モノと情報班・道具のエッセイ
 
道具のエッセイ

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民族衣装が結ぶ文化

−雲南省屏辺県のミャオ族の民族衣装−

                                      宮脇千絵

 

ミャオ族の民族衣装

 中国雲南省は、漢族以外に25の少数民族が暮らす多民族省である。各
民族の特徴を示す文化的要素は様々であるが、私はその中でも民族衣装に
興味を持っている。民族衣装は、着用するだけで、着用者にとっても、それを
見るものにとっても、帰属を最も分かりやすく示すモノのひとつである。各民族
には特色ある民族衣装があり、特に、ベトナム、ラオス、ミャンマーとの国境付
近では、現在でも多くの女性たちがそれぞれの民族衣装を着用して生活して
おり、その色彩豊かなデザインには目をみはるものがある。


 ここでは、その中でもミャオ族の民族衣装を取り上げる。ミャオ族は、雲南省
以外にも貴州省、湖南省、四川省など広い地域に散住しており、地域ごとに
民族衣装のデザインが異なる。その数は、例えば2000年出版の『中国苗族服
飾図誌』によると、173種類にものぼる。ミャオ族の民族衣装の多様さは、精
巧な刺繍や多様な製作技術、独特の図柄やデザイン、煌びやかな銀製の装
飾品などからなり、そうした衣装の多様さが国内外から注目されてきた。外国
人コレクターや芸術家からも高い評価を得ている点で、特に有名なのは、貴州
省の黔東南ミャオ族トン族自治州の民族衣装である。この地域の民族衣装
は、「姉妹飯」「龍舟祭り」などのミャオ族の祭りの観光化に伴って有名になり、
今やミャオ族を代表する民族衣装となっているといえる。

 

   鼓蔵節の衣装      姉妹節の衣装

    鼓蔵節での衣装               姉妹節での衣装〔孫2002:58〕

 

一方で、観光資源として注目されることがなかったにも関わらず、国内外へ
と流通している衣装がある。それが、雲南省の紅河ハニ族イ族自治州・屏辺ミ
ャオ族自治県(以下、屏辺県)の民族衣装である。

 

屏辺県のミャオ族の民族衣装製作と流通

屏辺県は、ベトナムとの国境から約100kmのところに位置する。総人口
約13万人のうち、ミャオ族の人口比は約38%であり(1990年)、ミャオ族のみ
ならずイ族、ヤオ族など多くの女性が、現在でも普段から民族衣装を着用
している地域である。

屏辺県のミャオ族の民族衣装は、他の地域のミャオ族の民族衣装と比べ
ると、明らかに新しさを感じる。昔ながらの技術を受け継いで作られた民族衣
装を期待していた私にとっては、薄い化繊の布やカラフルなプリント、科学染
料の糸での刺繍、蛍光色のプラスチックビーズがとても異色なものとして映っ
た。

 

            屏辺県のミャオ族

           屏辺県のミャオ族の衣装

 

屏辺県の県城である玉屏鎮の町では、従来、家庭内で製作・消費されて
いたミャオ族の衣装が、1980年代から徐々に町の商店で製作・販売され始め
た。その商店の多くはミャオ族女性の経営で、2002年10月の時点で十数軒あ
った。雲南省では、定期市の日に露店で既製の民族衣装が売られている光景
をしばしば目にすることができる。だが、玉屏鎮のように専門の店が建ち並ぶ
というのは珍しい。また、店舗の場所も町の目立つところへと移転している。
私が2002年3月に訪れた時は、市場の片隅に間口の狭い店が密集していた
のだが、2002年10月には市場の改装に伴い、それぞれが大通りに面した店
舗を構えるまでになっていた。玉屏鎮に住むあるミャオ族の男性の話による
と、既製の民族衣装を扱う商店は、この屏辺県と隣の文山チワン族ミャオ族自
治州でしかみられないという。

もともとミャオ族は、素材となる麻の栽培から始め、麻の収穫、糸紡ぎ、織
り、藍でのロウケツ染め、刺繍などと多数の工程を経て、民族衣装を製作して
いた〔顔2001:11-19〕。その衣装製作は、家事や労働の合間に行う女性の重
要な仕事であり、その技術は、母から娘へと受け継がれるものだった。特に刺
繍は、文字を持たないミャオ族にとってその時々の出来事や思いを綴るという
意味も持っていた。だが、玉屏鎮で新しく製作されている民族衣装をみると、
麻布は化繊の布へ、手刺繍は機械刺繍やチロリアンテープの使用へ、木の実
の装飾からプラスチックビーズを使用した装飾へ、藍でのロウケツ染めからロ
ウケツ染め風のプリントに、手縫いからミシンでの縫製、というふうに素材や工
程が大きく変化している。

そこで、屏辺県で既製服となった民族衣装製作の現状を示すため
に、民族衣装の製作と販売に携わるいくつかの商店の様子を紹介しよう。

 

買い物           民族印染廠の店内

玉屏鎮の商店に買い物に来たミャオ族   「民族印染廠」の店内

 

個人商店を営むYさんは、ミャオ族の女性である。私が2002年3月に知り
合った時は、まだ店を持っておらず、普段は自宅で製作に励み、週に一度
の定期市の日に露天を出して商売をしていた。2002年10月には、大通りに店
を持ち、従業員を2人雇っていた。店先にミシンを並べ、次々とスカートや上着
を縫い上げて、陳列していくという最も一般的な形の店舗だと言える。

同じく個人商店を営むLさんは、イ族である。Lさんも市場の片隅から大通
りへと店を移転させていた。Lさんがイ族であるにも関わらずミャオ族の衣装製
作・販売に関わっているのは、ミャオ族の衣装のほうが、よい商売になるから
だということであった。実際、イ族の民族衣装を製作したところで、ほとんど買
い手がないのだという。言い換えれば、それだけミャオ族の民族衣装が商品
として認められているということだろう。

一方、ミャオ族女性のTさんがオーナーを勤める家族経営の工場がある。
この「民族印染廠」はTさんの夫の前妻が1978年に設立したものだが、現在
は後妻であるTさんがオーナーとなっている。商店と、染め場、ミシン場に分か
れており、それぞれ従業員が分担して仕事に就いている。ちなみに、現在町
で店を構えている店主の多くは、以前この工場で働いた経験のある人が多い
という。

 

ミシン場の様子                染め場の様子

ミシン場の様子(民族印染廠)         染め場での作業(民族印染廠)

 

商品となったミャオ族の衣装の流通経路は多様である。週に一度の定期
市の日には、県内の村落から買い物に来たミャオ族の女性たちが客となる。
民族衣装の商店が立ち並ぶ通りは、市場のメインストリートともなり、この日だ
けの露天商も含め、多くの人で賑わう。

 また近隣県からは、ミャオ族の衣装売買を生業としている人が仕入れに来
ることもある。すでに述べたように、他の地域にはこのような専門の店がない
ので、屏辺県に集まってくるようである。北京などの都市へ土産物や記念品と
して流通していくものもある。Lさんの店では、工芸品として北京などと取引し
ているし、Tさんの工場には町中のホテルの商店から注文が入ることもある。

さらにTさんの工場では、アメリカに在住するミャオ(モン)族の人々とも電話やFAXで取引をしている。このアメリカ在住のミャオ(モン)族とは、もともとラオスから難民として渡って来た人々のことである。ラオスでは、ベトナム戦争時に、山岳地帯に住むミャオ(モン)族がアメリカ軍のゲリラ部隊として組織された。だがアメリカの敗戦後に、共産主義の中に置き去りにされたミャオ(モン)族の人々は迫害されることとなり、メコン河を渡ってタイに逃れ、そこから難
民としてアメリカなどに渡ったという歴史を持つ[乾1998]。Tさんの夫の話によ
ると、1992年にアメリカ在住のミャオ(モン)族の人々が、雲南省に同胞を訪ね
る旅行に来たのがきっかけで、民族衣装の売買が始まったという。こうして、
屏辺県のミャオ族の民族衣装は、アメリカに渡ることとなり、さらにアメリカを経
由して彼らの故郷であるラオスのミャオ(モン)族にまで流通するようになった。
民族衣装が雲南−アメリカ−ラオスを結びつけたのだ。

 

文化を結ぶ民族衣装

注目すべきは、屏辺県で製作されているこれらの既製の民族衣装は、い
わゆる観光客向けの工芸品ではなく、あくまで屏辺県のミャオ族自身が消費
する実用的なものだということである。ミャオ族の民族衣装の代表格とされる
貴州省の場合、民族衣装などの少数民族文化は、観光資源として発展したた
め、昔ながらのデザイン、スタイルを保つことが求められた〔曽2001〕。だが屏
辺県では、これまで観光化されなかったこともあり、製作者や消費者の要望に
よって、自らが着用する民族衣装の素材や製作工程の合理化・簡略化を進
め、デザインも自由に変化させてきたのだろう。それが、他の地域みられな
い蛍光色の色彩や、チロリアンテープやプラスチックビーズなどの多用につな
がり、私の目にとても新鮮に映ったのだ。

 

 スカート布         ビーズ縫い

 チロリアンテープを縫い付けたスカート布   プラスチックビーズを縫い付ける

 

そして、屏辺県で製作されたミャオ族の衣装には、実用品として、近隣の
村や県のみならず、先に述べたように、アメリカやラオスにまで流通していると
いう特徴がある。

ところで、雲南省からラオスへのモノの流通は、国境を接していることもあ
り、当たり前のように思われるかもしれない。だが実際は、ミャオ族同士の少
数民族レベルでは、中国とラオスの国境を越えての関係性はもともととても薄
かった。その理由としてまず、新中国成立以来、社会主義建設のために求め
られたのは、漢族との関係であり、国外の同一の民族集団ではなかったとい
うことがある〔谷口1992:141〕。そして、1990年に国境貿易が推奨されてか
ら、国境貿易の拠点が各地につくられているが、実際に直接的な利益を得る
のが主に漢族だということがある〔松村2000:110-111〕。私が屏辺県のある
男性に、なぜラオスと直接取引をしないのかと尋ねたときも、ルートも方法も
分からないからだという答えであった。だが、屏辺県で民族衣装製作に携わっ
ている人たちは、もともと国境を行き来する関係がなかったにも関わらず、現
在アメリカを介してラオスのミャオ(モン)族の情報を得られるようになってき
た。

その背景には、雲南省ではミャオ族の民族衣装が、アメリカを経由してラ
オスに渡っているという現実があるからだ。さらに雲南−アメリカ−ラオスとい
う回路を反対方向に、つまりラオスからアメリカを経由して屏辺県へともたらさ
れているモノにVCD(Video CD)がある。このVCDは、アメリカ在住のミャオ(モ
ン)族の人々が、ラオスで撮影したもので、ミャオ語のドラマやミャオ族の歌や
舞踏などが収録されている。玉屏鎮の人々はこれらのVCDを見ながら、これま
でほとんど知らずにきたラオスの同胞の情報を得ている。衣装というモノが両
者の間を結びつけ、両者の関係が生まれたからこそ、屏辺県のミャオ族は、ラ
オスのミャオ(モン)族との衣装や言語、文化などの一致あるいは類似を知り、
親近感を得るようになったと言えるだろう。

 

まとめ

屏辺県の民族衣装をみると、衣装というモノがひとつの文化の枠を飛び越
え、国境間の関係を結んでいる。今や単に同じ民族だから同じモノ(衣装)を
使用しているという前提だけでは捉えきれない状況が屏辺県で展開している
のだ。モノの分布を単に地図上に示すだけではなく、分布の過程や背後の詳
細ついても検討する意義は大きい。モノからグローバルな移動を追うことで、ロ
ーカルな社会や人々の動きまで読み取ることができるのである。

 

引用文献

乾美紀 

1998「故郷を失ったモン族」『季刊民族学84号』財団法人千里文化財団

顔恩泉

 2001「雲南苗族服飾的伝統与変革」『中国西南文化研究5』雲南民族出版社

呉仕忠

 2000『中国苗族図誌』貴州人民出版社

曽士才

2001「中国における民族観光の創出−貴州省の事例から−」『民族学研究 第66巻第1号』

孫重貴編

2002『黔東南之旅』湖南文芸出版社

谷口裕久

1992「「ミャオ」カテゴリーのアイデンティティの位相」『社会学雑誌9』神戸大学社会学研究会

松村嘉久

2000『中国・民族の政治地理』晃洋書房