」(中心地:N38°14′28.3″、E100°10′23.2″、2613m)で牧民(夫はチベット族、妻はユーグ族)からの聞き取りなどを行う。
8/14:八字_草原(祁連山南麓、黒河沿いの河谷一帯)を西へ移動、トーライ牧場(N38°48′36.6″、E98°24′48.5″、3366m)を経て再びユーグ族自治県に入り、祁豊区祁青郷(N39°10′55.5″、E98°00′17.7″、2934m)まで移動。八宝鎮にて文献資料収集、野牛溝郷の回族牧民夏営地(N38°46′41.2″、E99°03′48.4″、3628m)での聞き取りなどを行う。
8/15:鏡鉄山鉱区(祁青郷内だが行政的には嘉峪関市の管轄:N39°18′12.2″、E97°56′21.4″、2682m)、嘉峪関を経て酒泉へ移動。祁青郷政府での聞き取りなどを行う。
4. 張掖への移動調査
8/16:祁豊区中心地で調査。祁豊区公署(N39°38′52.0″、E98°20′49.2″、1753m)で文献資料収集、文殊寺の視察などを行う。
8/17:黄泥堡ユーグ族郷で調査後、明花区蓮花郷へ移動。黄泥堡ユーグ族郷政府(N39°42′42.6″、E98°49′51.3″、1401m)、黄泥堡ユーグ族郷中心地のユーグ族農民宅、蓮花郷のユーグ族牧民宅(N39°38′07.2″、E99°02′32.1″、1417m)での聞き取りなどを行う。
8/18:明海農業開発区で調査後、張掖へ移動。西海子(灌漑により水が大幅に減少した湖:N39°36′24.0″、E99°07′58.2″、1395m)の視察、蓮花郷から農業開発区へ移住したユーグ族農民宅(N39°23′14.9″、E99°23′30.4″、1463m)での聞き取りなどを行う。
5. 張掖ベースの調査
8/19:寺大隆林場での調査を予定していたが、途中で土砂崩れ(N38°37′05.8″、E100°00′50.8″、2119m)により前進できず張掖へ引き返す。途中の西水郷政府(N38°37′10.6″、E100°07′45.1″、2289m)にて聞き取り調査などを行う。
8/20:馬蹄区で調査。馬蹄寺(N38°28′36.4″、E100°25′02.3″、2537m)の視察、大都麻郷のチベット族牧民冬営地(N38°28′03.1″、E100°28′23.1″、2429m)および馬蹄区公署(N38°28′47.6″、E100°25′14.2″、2515m)での聞き取りなどを行う。
8/21:1930年代にモンゴル人民共和国(当時)から移住してきたハルハ・モンゴル族が居住する平山湖モンゴル族郷で調査。平山湖モンゴル族郷政府(N39°10′01.2″、E100°50′02.8″、1864m)、モンゴル族牧民冬営地(N39°04′29.2″、E100°44′18.0″、2224m)、モンゴル族牧民夏営地(N39°04′26.4″、E100°44′04.8″、2222m)にて聞き取り調査などを行う。
8/22:康楽区紅石窩郷で調査。ユーグ族牧民秋営地(N38°42′15.1″、E100°00′18.7″、3141m)、康楽区公署(N38°48′01.5″、E99°55′26.1″、2553m)にて聞き取り調査などを行う。
8/23:休憩日とし、張掖市内で文献資料収集を行う。
6. 蘭州への移動調査
8/24:皇城区馬営郷へ移動。馬営郷西城村の村書記宅(N38°02′12.9″、E101°33′52.8″、2722m)にて聞き取り調査などを行う。
8/25:皇城区中心地へ移動。馬営郷金子灘村の夏・秋営地(N37°59′22.5″、E101°32′34.7″、2975m)視察、馬営郷西城村のユーグ族牧民秋営地(N37°59′03.7″、E101°35′45.8″、2952m)および東灘郷のユーグ族牧民秋営地(八字_からの移住者:N37°47′08.1″、E101°44′13.2″、2763m)にて聞き取り調査などを行う。
8/26:西営河林場、武威を経て蘭州へ移動。西営河林場(N37°50′04.5″、E102°00′46.1″、2266m)にて聞き取り調査の予定だったが、幹部が不在のため調査不可能であった。
7. 北京への移動、帰国
8/27:車両代・運転手日当の精算、収集した資料の整理を行う。蘭州泊。
8/28:蘭州の甘粛人民出版社にて書籍の購入を行う。蘭州泊。
8/29:北京へ移動、調査チーム解散。
8/30:中央民族大学にて書籍の購入を行う。北京泊。
8/31:日本到着(尾崎)。

u 明らかになった点
本節では「はじめに」で述べた調査項目に沿って、明らかになった事項を挙げていく。
1. 広域的観察
今回の調査では移動中も含め、特に調査地域の森林に注目していたこともあり、実見に基づいた森林の分布について述べたい。
祁連山中において森林を形成する喬木の樹種は、主に針葉樹の「青海雲杉」(マツ科)である。粛南ユーグ族自治県の人々の一般会話では漢語で「松樹」と呼んでいる。現地では「陰樹」として認識されており、山の北斜面に塊状もしくは帯状の単一林を構成している。マクロ的には粛南ユーグ族自治県は山脈の北麓にあたるが、青海雲杉はミクロ的な意味における北斜面にのみ生育するため、個々のクラスターの面積は比較的小さく、広域的な森林を形成することはない。南斜面には「柏樹」(トウヒ科)などの潅木が生育するが、草原の中に点在して生えている状態であり、森林と呼びうる状況ではない。なお、現地では「柏樹」は「陽樹」として認識されている。
ただし、針葉樹林の分布高度はおおむね標高2400-3100mに限られ、それ以上の標高では北斜面であってもそれ以上の高度では「扁麻」(科目などの詳細は未同定:高さ1m程度で、調査当時、小さな黄色い花を咲かせていた)と呼ばれる低潅木が疎らに分布するのみである。更に高度が上がり、標高4000m以上になると潅木も消滅し、草生も疎らとなる。
なお、川沿いの水分が豊富と思われる地域には「柳樹」(科目などの詳細は未同定)と呼ばれる高さ3-5mの広葉樹や「楊樹」(ポプラ)が生育している。また、針葉樹林の分布高度より標高の低い地域では、川沿いや植林したと思われる集落近辺に上述の樹木が見られるのみで、それ以外の地域は概して乾燥により草生が疎らな草原となっている。
2. 牧畜による森林破壊・森林保護
現地の牧民は、自らの飼養する家畜のうち、ヒツジとヤクについては樹木を食べないと認識している。ただし、筆者の実見では、ヒツジは潅木の葉を食べることもある。なお、筆者の目撃したのは農耕地域において伐採された潅木の葉をヒツジが食べていた光景であり、潅木は飼料として与えられていたわけではなく、ヒツジが盗み食いをしている様子であった。
一方、ヤギは牧民自身、樹木を食べると認識しており、筆者もヤギ(ヤギのみで構成されている20-30頭程度の群れ)が山の斜面に生えている潅木の葉を食べている光景を大都麻郷にて間近に観察した。ただし、ヤギは旺盛に樹木を食べることは事実であるが、群れの移動速度も速い。また、林内放牧されているヤギであっても、潅木ばかりを選択的に食べているわけではない。そのため、ヤギが樹木を食べた結果の影響については、さらに検討が必要となる。なお、紅石窩郷のインフォーマントによれば、2003年よりヤギを森林に入れてはいけないという規定ができたが、実際には森林のある地域にもヤギを飼っている牧民は存在するのが現状だそうである。
また、水関郷の郷長によれば、規定の土地利用を守っていては牧民が生活できないため、ヤギは潅木を食べてしまうのを承知の上でカシミアが取れるために飼養しているという。さらに、森林とは直接的な関係はないが、現実には単位面積あたりで許可されている家畜数を15%以上超過して放牧しているが、黙認状態との事であった。
なお、甘粛省の当局が考える森林とは、針葉樹林だけではないようである。例えば、『黒河流域生態環境保護及建設規画』12ページには、次のような記述がある。「黒河源流の水源涵養林の保護を強化するには、祁連山の喬木林面積が相対的に安定しており潅木林面積の草原化が著しい現状において、祁連山水源涵養林の主体であり保水能力も大きい潅木林保護が重要になる」。つまり、潅木の生えている場所も「水源涵養林」という認識がなされているわけであり、牧民の認識している「森林」よりはるかに広い領域がそれに相当し、事実上そこを避けて放牧するのは困難となる。
一方、現在行われている森林保護については植林と「封山育林」の2種類がある。植林については、筆者の見る限り、青海雲杉などの喬木に限られているようであった。一般的には、天然林の下端部に植林した樹木が隣接しているというような小規模なものが多いが、場合によっては現在草原となっている斜面に100m四方程度の規模で植林しているようである。孔剛木護林站での聞き取りによれば、孔剛木護林站のみで2002年は150ムー(10ha)の植林を行うという。また、水関郷長によれば、郷で毎年160ムー(10.7ha)造林しなくてはいけないことになっているが、実際には不可能であるとのことであった。
「封山育林」は、森林保護のために林地を有刺鉄線で囲って牧民・家畜の侵入を禁止する措置である。筆者の見る限り、現在「封山育林」の対象となっているのは針葉樹林のほかに川沿いの「柳樹」(西水郷にて実見)などもあり、既存の林地および新たに植林した場所、あるいは植林予定地も「封山育林」されている。孔剛木護林站での聞き取りによれば、牧民を入れると職員にペナルティーが課されるという。そのため、比較的厳格に実行されていると想像されるが、その反面、「封山育林」の周辺にある牧民の冬営地などでは、家畜の食べられない「毒草」が増加したと述べる粛南ユーグ族自治県の幹部も存在した。
また、牧民が生活していくにあたり燃料として、また牧地の囲い込みに用いる杭として木材 を利用していることは否定できない。ただし、後者は近年の現象であり、木製の杭を用いるのは「封山育林」においても同様である。さらに、粛南ユーグ族自治県幹部の1人によると、寺大隆林場は現在こそ「自然保護站」となっており樹木の伐採が停止しているが、2-3年前までは天然林の伐採が行われ、張掖方面へ搬出されていたという。実際、寺大隆林場へ通じる唯一の自動車道路は県中心地を経由せず、直接張掖へ至っている。
また、馬営郷西城村の南側にある山は、1950年代末に現在の住民が移住してきた 当時は北斜面がほとんど森林だったが、伐採して現在は草地になっていると村書記が語っていた。西城村は基本的に牧畜地域ではあるが、必ずしも伐採の目的は牧畜に直接関連のあるものばかりではない。むしろ、人間活動に伴う森林伐採が顕著な森林減少の原因であるといえるだろう。
さらに、しばしば「過放牧」の名で草原の荒廃も牧畜に帰せられるが、これも単純に現地の牧民が大量の家畜を放牧させるために発生しているとは、少なくとも現地の住民は認識していないようである。例えば、馬営郷において草原破壊の原因として言及されたのは薬草掘りである。調査当時も数日前に240名の農民が山麓より押し寄せて漢方薬となる薬草を1人10kg近く掘り、草原を荒廃させたために牧民とトラブルが発生したという。また、水関郷においては、住民が過放牧をせざるを得ないのは郷の総面積の48%を無期限で高台県に貸し、そこで高台県の農民がヒツジの放牧をしているためだと認識されていた。なお粛南の住民の見方としては、牧畜の方が高収益のため高台・臨沢など山麓の農業県は牧畜の発展を推進し、かわりに粛南の牧畜を圧迫しているのだという。
3. 現地で行われている生業に関する調査
現地で行われている牧畜の形態は、基本的にトランスヒューマンスである。ただし、北部の比較的標高の低い地域と南部の比較的標高の高い地域では、各季節に牧地として使用されている土地の景観に若干の違いが見られる。その点について、水関郷と祁青郷を例として以下にモデルを示す。なお、いずれの例についても情報源は郷幹部である。
A) 水関郷
冬・春営地:標高2700-3000m程度。10月下旬に移動してくる。郷中心地周辺の牧地は全て冬・春営地である。また、この高度は森林と同じレベルの高さである。
夏・秋営地:標高3000-3800m程度。6月中旬に移動してくる。車の通れる道がないのでヤクを利用して運搬する。秋営地は夏営地と同じ場所にあるが、秋営地の方が若干標高が低い。
備考:牧地は四季分、全て世帯に分配されている。
B) 祁青郷
冬・春営地:標高3000m程度。12月1日にジープで移動する。場所的には郷中心地の周辺である。なお、移動に使用するジープは各世帯にある。なお、ここは南斜面なので森林は存在しない。
夏営地:標高3800m以上。6月20日に移動する。
秋営地:標高3000-3800m。8月10日に移動する。なお、11月20日〜12月20日の間、畜群を連れて頻繁に移動を繰り返す「移動放牧」を行う牧民も存在する。
備考:夏営地と秋営地の牧地は数世帯で一地域が割り当てられているが、冬・春営地の牧地については各世帯に分配されている。
その他、牧畜に関する概況は以下のとおりである。まず、飼養されている家畜はヤク・ヒツジ・ヤギである。ただし、地域によっては環境的要因により存在しない家畜がある。基本的に、高地への順応性はヤクが一番高く、ヒツジ、ヤギの順で低くなるため、標高の高い地域にはヤギがおらず、標高の低い地域にはヤクがいない。
また、稀に鹿・ロバ・ウマが家畜として飼養されている。鹿は角を漢方薬として販売するために野生鹿を捕獲して飼っており、ロバ・ウマは乗用である。
1世帯で複数種の家畜を飼養することが一般的であるが、ヒツジ・ヤギとヤクの混合群は形成されず2群に分ける必要があるため、管理上の理由からヤクもしくはヒツジを売り払ったり、片方の群れを他人に預託する事例も存在する。また、特に遠方の高地に存在する夏営地においては、さまざまな理由により本人は夏営地へ移動せず、牧夫を雇用する事例が珍しくない。
基本的に飼料は草原に生えている草であるが、冬・春営地においては有刺鉄線に囲まれた小規模の畑地を有し、夏季に燕麦などの飼料を栽培しておく事例が多い。ただし、自家栽培で不足する分の飼料は購入する。例えば祁青郷の場合、世帯あたり15ムー(1ha)の畑で栽培することが義務付けられているほかに、年に5t程度の飼料を農業地域より購入しているとのことであった。
なお、ユーグ族牧民の居住形態は次のようになっている。まず、夏営地・秋営地に関してはテント(チベット式)住まいが多数を占める。場合によっては夏営地・秋営地に固定建築物が建てられているケースも存在するが、家屋というよりは簡易な小屋と呼ぶべき大きさのもので、内部も複数の部屋に区切られていない。その一方で、冬・春営地(冬春兼用の営地)には必ず固定家屋が存在する。固定家屋の構造は現地漢族のものと大差なく、レンガ造りで複数の部屋を有するものである。さらに、営地の家屋とは別に、県中心地や「村部」にある「居民点」に固定家屋を有するケースが存在し、そうした家屋には学校に通う子供や老人が住んでいる。また、こちらの住居においては、冬・春営地の住居には存在しない電気や電話などのインフラが整備されている。つまり、彼らの居住形態は単に季節に応じた移動だけでなく、ライフコース上における居住空間の変更、即ちある一時点を見れば家族の空間的分散をその特徴とする。
4. 住民の移住に関する調査
調査地域における住民の移住については、過去100年間に関し、黒河上流域の住民構成に少なからぬ影響を与えたものを3回確認し得た。まず第一のものは、1920-30年代におけるハルハ・モンゴル人の流入である。平山湖モンゴル族郷幹部からの聞き取りによれば、当時のモンゴル人民共和国政府の仏教弾圧政策などに反発したハルハ住民は、まず中モ国境付近の馬_山(現粛北モンゴル族自治県)へ流入したが、人民共和国側からの襲撃を避けるために平山湖モンゴル族郷や粛南ユーグ族自治県の白銀モンゴル族郷の領域へ再移動したという。これら一連の移住はそれぞれ数回に分かれて行われており、基本的に難民的な移住のため、規模も小さい。
一方、1958-59年に行われた「大搬遷」は、省レベルの政府決定に基づいた政策的移住である。複数のインフォーマントの証言及び『粛南文史資料』などの記述を総合すると以下のようになる。当時、粛南ユーグ族自治県の領域は祁連の南麓、つまり最上流部に至る黒河左岸部および八宝河との合流点近辺の右岸部(いずれも現在は祁連県の領域)まで広がっていたが、1958年に青海の牧民・家畜が大挙して粛南側に押し寄せ、粛南の牧民と紛糾が発生した。その解決方法として甘粛・青海両省は粛南ユーグ族自治県の全住民(明花区を除く)を皇城灘(現皇城区)へ移住させることで合意した。これを受け、1959年2月より移住が開始したが、中央の指令により同年6月に移住を中止し、甘粛・青海両省の境界を再調整して現在に至っている。ただし、この時期に3079人、家畜66940頭が皇城灘に到達し、道中で死者14名、家畜の損失4万頭の被害を出したという。また、聞き取りによれば、この時期より低地の漢族が粛南に流入してきたというが、これは同時に全国規模で行われた「大躍進」の影響が強いと思われる。
上記の事実に関して『粛南裕固族自治県誌』67-68ページの、1954年の粛南ユーグ族自治県総人口が7040人、1964年の総人口が17964人であったこと、また人口増加の主たる理由は粛南ユーグ族自治県の領域拡大と1959-62年の間に漢族人口の流入が発生したためである、という記述とあわせて考えると、「大搬遷」および漢族人口の流入が現地に及ぼした影響の程度を窺い知ることができるだろう。
そして、現在進行中の移住が、1992年に明海郷の東南隅、バタンジル砂漠の辺縁部に作られた「明海許三湾土地開発区」への移民政策である。鐘の解説によると、これは本質的には政府主導の貧困緩和政策の一環で行われたものであり、主たる対象地は明花区蓮花郷など低地の乾燥地域であったようだが、それと同時に祁連山中の牧民を減らす目的のいわゆる「生態移民」の移住先としても位置付けられているようである。例えば調査当時、水関郷では48人(現住人口の約8%)が上記開発区に移住して農業を行っていた。ただし、山地からの移住者に関しては家、土地、家畜を出身地にも保留する「両頭戸」というスタイルのため、山地へ戻る者も少なくないようである。例えば、馬営郷西城村からは、現在の書記も含めて3-4戸が開発区に移住し、合計20万元あまりを使ったが、3年程度で皆戻ってきたという。しかし、粛南ユーグ族自治県の幹部の1人によれば、今後予算の目処が立てば「東部核心林区」(寺大隆林場以東)より開発区へ2000人規模の移民計画があるとのことであった。
5. 文献資料の収集
今回の調査で収集した文献資料は、文末の付録「収集資料一覧」のとおりである。なお、内容の分析に関しては現在進行中であり、詳細については後日改めて発表したい。

u 今後の展望
今後の研究展望については調査内容、調査地域、調査時期の3点に分けて述べたい。
まず調査内容についてであるが、地域の水利用という観点から考えて重要な要素は、人口配置・生業・政策であると考えられる。人口配置については、今回の調査で政策的移民や経済的理由による移住が現在の、そして今後の人口配置を大きく左右することが明らかになった。黒河流域の社会的現実としては、限られた水資源を巡る各地域間のゲームというメタファーがある程度の真実を表現しうるだろうが、そのプレーヤーが「どこで」「何に」「どれだけ」使うのかを考える際、人口配置が及ぼす影響力は非常に大きいと想像される。
人口配置に関する具体的な調査方法は過去の移住原因と現在の移住に至った経緯をトレースし、現在行われつつある移住の動態について明らかにすれば良いのだが、黒河上流域においては牧民(主にユーグ族、チベット族、モンゴル族、回族)、農民(主に漢族、回族)、都市民(主に漢族、回族)という生活形態および民族別にそれぞれ検討が必要となろう。
また、自然科学系の研究との接続可能性を考えた場合、従来民族学(文化人類学)の研究で多く用いられている定性的な研究だけでなく、定量的な現状把握も必要となるだろう。具体的には、黒河上流域で行われている人間活動、つまり生業としての牧畜業・農業・林業・鉱工業などを水利用・木材の利用・活動時に消費するエネルギーなどの観点から定量的に理解するための研究を行うべきである。
さらに、人間活動を規制している要素として政策は無視し得ない。そもそも、本節の冒頭で取り上げた移住についても、また本報告で言及した環境保護についても、いずれも政策に基づいた活動である。黒河上流域においてどのような政策がどのようなレベル(省、県、郷など)で実行され、その実効性はどのようであるかを明らかにすることは、今後のあるべき水利用のあり方を検討する際に有用な基礎資料となるだろう。
次に、こうした項目を明らかにするために実際に調査を行うにあたり、どのような地域を調査するのが望ましいか、という問題を検討したい。まず、政策の違いや環境の違いという点でも調査の便宜という点でも、省の違いは無視し得ないだろう。従来、本プロジェクトにおける「黒河」は甘粛省と内モンゴル自治区の部分のみが考察の対象であった。しかし現実には黒河は、甘粛省へ流入する宝瓶河牧場においても既に相当な流量があり、また青海省にも牧畜や農耕などの人間活動や森林が存在する。さらに牧畜に関しては、青海省祁連県では冬営地でも標高3300m前後と、全く森林に関わらない標高で行われているスタイルのものが存在し、甘粛省のみで考えた場合のように、牧畜民が放牧を行う森林ステップのすぐ上は氷河という図式には当てはまらない。こうした現実を斟酌すると、少なくとも青海省の黒河流域で生活する農民および牧民に関する現地調査が必要となる。調査地としては、祁連県内の数箇所が対象となるだろう。
一方、甘粛省においては、今回の調査から、黒河流域で森林の存在する牧畜地域としては康楽区が適地であることが明らかになった。その他の地域では、さまざまな理由により森林が存在しなかったり(例えば大河区、祁豊区)、あるいは黒河流域ではない(例えば皇城区)など、いずれかの条件に当てはまらない。また、森林に直接的影響を与える林業については、今回の調査では到達できなかった寺大隆林場での調査が必要になる。なお、これらの地域においては、現在進行中の現象である草原・森林の囲い込みの周辺地域に対する影響も評価しうるという利点もある。
調査時期については、今回の調査が牧民の秋営地への移動時期と重なったことを勘案すると、別の時期が望ましいと思われる。例えば夏営地に対する本格的な調査を行うには、7月の調査が必要であろう。ただし、康楽区の夏営地は基本的に道がないため、自動車以外のアプローチ手段を考慮する必要もある。また、主に青海省で行う農耕地域での調査は作物の作付け状況を実見出来るというメリットから、寺大隆林場での調査は冬場には現地へ近づけないという実際的事情より、夏季に行うことが望ましい。
一方、森林と牧畜の関係を調査するためには、むしろ森林に隣接する牧地で放牧を行う冬・春営地での調査が必要となる。また、鐘によれば夏営地では牧夫のみが牧畜に従事し、家畜所有者は県中心地などに滞在しているケースもあるという。牧夫は地元出身者でない場合があり、現地の事情に詳しいインフォーマントを確保するという必要性からも、冬季もしくは春季の調査が必要である。なお、現地へのアプローチについては、今回雇用した運転手より郷中心地までは冬季でも車両の乗り入れが可能なので、郷中心地近辺に存在する冬・春営地に居住する牧民であれば比較的容易に到達できるとの情報を得ている。
そして最終的には、以上のような基本方針に基づいて数回の現地調査を行い、そこで収集したデータを利用して水需給過程グループ全体での総合報告が可能となるような方法論を開発していきたい。

u 付録:収集資料一覧
・書籍および冊子体の報告書
『内蒙古自治区国民経済和社会発展“九五”計画及2010年遠景目標』内蒙古自治区計画委員会、1997年
『甘粛省誌 農墾誌』甘粛省地方誌編纂委員会、1993年
『甘粛省誌 林業誌』甘粛省地方誌編纂委員会、1999年
『甘粛省粛南裕固族自治県 県情与開発』粛南裕固族自治県人民政府、1999年
『粛南裕固族自治県誌』甘粛省粛南裕固族自治県地方誌編纂委員会、1994年
『甘粛省粛南裕固族自治県統計年鑑 1999』甘粛省粛南裕固族自治県統計局、ND
『甘粛省粛南裕固族自治県統計年鑑 2001』甘粛省粛南裕固族自治県統計局、ND
『甘粛省張掖地区農業区画彙編』甘粛省張掖地区農業区画弁公室、1987年
『祁豊蔵族歴史概況』祁豊区公署、1994年
『祁連県誌』祁連県誌編纂委員会、1993年
『祁連工交郷鎮企業資料彙編』青海省祁連県工交郷鎮企業局、1997年
『祁連資源誌』祁連県地方誌編纂委員会、1999年
『祁連水利誌』祁連県水利誌編纂委員会、2000年
『祁連年鑑 1986〜1994』祁連県地方誌編纂委員会、1996年
『高台県誌輯校』張志純等校点、1998年
『黒河流域近期治理規画』中華人民共和国水利部、2001年
『重刊甘鎮誌』張志純等校点、1996年
『重修粛州新誌』甘粛省酒泉県博物館翻印、1984年
『粛南文史資料 第二集』中国人民政治協商会議甘粛省粛南裕固族自治県委員会、2000年
『粛南裕固族自治県牧業区画彙編』粛南裕固族自治県牧業区画弁公室、1987年
『青海省誌 林業誌』青海省地方誌編纂委員会、1993年
『創修臨沢県誌』張志純等校点、2001年(初版:民国31年)
『中国西部辺区発展模式研究』潘乃谷・馬戎(主編)、2000年
『中国牧区水利可持続発展戦略』水利部牧区水利科学研究所・中国水利学会牧区水利専業委員会、1999年
『中国裕固族研究集成』鐘進文(主編)、2002年
『張掖市誌』甘粛省張掖市誌編修委員会、1995年
『張掖地区糧食誌』張掖地区糧食誌編纂領導小組、1999年
『裕固族民間故事集(上冊)』田自成(主編)、2002年
『臨沢県誌』臨沢県誌編纂委員会、2001年
『連城魯土司』趙鵬_、1994年

・その他(最後のパンフレット以外は全てコピー)
「祁青郷経済社会発展状況報告」(郷書記が2002年5月に行ったスピーチの原稿)
「祁連山水源涵養林総合効能評価与建議」
「関于我県黒河流域生態保護及建設状況的彙報」(粛南裕固族自治県が作成)
「康楽区概況」(区公署が作成)
「千里大遷徙」索高年、『粛南文史資料 第一集』所収(pp.21-26)
「張掖市平山湖蒙古族郷簡史」(手書きの原稿)
「民国時期的張掖水利」張中式『張掖地区文史資料』所収(pp.114-117)
「明清以来河西人民保護森林資源」賀敬農・王世積『張掖地区文史資料』所収(pp.108-113)
「全県上半年経済工作現場観摩検査 馬蹄区観摩点状況介紹」(2002年8月に行った視察のパンフレット)


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