中国内蒙古自治区アラシャン盟エチナ旗における自然資源の利用

小長谷有紀(国立民族学博物館)

目次
1.調査対象域の概要
2.モンゴル牧民による自然環境の認識
3.地域史の概要
4.自然資源の利用史
5.<オアシス遊牧>の特徴とその変化
6.<20世紀の居延澤開発>と<21世紀の黒城化>

1.調査対象域の概要
 総合地球環境学研究所における研究プロジェクト「水資源変動負荷に対するオアシス地域の適応力評価とその歴史的変動」の文化人類学班として、2002年6月、中国内蒙古自治区アラシャン盟エチナ旗で予備調査をおこなった。その調査報告として、当該地域における自然資源の利用状況、その問題点および今後の課題を提示する。
調査地域は、祁連山から流れ出る黒河の下流にあたる。もともと湧水線が幾筋にも分かれていたため、数メートルもの葦に覆われた沼沢地であり、いわば<砂漠の中の水郷>であった。たとえば、S.Hedinは「この世の天国」(世界探検全集『ゴビ砂漠探険記』)と表現している。
 そうした地形的特徴を有していたために、北に位置するモンゴル高原でひとたび社会変動が生ずると、つねに南下を招く地域であったし、また、南北間の緊張が高まれば、ただちに軍事要塞化する地域でもあった。20世紀になると、日本軍がこの地に1930年代に特務機関を設置した。戦後、1950年代になると南部に軍事基地が建設され、その結果、追い出された住民も含む一般人の居留地として、北部では農地が開拓された。
 すなわち、漢代の屯田事業と類似の現象が20世紀においても現れた地域であり、その意味では<現代の居延澤>であると言えよう。

2.モンゴル牧民による自然環境の認識
 モンゴル牧民に対する聞き取り調査によって、彼ら自身の自然環境に対する認識を抽出することができる。今回の予備調査では、基本的な構造的把握として「民俗方位」と「地域区分」とが明らかになった。

2−1.民俗方位
 モンゴル族は一般に、北西風を避けるためにこれを背に受けて、南東方向にドアを向けてテントを立てる。そして、南東をオムノomnoすなわち「前(南)」と見立て、北西をホイトkhoitすなわち「北(後)」と見立てる。ただし、エチナ旗においては、そうした民俗方位から約45度ずれている。
2−1−1.住宅の配置
 エチナ旗に限らず、中国青海省あるいはモンゴル国においても、トルグート族は、南東よりもむしろ真東を前と見なす。300年前に西方から帰還した移住の歴史を反映しているのではないかと思われる。
ただし、エチナ旗においては、一年中、西風が卓越しているため、卓越風を避けるという意味でも東向きはまったく合理的である。
2−1−2.川との関係性
 現地の人びとは、地図上の東河(エチナ川)をオムノ・ゴルomno golあるいはオルト・ゴルurt golすなわち「南川」とよび、地図上の西河(ムレン川)をホイト・ゴルkhoit golすなわち「北川」とよぶ。したがって、住宅の配置に反映された民俗方位は、川を軸にした方位とも一致している。
 ムレンmurenというモンゴル語は一般に「大河」を意味する。一方で、細いなどを意味するナリンnarinという名の川もある。そもそも複数の川筋があり、下流域ほど枝分かれをしていた。
下流はドルdorすなわち「下」とよび、上流はデーシdeeshすなわち「上」とよぶ。これは、民俗方位観において、まず南面して、右を上位と見立て、左を下位と見立てる感覚とも一致する。
このように、当該地域における民俗方位は、「西から帰還したという集団の歴史的記憶」と現在の「卓越風の回避という実利」と「川筋という認知上の大きな指標」と「上下感覚」とが矛盾無くおさまるようになっている。
2−2.類型的表現
 現地の人びとが自然環境についてモンゴル語で言及するとき、類別的な表現が明示的に利用される。
予備調査は、ちょうど夏営地への移動が始まる時期であり、そのために不在になった家について、「ゴビに行った」「ゴビに出た」「コルkolに行った」という表現が常時もちいられた。夏営地に滞在しているために、直接見ることのできない冬営地については、「木の中にある」「タマリスクの中にある」といった表現がしばしばもちいられた。また、近年、定住を開始した場所については「ゴビのデンジdenji」「川のデンジdenji」あるいは「黄色(モンゴル語でシャルshar)」を選んだなどという表現がみうけられた。
 また、放牧方法については「ゴビの草と川の草を均等に食べさせるのが良い」という考え方が強い。
 こうした日常的表現に共通しているのは、「川(筋)」と「ゴビ」との対比である。一方の「川(筋)」には、胡楊トーライtuuraiや沙棗ジグドjigdなどの樹木が連なっており、したがって、「木の中」という表現は、川筋と同義となる。他方、「ゴビ」とはまばらな植生の見られる砂漠性ステップを意味するが、その中にはコルkolすなわち「足」とよばれる葦原がある。これは、かつての河川の跡である。また、デンジdenjiとは、これら川筋とゴビとのちょうど境界上に位置する台地である。

2−3.地名表現
 地名表現からも自然環境に関する認識をうかがうことができる。『額済納旗誌』に「一般居民点」として掲載されている287の地名のおおよその傾向は以下のような特徴がみられる。
 多様な地名表現のなかでも、その35.3%が水に関する表現で、とりわけ下流域の川の上流・中流・下流を区別した表現が多い。
続いて、25.9%が植生に関する表現であり、とりわけ胡楊などの樹木が指標とされやすい。足(コルkol)とよばれる場所は、もとオアシスであったところであり、地下水位が高いため、砂漠の中の居住可能地点として利用されている。
地形に関する表現は、他にくらべて言及される内容が分散している。ボーログboorogとよばれる砂丘をはじめ、マウンドに関する多様な表現が用意されているといえよう。
 また、人工物に関する表現のなかでは、チョンジchonjiとよばれる「のろし台」の遺跡を指標にしているものも多く、本対象地域ならではの特徴となっている。

3.地域史の概要
 当該地域における過去半世紀の歴史的変容については、すでに中村の報告がある[中村・尾崎2002]。それにもとづいてまとめると、変容は、「人口増加」「農耕開拓」「軍事基地の建設」という3点にしぼることができよう。さらに、今後の研究に資するために、社会現象に注目して、過去半世紀を時代区分しておく。

3−1.人口増加
 1949年に2000人程度だった旗内の人口は、20世紀後半の50年間に約8倍に増加した。ただし、現在の人口の60%余は漢族であり、また60%余が旗中心地に集中している。
すなわち、都市的中心地が建設され、もっぱら(南部や西部から)漢族が移民してきたことによる人口増加が著しい。

3−2.農耕開拓
 1949年までほとんど存在していなかった農地は、1980年代にピークを迎え、現在20万ムーにとどまっている。そのうちの15万ムーがソゴノールソムにある。農耕開拓は水利事業をともなっており、旗内における水門と用水路の建設のほかに、旗外における水利事業の影響を著しく受けた。
 たとえば、源流の一つであった北大河が断たれたのは1970年である。
 また、1979年には甘粛省から内蒙古自治区に所属を移管され、その後に放水量が激減したと言われる。

3−3.軍事基地の建設
 解放軍は、1958年に旗南部に属するバヤンボグド郡の全住民を強制移住させて、駐屯した。やがて中ソ冷戦が始まると、基地としての重要性が高まり、60年代に旗内にいくつもの築山が建設され、住民は、遠隔地もしくは農耕開拓地に「ただで飯を食わせてやる」などと言われて、強制移住させられた。

3−4.時代区分
3−4−1.中華人民共和国の成立1949年
 「解放」以降、多くの牧民にとって、担当していた家畜の所有主が「寺」や「富裕者」から「軍」に変わった。つまり、<動産の社会的再配分>がおこなわれたのである。
3−4−2.人民公社の成立1958年
 「大鍋を食らう」時代の到来は、動産の社会的再配分にとどまらず、<不動産の社会的再配分>すなわち、行政区域の確定と農地の指定がおこなわれた。また、隊中心地への集住が農地開拓とともに顕著にみられた。
3−4−3.草畜双承制の実施1983年
 文化大革命の十年動乱期が終わり、人民公社が解体して生産請負制が始まると、当該地域では比較的初期に家畜と草原とが同時に配分された。すなわち<動産と不動産の社会的再配分>がおこなわれた、と言えよう。今度は、隊中心地が空洞化し、牧民は分散居住しはじめた。
3−4−4.生態移民の開始2001年
 北京での砂嵐がひどくなり、その元凶としての砂漠化を防止するために、黒河流域は重視される。上流域での森林保護、中流域での節水作物推進とともに、下流域にあたる当該地域では、胡楊林を守るために1500人の強制移住が計画されており、3年間で実施するよう中央政府から義務づけられている。
 この新しい<不動産の社会的再配分>において移住先として提示されているのは、遠隔地およびかつての隊中心地である。したがって、人びとにとってはまさに強制的集住時代の再来と感じられている。
 
 以上のように、中国においては、動産ならびに不動産という二種類の生産資源が、つねにその時々の脈絡で社会的に再配分されてきた。いままた、ふたたび、ただし、今回は生態環境を保護するという脈絡で、牧民の生活圏が奪われようとしている。

4.自然資源の利用史−季節移動を中心に
 上述のような社会変容のもとで、自然資源をめぐる利用も変わらざるを得なかった。予備調査では、おおよその傾向をつかむことができた。先述の時代区分に即して、季節移動のパターンの変化として、以下のようにまとめることができる。

4−1.人民公社成立以前(〜 1958)
 基本的に、植生に恵まれていた時代には、アオシス域内において数H程度の距離で季節移動をおこなっていたらしい。
 秋になると胡楊の落葉を集めて越冬資料とした。沙棗の実は人用かつ畜用の食料となった。このため、秋から冬にかけて川筋にとどまることが多い。春の出産期を終えて夏になると、風通しの良いゴビへ出る。ゴビの植生は、雨がありさえすれば緑になるので、雨を追うように簡易移動(オトルotor)をおこなう。ゴビに到着すると、まず井戸の底にある泥炭[lai]を掃除して継続的に利用する。それが不可能な場合には、川のそばに出て、穴堀[tataar]をして柄杓で水をすくい、丸い水筒(タシマグtasimag)に入れてラクダで運ぶ。すなわち、「夏にゴビ、冬に川筋」という移動パターンの原則があった。
 ラクダや馬の群れとしての放牧は、オアシス外部でもおこなわれた。オアシス外へは、移動力の高い人(大型家畜を所有する富裕な人)が移動した。
 ムレン河の方がエチナ川よりも水量豊富で、沙棗の回廊林もあった。川には四季を通じて水があり、川の魚を取って帰ると、両親に「仏をつかまえるなんて罰当たりめ。すぐ返してこい」と怒られた。

4−2.人民公社の時代(1958〜1983)
 もっぱら川筋で農地開拓がおこなわれた。このため、作付けする春になると早々に畜群はゴビへ追い出され、収穫が終わった頃に家畜を畑に入れることが許された。すなわち、「夏にゴビ、冬に川筋」という基本的な季節移動のパターンが、農地開拓によって強化された。
 湖岸や川岸の葦(ホルスkhuls)は、大量に伐採されて都市に運ばれ、建築材(屋根葺)となり、ゴビの潅木ザグzagは、大量に伐採されて燃料として消費された。
 人民公社によっては、馬や牛の群れを湖岸で放牧していた。
 とくにムレン河の水量が激減し、沙棗林がなくなり、ガションノールが消えた。一方、エチナ川沿いに沙棗林が植林された。

4−3.生産請負制の時代(1983〜)
 ラクダの放牧は、誰もがどこでもできるわけではないので、草地と家畜が配分された時点でラクダの放棄が進んだ。また、移動手段の喪失とともに「定住化」も進んだ。
 そもそも、木の中にある冬営地にはオープンスペースがない。そこで、黄色(シャルshar)とかデンジdenjiなどとよばれる平らで開けたゴビが定住地としてもっぱら好まれた。また、胡楊林を保護するために張られた柵の中では原則として放牧できないこともあって、ゴビの方に固定家屋を建設することが奨励された。ただし、川の水を灌漑に利用する畑がある場合には、畑のある冬営地を定住拠点とする場合もある。
 草地の劣化が著しいために、もはや飼料作物に頼らざるを得ない「定着牧畜」に移行しつつある。農牧局からは「舎飼い」が奨励されているものの、牧民のあいだでは、定住しても草地での放牧が重視されている。また、ラクダについては、特定戸に委託してゴビのなかの葦原や遠隔地で放牧するという方法も採用されている。
 エチナ川の胡楊もしだいに枯れてきて、1992年にソゴノールも完全に消えた。ムレン河跡付近ではすでに砂漠化が進行している。
 
5.<オアシス遊牧>の特徴とその変化
 当該地域でおこなわれていた、オアシスの空間内部を草地として利用する遊牧を<オアシス遊牧>とよぶことにする。これは、西アジアで一般によく見うけられるような、オアシス都市と経営上結びついている、オアシス域外でおこなわれる遊牧とは異なっている。そうした商業的遊牧活動を、オアシス内部にとどめた、より自給的完結性の強い遊牧ということができる。
 この<オアシス遊牧>は、その恵まれた自然環境ゆえに、基本的にオアシス内部で完結することも不可能ではないほどの季節移動をともなう放牧であった。しかし、人民公社時代にオアシス域の農耕開発が進むにしたがって、オアシス外のゴビと季節的に組み合わせて利用する遊牧へと移行した。
 さらに、現在では「生態移民」とよばれる政策の下で、大半の牧民がオアシス域外(砒素中毒が伝えられる馬髭山、フッ素中毒で知られているグルネイ、狼害のひどいホンゴル山)に放逐されるか、もしくは農耕地に定住して飼料作物で家畜を飼養する「定住牧畜」かを迫られている。<ヤギより狼が大事、人より胡楊が大事>の現代に、彼らに許された選択肢はいずれも厳しい。

6.<20世紀の居延澤開発>と<21世紀の黒城化>
 軍事拠点という地理的特質は20世紀においても一定の価値をもち、したがって軍事と密接にむすびつきながら当該地域の開発が進められてきた。その意味でまさに<現代の居延澤>がごとき開発であったと言えよう。しかし、中流域で水が膨大に消費され、河川流量が管理されて激減している現在では、河川が消失し、居住が放棄され、砂漠化が進行している。現在、生じつつある廃墟群は、まさに未来の遺跡である。その意味で<現代の黒城化>とよんでも過言ではあるまい。深井戸の開発は、その進行を遅らせているにすぎないと思われる。
 そもそも、氷河の融解によって季節的に洪水をもたらしてきた2大河川(黒河と北大河)は、狭隘部を抜けて当該地域に入ると左右に広がった扇状の緑地を形成していたと推測される。この扇状オアシス域のうち最東部に位置する小川は、流れが弱くて制御しやすかったからこそ「弱水」とよばれたのであろう。2000余年前から開拓しえた「弱水」は、それゆえに上流での水利事業や農地開発の結果、消失しやすかったと推測される。現在ではコルとよばれる葦原がかつてのオアシスの名残をとどめるばかりで、広かった緑の扇は、河西回廊の開発とともに狭いものになってゆき、現在もさらに狭まりつつある。
 黒城および広義の居延澤の終焉については、いまのところ伝説を頼りに語られているにとどまり、文献と整合性のある歴史的事実は明らかになっていないようである。当該下流域の食糧難などで示される困窮化と、中流域での開拓史とを呼応させて史料を読むとき、明らかになることは多いにちがいない。
 2000年の歴史を再構築する本プロジェクトにおいて、文化人類学班の担当するのはわずか50年にすぎない。にもかかわらず、その50年から全貌をこのように推測することができるのは、この50年のインパクトの大きさを示している。と同時に、予備調査の役割が果たされたことを示しているだろう。
 予備調査では、有力なインフォーマントを得て、じっくりと老人の話を聞くことができなかった。このため、詳細な資源利用の再現は今後にゆだねたい。ただし、文化人類学班全体として、各地に分散して従事する研究を統合的にするためには、統一的な内容に関する聞き込みを必要とするであろう。


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